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#4

 霊園の階段をしばらく登った先、人口の薄曇りの空を背にした小さなベンチに、ルナの母とハルは並んで腰かけていた。木々の隙間から差し込む薄い光が、どこか冷えた空気の中で揺れている。ルナの母は自販機で買った缶コーヒーを手渡しながら、ハルからルナの異変を訊いた。


 話を訊き終えたルナの母は、


「そっか、ルナったらハルちゃんにそこまで心配させてたのね」


と呟き、頬にそっと手を添えた。


「多分……怖い経験をしたせいもあるのかもしれないわね」


「人工生命体は、ルナの夢を諦めさせるほどの存在だった、ってことですか?」


 ハルの声は、わずかに震えていた。彼女の問いかけには、ルナが抱えているものの大きさに気づいた驚きと、どうしてもっと早く気づけなかったのかという自責が混ざっていた。


「そうかもね……あの子は、ああ見えてとても傷つきやすいのよ」


 その言葉を聞きながら、ハルはふと、10.12の事件現場で聞いた目撃者の言葉を思い出した。


『人工生命体にボロボロになるまでアルファが痛めつけられて、もうダメかと思った』


 その場に居合わせたルナもまた、ヒーローになることの危険さを、身体ごと叩きつけられるように知ったのかもしれない。


 ヒーローになりたいという夢は最初からなく、今まで通り看護師を目指す。そう自分を思い込ませることで、自身を守ろうとしているのだろうか――。


 ハルはそう考えながら、重たい沈黙の中に沈んでいった。横でルナの母はふと遠い目をして、どこか懐かしそうに呟いた。


「パパが亡くなった時もね、二、三年くらいは、寂しくなるとよく泣いていたのよ。夜中、声を押し殺して泣くあの子を見てるのは、本当に辛かった」


 その言葉を聞いた瞬間、ハルの胸に鋭い痛みが走った。


「……知らなかった。私、ルナの気持ち、ちっとも考えてなかった」


 彼女の声は震え、言葉の最後は消え入るようだった。ルナの母は優しく微笑むと、ハルの背中にそっと手を添えた。


「ハルちゃんは何も悪くないわ。でもね、もしもルナが前のルナじゃなくなったとしても、どうか変わらず仲良くしてあげて。見た目が少し大人っぽくなったように見えるかもしれないけど、あの子はまだまだ子供よ。父親がいない分、私たちで守らなきゃいけないの」


 その言葉を聞いて、ハルは気づいたように大きく頷いた。


「もちろんです……! 私、大事なことを忘れてました。ルナが今日もこうして生きている――それだけで、十分だったんだって」


 帰り際、ルナの母がふと立ち止まった。彼女の声が、霊園の木々の間に静かに響く。


「ハルちゃん、一つ聞いてもいいかしら?」


「……何ですか?」


 歩きかけていた足を止め、ハルは振り返る。


「どうしてハルちゃんは、そんなにルナのことを大切に想ってくれているの?」


 ハルは少し考え込むように目を伏せ、口を開こうとした。


 その瞬間、遠くのイフ・タワーから、ちょうど五時を知らせるチャイムが鳴り響いた。



 次の日、ハルは決意した。昨日のことには触れず、ルナに何事もなかったかのように接しようと。


 イフ・タワーで沖永とルナが共にいたこと。その理由を問いただしたい気持ちはあった。だが、今のルナの心情を思えば、それを口にするのはかえって危険だと感じた。彼女との繋がりを失いたくない一心で、その疑問を胸の奥に押し込めることにした。


 しかし、始業時間になってもルナの姿は教室に現れなかった。担任が「西波さんは体調不良でお休みです」と淡々と告げたが、昨日の不可解な出来事が脳裏をよぎり、それをそのまま信じることができなかった。


 ハルはノートを開いているものの、授業の内容は耳に入らない。視線は電子黒板の文字を追っているようで、実際には空虚な空間を彷徨っていた。そして、不意に暗い記憶の渦に引きずり込まれる。


