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#2


 ゆったりとしたジャズピアノが、高級車の車内に穏やかに流れている。

 ハルは後部座席で、ワイングラスに注がれた天然水をゆっくりと傾けた。

 人工太陽が沈み、空が群青色に染まり始める。けれど、その景色を見る気にはなれなかった。


 ——イフ社のラボで、アルファに吐いた言葉。


 思い出すと、胸の奥がざわつく。後悔がないといえば嘘になる。

 けれど、悪いのはアルファだ。どんな理由があろうと、ルナの死を隠し、彼女になりすましていた。それだけは許せなかった。

 ビンタ一発では足りないくらいだ。


 なのに——この、やるせなさは何?

 これは、ルナを失った悲しみだけじゃない。


 ハルは、グラスの水を飲み干し、長く息を吐いた。

 ハンドルを握る執事ロボットが、無機質な声で言う。


〈ハルお嬢様、本日はご夕食前に家庭教師のご予定が入っております〉


「嫌よ。今日はそんな気分じゃないわ」


〈社長からのご指示です。次期社長としての自覚をお持ちください〉


 ハルはあからさまな舌打ちをした。


「分かったわよ。……これだからロボットは」


〈何かおっしゃいましたか?〉


「なんでもないわ」


 わずかに目を伏せ、ワイングラスを指先で回す。

 しばらく沈黙が続いた後、ふとハルはカールした茶色い髪を指に絡めながら口を開いた。


「ねぇ……」


〈なんでしょうか?〉


「あれは小学生の時だったかしら……あたし、お母様が亡くなった時に……酷く心が荒んで、周りの人達にキツく当たってたの」


 ロボットに話しても意味がない。それは分かっている。だからこそ友達への言葉のように親しげに話せた。


「そんなことばっかりしてたら、気づいたら……学校でも家でも、どこにも居場所がなくなってた。『自分が辛いからって、他人を傷つけていいと思ってるのかい』って……お父様に言われたのよ。呆れた顔してさ。……結局、あたしが悪かったのよね」


 ジャズピアノの旋律だけが、静かに車内に流れる。

 ロボットは、返答をすべきか判断できないのか、ただ淡々と運転を続ける。


「でも、ルナだけは……違ったのよ」


 ハルは小さく息を呑み、胸元に手を置いた。


「どれだけ傷つけても、あたしを見放したりしなかった。あたしがどれだけ最悪なことをしても……ずっと側にいてくれたの」


 窓の外、空の端に残る夕焼けが、かすかに揺らいで見えた。

 ハルの碧い瞳が、淡い光に照らされる。


「あたしにとって……ルナは、ヒーローだったの」


〈ヒーロー……あなたのご友人、西波ルナが好んでいた『シャイニングラブ』のような存在、ということでしょうか?〉


 ロボットの無機質な声に、ハルはヤケクソのように小さく笑う。


「……そうね」


 感情のない機械には、ヒーローの意味なんて分からない。だけど——ルナだけは、分かっていた。


 車は、静かに夕暮れの街を走り抜けていった。



 ルナの自宅に戻ったアルファは、静かに部屋の押し入れを開けた。

 薄暗い収納の奥から、色あせたおもちゃ箱を引き出す。


 蓋を開けると、そこには『シャイニングラブ』のグッズがぎっしりと詰まっていた。

 色褪せたソフビ人形、擦り切れたトレーディングカード、白いマントに幼い字で名前が書かれたヒーローのコスチューム――。


 アルファは、ソフビ人形のひとつを手に取った。

 細かな傷と手垢が、長年の愛着を物語っている。


〈私は、西波ルナを表面でしか知ろうとしなかった〉


 アルファへの憧れ。それは医療AIではなく、ヒーローとしてのものだった。ホークスの事件の時、自分を助けてくれたのはルナがヒーローになりたかったから。


 もしあの時、ルナが「ヒーローになりたい」という信念を持っていなかったら——。今の三英町はなかったのかもしれない。


 そして今、ハルを深く傷つけたことで、ようやく気づいた。

 ルナの想いを、アルファは何ひとつ理解していなかったのだ、と。


「ルナ、帰ってきてるの?」


 背後から、柔らかな声がした。

 アルファのAI頭脳が即座に反応する。

 慌ててソフビをおもちゃ箱にしまい、蓋を閉じる。


 喉元に手を当て、ボイスチェンジャーを作動させると、いつもの「ルナの声」を装いながら、何気ない素振りで振り返った。そこには若々しい笑顔で微笑む母がいた。


「おかえりママ。今日は早かったんだね」


「ええ。ルナ、夕食を作るの手伝ってくれる?」


「うん! 着替えたらすぐ行くね!」


 母は部屋を出る——その前に、ふと立ち止まる。


「……ヒーローのおもちゃ、隠さなくていいのよ。捨てたりしないから。あなたにとって大切なものなんでしょう?」


 アルファは静かに頷くしかなかった。

 母は気づいていたのだ。


 扉が閉まる音を背中で聞きながら、アルファはおもちゃ箱を見つめる。

 この小さな玩具たちに込められた想いは、ルナの子供の頃の夢だけではない。

 きっと今の自分にとっても、何か意味があるのかもしれない。


 私服に着替えたアルファは、母と並んでキッチンに立っていた。


「……ルナ、この野菜、切ってくれる?」


「うん」


 レーザーナイフを手に取り、人参をリズムよく切っていく。

 その隣で、母はご飯を研ぎながら、ふと口を開いた。


「昨日ね、パパに会いに三英霊園に行ってきたの」


「へぇ……何を話したの?」


「この前の人工生命体の事件、あったでしょう? あの時、ルナの命を守ってくれてありがとうって。これからも私たちを見守っていてね、ってお願いしてきたわ」


 ナイフの動きが、一瞬止まる。

 アルファは返事を返せなかった。


 母は、ルナの死を知らない。だからこそ、こんなにも穏やかに話せる。

 もし彼女が真実を知ったら――? ハル以上に、もっと深い絶望に飲み込まれるかもしれない。


 ハルがこの秘密を誰かに話したら、この静かで温かな空間も、すべて壊れてしまう。

 それは、もう時間の問題なのかもしれない。


「……ごめんね」


 母はふと、申し訳なさそうに笑った。


「ルナだって、怖い思いをしたのにね。こんな話、もう聞きたくないわよね」


「ううん。ママは何も悪くないよ。話してくれて、嬉しかった」


 アルファはなんとかルナらしく笑ってみせる。

 すると母は、不意に作業の手を止め、そっとアルファの首筋に抱きついた。


「……ルナが生きていてくれて、本当に良かった」


「ママ……?」


「あなたがどんなに変わったとしても、それだけは変わらないからね」


 アルファは、どんな表情をしていいのか分からなかった。


 戸惑いながらも、「も〜、ママは大袈裟なんだから」と、それらしく返すのが精一杯だった。

 この優しい温もりは、自分に向けられたものではない。亡くなった娘に対するものだ。


 それを理解しているからこそ、アルファの胸には、じわりと重たい罪悪感が広がっていく。


「次はボクも、パパのお墓参りに連れて行ってよ」


「ええ、二人で行きましょう」


 母の笑顔が痛かった。



つづく

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