蝉の声が波のように寄せては返す。
夏の日差しは厳しかったが蒸し暑さは感じない、たまにそよぐ風が心地よかった。
8歳になった加藤沙耶香は、村の神社で一番高い木の上にいた。これまでどうしても登りきれなかったてっぺんに、ついに到達したのだ。
「やった!やっと登りきった!」
木のてっぺんから周りを見回すと、軒を連ねる民家から、その先の漁港まで。島全体を見渡せた。遠くの海は陽光を受け、宝石を散りばめたように輝いていた。
「うわー!いい眺めだ!!」
加藤が生まれた珠森島は人口200人余りの小さな島だ。加藤はこの島で漁師をやっている両親と妹の4人で暮らしていた。
しばらく達成感にひたっていたが、そろそろ晩御飯の時間になるのだろう。潮風に乗って、村のあちこちから夕飯を作る匂いが漂ってくる。
「腹減ったな……」
木から降りようと小さな枝に足を掛けたら、枝が折れてそのまま地面に落ちた。
「あっ!」と思った瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。オレンジ色の光が包み込み、やさしく加藤を地面に降ろすと光が消えた。
『オマモリ様が守ってくれた!』そう直感した加藤は神社の祠に手を合わせていた。
「オマモリ様!ありがとう!」
祠の奥に鎮座する石――ボウリングの玉ほどの大きさのそれが、淡くオレンジ色に輝いていた。
その表面には、無数の亀裂が刻まれ、そこからかすかに光が漏れている。そして、新たに小さなひびが一筋、ゆっくりと走った。
島の夜は昼の蝉に代わり、夜の帳に包まれた田畑から蛙の鳴き声が響き渡っていた。
「今日さ!神社の一番高い木のてっぺんに登ったんだ!」
加藤は布団の中で興奮気味に母親に話した。
「あんたまた危ない事して!」
母親がまだ幼い赤ん坊にミルクを上げながら叱る。
「なんだよ!……美鈴もねーちゃんみたいに強い女になるもんなぁ。」布団から出て、美鈴と呼んだ赤ん坊のほっぺを指先でつんとつついた。
「あばぁ」赤ん坊が笑った。
「えへへ……」目尻を下げて加藤も笑う。
「そういや、父ちゃんは?」
「また、村の会合さね。」
「飲んで帰ってくるパターンかぁ」
「さ、あんたはもう寝な」
「はーい、おやすみー」
加藤は布団に入るとすぐに寝息をたてた。
深夜、加藤は「ピシッ」という音で目が覚めた。横では母親と父親が寝ている。赤ん坊は母親の布団の中で寝ていた。
何かが呼んでいる……
『オマモリ様?』ふと、そんな気がして家をそっと抜け出した。
夜の湿った空気が肌にまとわりつき、微かな潮の香りが鼻をかすめた。
空には青白い月が煌々と輝き、その光の下では、あらゆるものが深い青と闇の黒に染め分けられていた。
「ピシッ」――また音がした。
『急がなきゃ……!』加藤は神社の石段を駆け上がった。
境内の祠の中ではオマモリ様がオレンジ色の光を放ち周囲を照らしている。青い世界の中でそこだけオレンジ色の絵の具をたらしたようだった。
加藤が祠を覗くと、石の無数の亀裂からオレンジ色の光が漏れていた。
どこからかズズ……ズズ……と何かが這いずるような、湿った音が聞こえてくる。
何だろうと思い周りを見渡した瞬間、石が砕けた。目も開けられない眩い光を放ち無数のかけらとなって飛び散った。
光を見た瞬間、加藤は意識を失った。
ゴゴゴ……激しい地鳴りの音で目が覚める。
空は灰色と黒い雲が混ざり合いながら不気味な渦を巻いており、まるで巨大な目のようにこちらを見下ろしていた。
加藤が体を起こした時、地面が揺れた――「地震?」いや、それはただの地震とは違った。重力が狂ったように歪み、加藤の体がふわりと宙に浮いた。
