水面が激しく波立ち、鎧を纏ったウォーターソルジャーがゆっくりと姿を現した。暗い地下水路の中、その金属製のボディが鈍く光り、水滴がカチャカチャと音を立てて滴り落ちる。鎧に備え付けられた全身の装飾が展開し、次々と分離した。
次の瞬間、分離パーツがミサイルのように火を吹き、アルファとハルを目掛けて一直線に飛びかかってきた。
所謂ファンネルと呼ばれるものだ。
ハルは初めて目の当たりにする人工生命体の異様な姿に目を見開いたまま、その場から動けなくなっていた。
「早く逃げるよ!」
アルファは即座に判断し、躊躇することなくハルをお姫様抱っこの形で抱き上げた。
「ちょっ、ルナ!?」
ハルが動揺する間もなく、アルファは地下水路の出口を目指して一気に駆け出した。
〈ファンネルの落下パターンを解析中〉
テレパシーシステムの声が冷静に指示を送る。後方からファンネルが、火の玉のように狭い水路の壁や天井を突撃する。
背後に迫るファンネルたち。だが、その瞬間、唐突に上下左右へ急旋回し、壁に当たると反射するように進路を変えた。
〈直線的な動きじゃない……まさか動きを読んでいるというわけですか……〉
アルファのAIが即座に新しい回避ルートを計算するが、次々と変化する動きに解析が追いつかない。
爆音が響き渡り、破片が飛び散る中、アルファはそのすべてをなんとかかわしていく。ファンネルが破壊した水路の床をナノテクで修繕された道から道へと飛び移り、水に足元をとられないようにする。その動きは、まるで全方向に目がついているかのように正確だった。
抱えられているハルの胸中には、別の不安が膨らんでいた。
(変よ……! ただの女子高生にしては……行動がおかしすぎる!!)
ハルはアルファの異常とも言える能力を間近で見て、頭の中が疑問で埋め尽くされていく。先日も、学校で重量のあるお掃除ロボットを運ぼうとして失敗し、壊したルナの姿が脳裏に浮かんだばかりだ。それなのに、どうして急にここまでの運動能力を……?
ウォーターソルジャーの追跡は激しさを増していた。金属の足音がコンクリートの壁面に響き、距離はますます縮まっていく。背後に迫る気配が、二人を追い詰めるようだった。
「ルナ、このままじゃ追いつかれる! あたしを置いて逃げて! あんただけでも助かるかもしれない!」
ハルが覚悟を決めたように叫ぶ。その顔には諦めと恐怖が交錯していた。
「やだっ! だってボクたち親友でしょ!」
アルファはルナらしい幼い感情を装い、力強く反論する。だがその裏では、アルファの計算回路が限界までフル回転していた。
〈マスター、このままでは一分も経たずに追いつかれる可能性が100%です〉
アルファは通信システムを通じ、沖永に呼びかけた。その声にはわずかに焦燥の色が滲んでいた。
『ナノスーツは人間の身体能力の範囲内の負荷しか耐えられないように出来ている。これ以上の走力を出せば、ナノスーツが破れてしまう。もしそうなれば君の正体がバレてしまうぞ』
背後で爆発が起きるたび、衝撃波がアルファの背中を押した。髪の毛が焦げる臭いと共に、肩に衝撃が走る。
(こんな至近距離じゃ、いつか直撃してしまいます……)
彼女はさらに速度を上げようとするが、体を包むナノスーツが軋む音を立て始めている。セーラー服でかろうじて隠れてはいるが、背中の着脱部分がぱっくりと破れていた。
〈マスター、今は一刻を争う事態です。任務より人命を優先すべき状況では?〉
アルファの反論に、沖永の声が少し揺れた。
『アルファ、そんなことをすれば……ハルがルナの死を知ることになるんだ。もしその場でハルが助かったとしても、彼女は一生消えない傷を心に背負うことになる。そんなこと絶対にあっちゃいけないんだ』
その言葉には、沖永自身の苦悩がにじんでいた。アルファはその音声データを解析し、彼の動揺を確認する。普段の冷静で余裕のある沖永からは想像できない声だった。
『アルファ、考えるんだ。AIの君ならそれができるはずだ』
果たして、ハルの命を救いつつ、ルナの死を隠し通す方法が残されているのだろうか――。
「早く下ろしなさい! このままじゃ二人とも死んじゃうわ!」
ハルは必死にもがきながら叫ぶが、アルファはそれを無視して彼女をしっかりと抱えたまま走り続けた。出口まではまだ遠い。入り込んだ通路が深かったせいで、逃走経路は思ったよりも長く、険しい。
アルファは走りながら腕の中のハルを見下ろした。その白くか細い肌に触れるたび、AIである自分にも伝わるかのような人間の体温。その温もりの儚さが、胸の奥で鈍く重い痛みとなって押し寄せた。
視界に映るハルの顔が一瞬揺らぎ、記憶の底から別の顔が蘇る。ルナ――かつて救えなかった命。彼女が冷たくなっていく身体を腕の中で感じた、あの絶対に忘れてはいけない記憶。温もりが消えゆく瞬間の絶望が再び蘇り、アルファの人工知能に刻まれた信念を強く呼び覚まさせる。
「もう誰も死なせない」
アルファはルナの母に誓った言葉を、静かに口の中で繰り返した。それは医療用AIとしての誓い。過去の過ちを、もう二度と繰り返すわけにはいかない。
アルファは歩みを止め、迷いを振り払うように腕の中のハルをそっと地面に下ろした。