 幼い頃、病室で見た光景――。
 白いシーツの上に横たわる母の姿。その手をそっと握ると、ひどく冷たかった。


「ねぇ、どうしてお母様の手はこんなに冷たいの?」


 ハルが問いかけると、父である糸杉は俯いたまま、絞り出すように呟いた。


「ハル……すまない。本当にすまない。すべて、私のせいなんだ……」


 その答えは、あまりにも抽象的で曖昧だった。けれど、母がもう戻らないことだけは理解してしまった。


 現実に引き戻されると、心臓が痛むほどに脈を打ち、全身が震えていた。再び、大切な人が自分の前から消えてしまうのではないか――その恐怖が、ハルの思考を支配していた。


「ルナ……ルナ……。もう一人は嫌......!」


 呼吸が乱れ、視界がぐらつき、ついにハルは椅子から崩れ落ちた。ゼェゼェと喘ぐ彼女の耳に、近くの女子生徒の声がかすかに届いた。


「ハル、大丈夫?」


 その声にも応えられないまま、担任が心配そうに駆け寄り、ハルの肩を支えた。


「糸杉さん、保健室へ行きましょう」


 しかし、ハルはその手を振り払うと、荒い息のまま教室を飛び出した。



 一時間ほど前――イフ・アカデミアの職員室に一本の電話が入っていた。


「今朝から娘に熱があるようなので、お休みさせてください」


 電話の向こうで話しているのは、ルナの母親の声。それはボイスチェンジャーで変えられた声だった。実際に話しているのはアルファである。


 アルファは現在、糸杉社長の指令を受け、地下水路へと向かっていた。魚型人工生命体の脅威に対処するための作戦行動だ。


 昨晩、イフ社は秘密裏に監視ロボットを稼働させ、地下水路での捜索を行っていた。そしてついに奴の姿を捉えたのだ。監視映像に映し出されたのは、異様な存在だった――。


 半魚人のような体に金属製の重厚な鎧を纏ったその姿。人間のサイズに近いが、冷たい光を放つ目は、人間らしさを完全に拒絶しているかのようだった。


 ホークスのように巨大ではなく、人間サイズであることが不幸中の幸い。

 ホークスが鳥人間なら、奴は半魚人。人口生命体第二号"ウォーターソルジャー"という呼称に決まった。


『頼んだよ、アルファ』


 通信機越しに沖永の声が届く。アルファは短く頷き、次の指示を待った。


『作戦はこうだ。人工生命体には人間を襲う習性がある。アルファ、お前はルナの姿を模して、ウォーターソルジャーをおびき寄せるんだ』


「了解しました、マスター」


 静かな声で応えると、アルファは顔の筋肉をゆっくりと調整し、喜怒哀楽の激しいルナの顔を形作る。そして、偶然迷い込んだ無力な少女を演じるよう、慎重に歩を進めた。


 かすかな水滴の音に合わせるように、靴音を弱々しく響かせる。そのたどたどしい足取りは、明らかに孤立した子供を装うものだった。


 不気味な静寂を裂くように、自らの声で呟く。


「誰か……いるの……?」


 暗闇に溶けるその声は、演技の一環として完璧だった。だが、その瞬間、背後に異質な気配を感じ取った。


 アルファは即座に振り向き、手をポケットに滑り込ませた。スマホに指先を添え、ルナの姿から本来の姿へ戻る準備をする。


 しかし――そこに立っていたのはウォーターソルジャーではなかった。


「あらあらルナちゃん。体調不良の割にこんなとこ出歩くなんてよっぽど元気ね」


 地下水路の薄暗いライトが、悪魔の笑みを浮かべるその人物を照らし出した。


 糸杉ハル――。

 飄々とした態度を装ってはいるが、彼女の目には、大切な存在を失うかもしれないという恐怖の影がちらついていた。


 アルファは素早く臨戦体制を解き、ルナとしての演技を即座に再開した。


「ハル……! どうしてボクがここにいるって分かったの?」


 驚きを隠せないというように、口元に手を当てる仕草を見せる。完璧に計算された表情だ。


「今どきSNSで聞けば簡単よ。地下水路付近にあんたが入っていくのを見たって人がいたわ」


 ハルはスマホを見せつけ、わざとらしくその情報の確実さをアピールするように言った。その目はアルファ――いや、「ルナ」をじっと射抜く。


 アルファの内耳に埋め込まれた通信機が微かに振動した。


『アルファ、どうした? 何か起きたのか?』


 沖永の声が焦りを帯びていた。アルファはテレパシーシステムを使い、即座に状況を報告する。


〈緊急事態です。糸杉ハルがこちらに来ています〉


『なんだって! 学校を休ませるだけでは駄目だったのか……』


〈どうしますか、マスター〉


『ひとまず君はルナのふりをしていろ。適当に言いくるめてハルをそこから遠ざけろ。くれぐれもウォーターソルジャーが現れても、絶対に元の姿を見せるなよ』


「ハル、お願いだからここから離れて。危険なの……!」


 アルファは沖永の指示を忠実に実行しようとする。だが、その言葉はハルの耳には届かない。今朝「余計な詮索はしない」と決意したはずのハルは、その決意を忘れたかのようにルナの顔がくっつくほどの距離で矢継ぎ早に問い詰めた。


「何が危険なの? じゃあルナ、あんたは何でわざわざこんな場所に来たの? もしかして、あんたの様子が変なのってこの場所が関係してる?」


 ハルの声は鋭く、その目は真実を暴こうとする意志に満ちている。その表情を前にして、アルファの脳内には無数の会話パターンと予測されるであろう結果が浮かび上がる。


〈この場を切り抜けるためには、糸杉ハルを納得させる言葉を選ばなくてはなりません。選択肢を列挙……〉


 しかし、アルファが適切な反応を思案する間もなく、遠くから甲高い金属音が響いた。それは何か巨大なものが水面を叩く音――。


「何……?」


 ハルが後ろを振り返る。アルファは瞬時に計算を停止し、改めてルナとしての「感情」を装う。


「ハル、急いで逃げて!」


 その瞬間、暗闇の中から異形の存在が姿を現した。ウォーターソルジャー――。その冷たい光を宿した目が、二人を捕捉した。


つづく

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