激しい風が吹き付ける。周囲の小石や葉っぱも空中に舞い上がり、次の瞬間には押しつけられるように地面に叩きつけられた。
「グハッ!」地面に叩きつけられて息が出来なくなる。社がキシキシ音を立ててきしみ、瓦屋根がポップコーンのように跳ねて落ちる。
二度三度と地面に叩きつけられ、気が遠くなり始めたころ、海の向こうで異変が起こり始めた。
痛む体を起こして港を見ると、恐ろしい光景に凍りついた。波が逆巻き、渦を描きながら、海面が小山のように隆起しているのだ。
強風が唸りを上げる。その音に紛れて、村の人々の悲鳴が響いた。
その中に、聞き覚えのある声があった。赤子を抱いた母と父が、道に出て「沙耶香」と必死に叫んでいる――。
「父ちゃーん!母ちゃーん!」加藤が叫んで手を伸ばすと、両親のいた地面がパックリと口を開けて人も家をも飲み込んだ。
ドドドド……!轟音を立てて、海水が割れ目に流れ込み渦を巻いた。
加藤は立ったまま動けなかった。心臓が鼓動する音だけがやけに大きく聞こえてくる。
ただ立ち尽くして見ていることしか出来なかった。
やがて、ズズ……ズズ……という湿った音が加藤の背後から聞こえてきた。
喉が震える。
ズズ……ズズ……
低く湿った音が、闇の奥からじわりと迫ってくる。
――そこに、何かがいる。
振り向いた瞬間、加藤の全身が凍りついた。
巨大な赤い目。
黒い霧の中で、ギラギラと燃えるようなふたつの巨大な目。
それは、加藤を見ていた。
「……ッ!!」
心臓が跳ね上がる。
違う、これは……違う、何かがおかしい。
言葉にならない恐怖が、喉を塞いだ。
「か、母ちゃん……!」
足が震え、声も出ない。寒くもないのに歯がカチカチと鳴った。
その瞬間、霧が渦を巻くようにうごめいた。
――ズズズズ……ッ!!
次の瞬間、加藤の視界は真っ赤に染まった。
大きな波が押し寄せて、鳥居も社も祠も木も全てを飲み込んだ。
その日、珠森島は地図から消えた。
一夜が明けても、空は異様な色をしていた。
黒と灰色の雲が低く垂れ込め、湿った風が吹き荒れる。
「……本当に、島が沈んだのか」
国家技術保全庁の新人エージェント星野は、軍のヘリの中でモニターを睨みつけた。
GPSデータでは、間違いなく珠森島の上空のはずなのだが、島など存在していなかった。 まるで最初から何もなかったように、海面が静かに広がるばかりだった。
「海上に要救助者発見!」パイロットが声を張り上げた。
海上を漂う幾つもの瓦礫の中に、ひとつの小さな影があった。
水浸しの少女が、浮いた板壁の上で呆然と座り込んでいる。
「生存者か……!」
「ヘリの高度を下げろ!」
風圧で板がひっくり返る恐れがあるので、パイロットは慎重に高度を下げ、ある程度まで下がったところで隊員がロープで降りていった。
――8歳の少女が、静かに海を見つめていた。
「おい!大丈夫か!」
声をかけると、少女――加藤沙耶香は、ゆっくりと顔を上げた。
ずぶ濡れの黒髪が、額に貼り付いている。
ヘリコプターは少女を収容すると、内地の病院に向かって急いで引き返した。
少女は放心状態で毛布にくるまっている。右手には小指大の石のかけらを握りしめていた。
「何があったか教えてくれるかい?」星野が少女に聞いた。
「……あ、赤い目」
「赤い目?」
「赤い目が黒い影から見ていた……あの赤い目の奴が島を……母ちゃんと父ちゃん……妹を……」
そこまで言うと少女は嗚咽し声を詰まらせた。
星野は眉をひそめた。
「赤い目か……」
内地に戻り、星野は様々な観測データを収集して軒並み調べた。
現地に派遣された技術班は困惑していた。ソナーには明らかな地形変動の痕跡があるが、津波や火山活動の形跡は皆無だった。
