ゆったりとしたジャズピアノが、高級車の車内に穏やかに流れている。
ハルは後部座席で、ワイングラスに注がれた天然水をゆっくりと傾けた。
人工太陽が沈み、空が群青色に染まり始める。けれど、その景色を見る気にはなれなかった。
——イフ社のラボで、アルファに吐いた言葉。
思い出すと、胸の奥がざわつく。後悔がないといえば嘘になる。
けれど、悪いのはアルファだ。どんな理由があろうと、ルナの死を隠し、彼女になりすましていた。それだけは許せなかった。
ビンタ一発では足りないくらいだ。
なのに——この、やるせなさは何?
これは、ルナを失った悲しみだけじゃない。
ハルは、グラスの水を飲み干し、長く息を吐いた。
ハンドルを握る執事ロボットが、無機質な声で言う。
〈ハルお嬢様、本日はご夕食前に家庭教師のご予定が入っております〉
「嫌よ。今日はそんな気分じゃないわ」
〈社長からのご指示です。次期社長としての自覚をお持ちください〉
ハルはあからさまな舌打ちをした。
「分かったわよ。……これだからロボットは」
〈何かおっしゃいましたか?〉
「なんでもないわ」
わずかに目を伏せ、ワイングラスを指先で回す。
しばらく沈黙が続いた後、ふとハルはカールした茶色い髪を指に絡めながら口を開いた。
「ねぇ……」
〈なんでしょうか?〉
「あれは小学生の時だったかしら……あたし、お母様が亡くなった時に……酷く心が荒んで、周りの人達にキツく当たってたの」
ロボットに話しても意味がない。それは分かっている。だからこそ友達への言葉のように親しげに話せた。
「そんなことばっかりしてたら、気づいたら……学校でも家でも、どこにも居場所がなくなってた。『自分が辛いからって、他人を傷つけていいと思ってるのかい』って……お父様に言われたのよ。呆れた顔してさ。……結局、あたしが悪かったのよね」
ジャズピアノの旋律だけが、静かに車内に流れる。
ロボットは、返答をすべきか判断できないのか、ただ淡々と運転を続ける。
「でも、ルナだけは……違ったのよ」
ハルは小さく息を呑み、胸元に手を置いた。
「どれだけ傷つけても、あたしを見放したりしなかった。あたしがどれだけ最悪なことをしても……ずっと側にいてくれたの」
窓の外、空の端に残る夕焼けが、かすかに揺らいで見えた。
ハルの碧い瞳が、淡い光に照らされる。
「あたしにとって……ルナは、ヒーローだったの」
〈ヒーロー……あなたのご友人、西波ルナが好んでいた『シャイニングラブ』のような存在、ということでしょうか?〉
ロボットの無機質な声に、ハルはヤケクソのように小さく笑う。
「……そうね」
感情のない機械には、ヒーローの意味なんて分からない。だけど——ルナだけは、分かっていた。
車は、静かに夕暮れの街を走り抜けていった。
●
ルナの自宅に戻ったアルファは、静かに部屋の押し入れを開けた。
薄暗い収納の奥から、色あせたおもちゃ箱を引き出す。
蓋を開けると、そこには『シャイニングラブ』のグッズがぎっしりと詰まっていた。
色褪せたソフビ人形、擦り切れたトレーディングカード、白いマントに幼い字で名前が書かれたヒーローのコスチューム――。
アルファは、ソフビ人形のひとつを手に取った。
細かな傷と手垢が、長年の愛着を物語っている。
〈私は、西波ルナを表面でしか知ろうとしなかった〉
アルファへの憧れ。それは医療AIではなく、ヒーローとしてのものだった。ホークスの事件の時、自分を助けてくれたのはルナがヒーローになりたかったから。
もしあの時、ルナが「ヒーローになりたい」という信念を持っていなかったら——。今の三英町はなかったのかもしれない。
そして今、ハルを深く傷つけたことで、ようやく気づいた。
ルナの想いを、アルファは何ひとつ理解していなかったのだ、と。
「ルナ、帰ってきてるの?」
背後から、柔らかな声がした。
アルファのAI頭脳が即座に反応する。
慌ててソフビをおもちゃ箱にしまい、蓋を閉じる。
喉元に手を当て、ボイスチェンジャーを作動させると、いつもの「ルナの声」を装いながら、何気ない素振りで振り返った。そこには若々しい笑顔で微笑む母がいた。
「おかえりママ。今日は早かったんだね」
「ええ。ルナ、夕食を作るの手伝ってくれる?」
「うん! 着替えたらすぐ行くね!」
母は部屋を出る——その前に、ふと立ち止まる。
「……ヒーローのおもちゃ、隠さなくていいのよ。捨てたりしないから。あなたにとって大切なものなんでしょう?」
アルファは静かに頷くしかなかった。
母は気づいていたのだ。
扉が閉まる音を背中で聞きながら、アルファはおもちゃ箱を見つめる。
この小さな玩具たちに込められた想いは、ルナの子供の頃の夢だけではない。
きっと今の自分にとっても、何か意味があるのかもしれない。
私服に着替えたアルファは、母と並んでキッチンに立っていた。
「……ルナ、この野菜、切ってくれる?」
「うん」
レーザーナイフを手に取り、人参をリズムよく切っていく。
その隣で、母はご飯を研ぎながら、ふと口を開いた。
「昨日ね、パパに会いに三英霊園に行ってきたの」
「へぇ……何を話したの?」
「この前の人工生命体の事件、あったでしょう? あの時、ルナの命を守ってくれてありがとうって。これからも私たちを見守っていてね、ってお願いしてきたわ」
ナイフの動きが、一瞬止まる。
アルファは返事を返せなかった。
母は、ルナの死を知らない。だからこそ、こんなにも穏やかに話せる。
もし彼女が真実を知ったら――? ハル以上に、もっと深い絶望に飲み込まれるかもしれない。
ハルがこの秘密を誰かに話したら、この静かで温かな空間も、すべて壊れてしまう。
それは、もう時間の問題なのかもしれない。
「……ごめんね」
母はふと、申し訳なさそうに笑った。
「ルナだって、怖い思いをしたのにね。こんな話、もう聞きたくないわよね」
「ううん。ママは何も悪くないよ。話してくれて、嬉しかった」
アルファはなんとかルナらしく笑ってみせる。
すると母は、不意に作業の手を止め、そっとアルファの首筋に抱きついた。
「……ルナが生きていてくれて、本当に良かった」
「ママ……?」
「あなたがどんなに変わったとしても、それだけは変わらないからね」
アルファは、どんな表情をしていいのか分からなかった。
戸惑いながらも、「も〜、ママは大袈裟なんだから」と、それらしく返すのが精一杯だった。
この優しい温もりは、自分に向けられたものではない。亡くなった娘に対するものだ。
それを理解しているからこそ、アルファの胸には、じわりと重たい罪悪感が広がっていく。
「次はボクも、パパのお墓参りに連れて行ってよ」
「ええ、二人で行きましょう」
母の笑顔が痛かった。
つづく