木村が船の浴室でひとり浴槽に入っていると、機関士の加藤が来て体を洗ったあと木村の隣に入ってきた。
「木村さん、こんばんは!」
「おー、加藤ー!元気にしてた?」
「ええ、まあ……。でも……その、破滅の天使がこの船にいると思うと、正直怖いです……」
加藤は視線を泳がせ、湯気をぼんやりと見つめながら言った。
「破滅の天使の画像見ましたか?」
「あの目が光ってる奴でしょ?見た見た。」
「えっ、本当に?……その、怖くないんですか?」加藤は驚いたように身を乗り出したが、すぐに湯船の縁に手をついて視線を落とした。
「……暴れたりしたら、私たち、どうなるんでしょうね……」
木村は、加藤の少し硬い声に気づいたが、気にせず話を続けた。「んー、そうだねぇ……」しばらく湯に浸かったまま考えてから、口を開いた。
「加藤はさ、その破滅の天使とお話したことある?」
「……ないです。」加藤の答えは、ほんの少し間があった。
「私はあるよ。」木村がにまっと笑いながら言うと、加藤は小さく息をのむ音を立てた。
「えっ、ほんとですか!?」
「話してみてね、むしろ、こいつ人じゃね?くらい思ったわ。」
「人じゃね……」加藤は声を潜めるように言いながら、小さく首をかしげた。
「うーんとね……、人は見た目とか噂だけで怖がっちゃだめだと思うんよ。私たちが『破滅』とか言って距離を置いてたら、あの子も傷つくし、きっと私たち自身も、何か大事なものを見落としちゃうよ。」
「……」
「実際、カーラって子、私たちと同じで悩むし、笑うし、何かを守ろうとする強い意志もあるんだよ。それって、私たちと変わらないじゃない?」
加藤は目を伏せたまま、ふいに唇を引き結んで黙ったが、思い切った様に話し始めた。
「『古代の宝玉現るる時、再び災厄が彼の地を襲わん……』私の生まれた土地でずっと伝えられている伝承です。」
「星降りの神話だよね。」
「はい、私も私の家もみんな信じています。」
「ずっとずっと昔から言い伝えられて来た話だね。」
「だって……本当に、星降りの神話の通りだったら?」
「私の村は、破滅の天使が現れたとき、必ず誰かが死ぬって言い伝えられてるんです。あの破滅の天使が目の前に現実として現れた時、怖かったです。今もとても怖い……」加藤の肩がわずかに震えた。
「もし、あいつが災厄を呼ぶ存在だったら……?」
「……加藤、怖いのはわかる。でもね、あの子は自分で『破滅を止めたい』って言ったよ。」
木村はそっと加藤の肩に手を置いた。湯に入っているはずなのに加藤の肩は冷たかった。
「大丈夫だから、あの子はなにも怖いことはしないよ。破滅の天使なんかじゃない。」
木村は優しい声で続けた。
「確かに、あの子には特別な力がある。でも、力の使い方次第で破壊も守護もできる。私たちが信じるのは神話じゃなくて、今目の前にいる人の心だよ。」
加藤は震える声で言った。「でも……もし間違ってたらどうするんですか?もしあの子が本当に破滅を呼ぶ存在だったら……?」
木村は加藤の目をしっかりと見つめ、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「その時は、私たちが力を合わせて止めればいい。それだけのこと。怖がって何もしないより、動いて確かめた方がいいよ。」
加藤はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……木村さんって、本当に強い人ですね。」
「私?全然そんなことないよ。ただのエンジニアさ。でもね、加藤、私たちがこんなに怖がってたら、きっとあの子も同じくらい怖いと思うんだよ。だから、まずは私たちが冷静にならなきゃ。」
加藤は僅かな微笑みを見せた。
「……ありがとうございます。少しだけ気持ちが楽になった気がします。」
木村は笑顔で頷きながら、軽く肩を叩いた。「いい子だ。さ、こんなに長風呂してたらのぼせちゃうよ。そろそろ上がろうか。」
加藤は頷いて立ち上がり、木村の言葉に力づけられた表情で浴室を出て行った。
木村は独り残された湯の中で、天井を見上げながら小さくため息をついた。
「破滅の天使か……。そんな都合のいいレッテルで恐怖を煽るなんて、ほんとにタチが悪いね……」
薄い湯気の向こうに、木村の冷静な目が光を反射していた。
夜の繁華街は仕事帰りの会社員で賑わっていた。村瀬は静かな居酒屋で、人気ワイチューバー『ひのしげ』こと須田広重と向かい合っていた。
「村瀬さんが誘うなんて珍しいですね。」須田はビールを飲みながら笑った。
「いや、成功の秘訣でも聞こうと思ってね。羨ましくてさ。」村瀬はグラスにビールを注ぎ足した。
しばらく世間話をしていると、酔いの回った須田が次第に饒舌になってきた。
「誘導なんて簡単なんですよ。視聴者って単純ですから。」
「へえ、例えば?」と村瀬が聞くと、須田は得意げに笑みを浮かべた。
「派手な映像を使って、感情を煽るようなテロップを付けるだけで一発ですよ。で、たまに上手いネタをくれる人もいるんです。」
「上手いネタ?」村瀬は眉をひそめた。
「特に『破滅の天使』みたいな話題は最高ですよ。数字、跳ねましたからね。」須田は得意げに笑った。
「それ、面白いね!どこから仕入れたんだい?」
須田は一瞬目をそらしたが、酔いに任せて口を開いた。
「まあ、裏情報なんですけどね……。結構お堅いところが絡んでるとか。あ、具体的な名前は出せないですけど……国家技術保全庁とか?」
村瀬の表情が一瞬引き締まるが、わざと笑い飛ばした。
「ええ!保全庁?冗談だろ?」
「えへへ……秘密ですよ?まあ、持ちつ持たれつってことで。」須田は満足そうに笑った。
時計の針が11時を回った頃、思う存分自慢話をした須田はご機嫌で席を立って村瀬と別れた。
須田が帰った後、村瀬はスマホを開き、田宮に連絡しようとした。
――その瞬間、店の奥の席で誰かがスマホを向けているのが見えた。
いや、向けているのはスマホではない――カメラだ。
(盗聴か……?いや、それとも……監視?)
ふと、視線が交わる。
相手は無表情のまま、スマホを伏せた。
村瀬はわざと何もなかったように立ち上がり、店を出る。
だが、歩きながらも背後の気配を探った。
(俺はすでにマークされている……)
居酒屋を出た村瀬は通りを少し外れた路地に入った。
村瀬がスマホを取り出した瞬間、背後で車のエンジン音が急に高まった。
「……ん?」
反射的に振り向くと、ヘッドライトが鋭く輝く。それがまっすぐ自分に向かっていると気づいたのは、わずか数秒後だった。
「やばっ!」
直感的に横のビルの隙間に飛び込んだ。
――ガシャアアアアン!!!
スマホが車輪に巻き込まれ、粉々に砕ける音が響く。
村瀬は息を切らしながら、車のテールライトが消えるのを見送った。
「くそ、連絡手段が!」
暗い路地にスマホの破片が散らばる。
田宮への通信手段を失った村瀬はしばらく立ち尽くしたが、すぐに顔を上げた。
「とにかく別の手段を考えないと」路地を抜けて急ぎ足で事務所兼自宅に向かった。