LiDARやソナーによる海底地形探査、磁気探査、放射線測定、水質やガスの分析、地震波、生態系などなど、思いつく限りのものを調べあげた。
最初の手がかりは、人工衛星の観測データにあった。
島が沈んだ時刻、偶然上空を飛んでいた衛星の軌道が乱れていたのだ。
本来、一定の速度で飛行するはずの衛星が、まるで波打つ鉄板の上を転がるビー玉のように、規則性のない加速と減速を繰り返していた。
つまり、この空域では自然現象では説明できない重力の乱高下が発生していたのだ。
「この重力の変化は、自然現象ではありえない?……だとしたら、何があった?」
そして、生き残ったわずかな住民の聞き取りでは誰もが口を揃えて「赤い目を見た」と証言していた。
「赤い目……?赤い目とはなんだ?星降り神話の天使?……いや、馬鹿げている……」
星降り神話の伝承によれば、
「宝玉の力を手にした星降りの民を罰するため、赤い目の天使が遣わされ、楽園は海に沈められた」とある。
不気味なほど符号が一致している。
だが、もしこの神話が現実だったとしたら――決定的に欠けているものがある。
宝玉だ。
「まさか……」
星野は改めて、生存者への聞き込みを行った。
村の神社には「オマモリ様」と呼ばれる神の石が祀られていた。そして、島が沈む直前、その石がオレンジ色に光っていたという証言が複数あった。
沈んだ島。
赤い目の存在。
そして、輝く宝玉。
偶然にしては、あまりに出来すぎている。
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
星野はすぐに、観測データと証言をまとめ、国家技術保全庁へ報告を上げた。
結論はひとつ――「重力が人為的に操作された可能性がある」。
報告を受けた技術監督局部長の佐野は即座に上層部との緊急会議を招集した。
これは、隠蔽すべき案件だ。
公になれば、国際的な問題に発展しかねない。
「重力を操作する技術があるとすれば?」
その問いは、会議の場に緊張を走らせた。
もし実現可能なら、それは歴史上あらゆる兵器を凌駕し、宇宙開発・経済・産業・農業など、あらゆる分野に革命をもたらす。
しかし、それを日本が独占できる保証はどこにもない。
沈黙の中、佐野が口を開いた。
「もし、この現象が意図的に引き起こされたものだとしたら……?」
佐野の低い声が、会議室の空気を一層重くした。
「この報告書が外部に漏れれば、日本だけでなく、各国がこの技術を狙い動き出す。隕石落下と発表すれば、世間はそれを信じる……だが――」
佐野は一呼吸置いた。
「この技術を他国に渡すわけにはいかない」
———
テレビでは、コメンテーターや学者たちが揃って首をひねった。
『地震計は沈下の兆候を示していないし、津波も発生していません。こんなことはあり得ない……』
『となると、海底に巨大な陥没穴ができた? いや、それでも島が丸ごと消える説明にはならない』
一方、ネットでは陰謀論が飛び交い、「政府が隠している」「人工的な実験だったのでは?」と憶測が渦巻いた。
だが、メディアの熱狂も長くは続かない。
数日後、ワイドショーは何事もなかったかのように芸能ニュースを垂れ流していた。
———
珠森島の消失から半年後、
国家技術保全庁と科学技術省の間で、「古代遺跡の発掘調査」を名目とする合同調査隊が密かに結成された。
これが、現在の海洋遺跡調査団の前身となる。
そして15年後——。
珠森島の謎を追い続けた調査は、ついにある『発見』へと繋がる。
だが、それは想定された未来ではなく、新たな危機の幕開けに過ぎなかった。