※歴史資料としての手紙研究※
言葉を精神で反芻できる動物
それこそが 人間だ
だからこそ 言葉は言の「葉」
そして 意味は意の「味」
それは言葉遊びに留まらない
言葉が全ての物事に及んでいるならば
言霊を信じる 精神という感覚・消化器官がある限り
永劫不変 言葉を受けて発することを拒めない
全ての言葉が心の栄養となり 命の意義を保つためにあるから
以上は或る所の 視覚障害を持つ誰かが 機器を使って音声入力を文字変換し、外国に暮らす 聴覚障害を持つ戦友へ宛てた文書から抜粋した。
ちなみに、その文書には戦友が暮らす当地の言語で翻訳された文章と 手話通訳業務を委託できる紹介状も添付されていたが、受け手の彼は目も患って 精神も衰弱していた。
昔 彼は文書を送ってきた戦友のために、点字を学んでいた。
しかし、送り主が暮らす所では 点字が使われなくなっていた。
戦友同士の二人が暮らす それぞれの土地は、ほとんどの交流が政治問題をきっかけに断絶状態が 長く続いていたという資料がある。
前述の抜粋した文は、言葉の音声の響き、文字の形、思想による定義を省いたうえでの存在意義を説いた標語として 綴られたものであると解釈できる。見方によっては、視覚と聴覚は書き言葉や話し言葉が 外国語かそうでないかを区別してしまう、ある意味で理解することを阻害しかねない感覚となっていることを、彼らの身になって考えさせてくれるものである。
人間の味覚や食べるということに、大きな分断はないのである。
閉口せざるを得ない今日、点字などの書き言葉も復興しつつあるが、いまだに話し言葉から産声を上げた 言語という伝達手法が発音の違いを克服できず、また 文字と意味の統一の一歩が踏み出せていない。
分断と共同の作用は、人人の精神から接近解明していくという指針をとりたい。
日本語解読研究室 助教授