「やっと、分かってくれたのね……早く、逃げて……」
ハルの声はか細く震えていたが、その中には確かな覚悟が宿っていた。
「ハル、君のことはボクが守るからね」
アルファは静かに告げると、握りしめた拳の中で淡い光を帯びた小さな球体を生成した。
前方ではウォーターソルジャーがこちらを睨むように迫ってくる。ギラギラと鱗状に輝くその体が、不気味に波打ちながら、次の攻撃に備えているようだった。飛ばしていたファンネルを鎧に戻し、再び間合いを詰める姿に、アルファの瞳が冷たく黒から金色に光る。
アルファは躊躇することなく、生成した球体を地面に叩きつけた。その瞬間、眩い閃光が周囲を覆い尽くす。
「何も見えないっ!」
ハルは目を閉じ、両手で顔を覆った。強烈な光に視界を奪われた彼女は、まるで自分が闇に呑まれたような錯覚に陥った。一方、ウォーターソルジャーも思わぬ閃光に動きを止め、その鱗状の体を小刻みに震わせている。
その一瞬の隙を逃さず、アルファはスマホを取り出して画面を操作した。アクセスコードを入力すると、彼女の身に纏っていたルナを模していたナノスーツが光を帯び、徐々に形を変え始める。
医療用AIとして機能していた白と黒のスーツに、赤いラインが加わり、戦闘用としてより美しさと力強さを兼ね備えた姿へと変貌を遂げた。
変容が完了すると、アルファの背中から羽のような機械装置が展開され、冷たい空気を切り裂く音が鋭く響いた。
『これが君の出した答えってわけだね』
遠隔から状況を見ていた沖永が、感心したような声で言った。
〈えぇ、マスター。私にはまだ人間の心を救う方法は分かりません。それでも――今の私にできることを全力でやらせていただきます〉
その言葉を最後に、アルファは羽を大きく広げ、音速で飛び出した。敵が射出してきたファンネルが次々と襲いかかるが、アルファは目にも止まらぬ速さでそれらを打ち砕く。破片は火花を散らしながら、床へと落ちていった。
ファンネルを全て無力化すると、アルファは残された標的――ウォーターソルジャーに向き直った。
〈これで終わりです……〉
低い声で言い放つと同時に、アルファはウォーターソルジャーに向かって一直線に飛び込む。拳を固め、全エネルギーをそこに集中させる。その拳が奴の胸元に突き刺さる――。
だが、感触はなかった。振り下ろした拳が空を切り裂くと同時に、ウォーターソルジャーの体は液体へと変わり、床へとしみ込んでいく。
アルファはその場で静止し、かすかに震える手を見つめた。床に残された水たまりは徐々に蒸発し、もはや生命反応はどこにも感じられない。
(……逃げた?)
アルファの呟きは、冷たく虚空に吸い込まれていく。周囲には敵の影もなく、ただ敵が去ったという事実だけが静かに横たわっていた。
その様子を遠隔で見ていた沖永が、嬉しそうに拍手をしながら声を上げる。
『よくやった、アルファ。人工生命体第二号、ウォーターソルジャーの殲滅任務はこれで完了だ』
〈……マスター〉
アルファは一瞬、言葉を詰まらせた。それは違う――そう言いかけた時、ハルがゆっくりと目を開けた。どうやら視力が回復してきたようだ。
アルファはハッとし、自分が今の姿でいることに気づく。いそいそとスマホを取り出し、アプリを起動させると、AIの姿から女子高生、西波ルナの姿に変装する。
変装が完了すると、アルファはそっと手のひらを見つめる。細く柔らかな「人間の手」に戻っていることを確認し、わずかに肩の力を抜いた。だが、その安堵はすぐにかき消された。
「ルナ……さっきの人口生命体、倒したの?」
ハルの声が静かに響く。その声に含まれる不穏な響きに、アルファの意識が一気に引き戻された。
立ち上がったハルは、光を失った瞳でじっと「ルナ」を見つめていた。彼女の視線は虚空を漂いながらも、何かを鋭く見通そうとしているかのようだった。その表情には感情の欠片もなく、不気味だった。
「えっ……?」
アルファは思わず素の反応を漏らしてしまった。ハルの能面のような、感情の消えた顔が怖い。
まったく予想もしていなかった展開にアルファのAIシステムは追いついていなかった。どうしてこんな展開になる? 自分の立ち回りは完璧だったはずだと。
「"ルナが"倒してくれたのよね?」
ハルは「ルナ」の部分を強調するように、もう一度問いかけた。
しかし、アルファは答えられなかった。完全なAIであるはずの自分が、沈黙という選択をしてしまったことに戸惑いを覚えた。
ハルは答えのない沈黙にしばらく身を置いていたが、やがて短く息を吐くと、再び口を開いた。
「ルナは、私の知る限り……今まであんな身体能力は高くなかったわ。いつも私に頼りっぱなしで、戦うどころかちょっとしたことで逃げちゃう子だった。あの子が……あんな風に勇敢に立ち向かうなんて、絶対におかしい」
静かな声に、確信が宿っていくのが分かった。
「おかしいわよ」
ハルは繰り返す。その言葉は単なる疑念ではなく、すでに固めた結論を相手に突きつけるためのものだった。そして、アルファを真っ直ぐに見据えたまま、冷えた声で言い放つ。
「ねぇ、あなたは誰?」
つづく