――破滅の天使事件が動き出す、その直前の物語。
村瀬はひのしげと別れた後、路地裏に足を踏み入れた。すると、猛スピードの車が突如彼めがけて突っ込んできた。咄嗟にビルの隙間へ飛び込み、間一髪で難を逃れたが、スマートフォンは無残にも砕け散ってしまい、田宮への通信手段を失ってしまった。
村瀬が路地から出てきた瞬間、眩い光が村瀬の視界を焼いた。
咄嗟に身を引こうとしたが、足がもつれる。
――まずい。
そう思った瞬間、タイヤが路面を軋ませ、間一髪で車は停まった。
「おい、大丈夫か!」
運転席から降りてきた男が駆け寄る。
村瀬は手をついて倒れ込んだまま、荒い息をついた。
「……っ、大丈夫……です……」
痛む足を引きずりながら、ゆっくりと立ち上がる。
男はまだ何か言おうとしていたが、村瀬はそれを無視して振り返った。
後ろの路地は、漆黒の闇。
――追っ手は……?
鼓動がまだ収まらない。
だが、今はそんなことより――。
村瀬はポケットの中のデータ端末をギュッと握った。
『このデータを……届けないと、でも、どこに?』
村瀬の脳裏に科学技術省が浮かんだ。
『そうだ、前に取材したあの特異科学調査室の女課長……たしか三国恭子と言ったか?彼女に渡せば田宮に繋がるかもしれない!』
科学技術省まで行こうとしたが、タクシーアプリもスマホが壊れて使えない、やむなく道端でタクシーを探した。
「――空車!」
手を挙げた。
しかし、タクシーはそのまま通り過ぎる。
「……ちょっ……!」
数台のタクシーが見えたが、どれも止まってくれない。
――泥だらけのボロボロの男が道端に立っていたら、そりゃ警戒される。
「クソッ……!」
科学技術省まで、ここからだとおおよそ3kmか。
このままタクシーを探しても間に合わない。
なら――走るしかない。
村瀬は深く息を吸い、足に力を込めた。
(行け……行け……っ!!)
足を動かすたび、痛みが走る。
肺が燃えるように熱い。
だが、立ち止まれば、全てが終わる。
「ッ……!」
角を曲がると、足がもつれて派手に転んだ。
アスファルトの冷たさが全身に染みる。
だが、村瀬は 迷わなかった。
すぐに立ち上がり、再び走り出す。
――このデータを届けるまで、絶対に止まらない。
巨大な庁舎が見えた。
エントランスの前では、警備員が数名、雑談をしている。
(間に合った……!)
村瀬は、最後の力を振り絞って駆け寄った。
「――すみません、三国さんに……三国さんに……っ」
しかし、警備員は冷ややかだった。
「こんな時間に?三国技官はもう帰られましたよ」
「もう夜の2時だ、明日にしてくれ」
「ダメです、今すぐ渡さないと……!」
村瀬はポケットのデータ端末を握りしめる。
だが、警備員は怪訝そうに睨みつけた。
「あなた……どちらの方?」
「本当に省の関係者?」
まずい、止められる――そう思った瞬間。
「……村瀬さん?」
疲れ果てたような声がした。
庁舎の入口から、三国恭子が出てきた。
ちょうど帰宅しようとしていたらしい。
村瀬は、それを見て――
「……三国……さん……」
言葉が詰まり、その場に膝をついた。
三国は 何が起きたのかを察した。
すぐに警備員を制し、村瀬の前に屈み込む。
「……何がありました?」
「……これ……これを……」
村瀬は震える手でデータ端末を差し出した。
三国はそれを受け取り、チラリと画面を見た。
「…………」
無言で立ち上がると、そのまま庁舎の中へ踵を返した。
「えっ? あの、三国技官?」
警備員が戸惑うが、三国は振り返りもせずに言う。
「今夜はもう帰れないなあ……」
村瀬は、庁舎のベンチに腰掛け、ぼんやりと天井を見ていた。
足が痛い。肺も焼けるようだった。
だが――間に合った。
どこかで誰かが動き出し、事態が進み始める。
それを理解すると、村瀬の意識は、深い闇の中へ沈んでいった――
翌日、アクパーラ号では田宮が甲板で ひのしげの暴露音声 を流すことになる。
その音声が、すべての状況を一変させることを、村瀬も三国も、まだ知らなかった――。