朝、遠くで鳴る学校の始業チャイムを聞きながら、村瀬薫は下野公園のベンチでコンビニのサンドイッチを食べていた。
通りを歩く通勤通学中の人の列を眺めていると、警官に職務質問を受けた。
髭面で長髪、痩せ型の村瀬は、40代にしてホームレスと間違われても仕方がない風貌だった。一応、住所もあり、肩書きはフリージャーナリストだ。「ただし、仕事があれば、の話だがな……」と村瀬自身が苦笑する有様だった。
3年前、海で古代遺跡と思われるかけらが発見された。その現場に偶然居合わせ、いち早く記事にしたのが村瀬だった。村瀬の記事は瞬く間に話題を集め、週間閲覧数でサイトのトップを記録。テレビ出演まで果たした。
だが、それも束の間。「測定ミス」と発表されるや、村瀬の記事は一転して非難の的となった。ネットでは「嘘つき」と呼ばれ、炎上の嵐が吹き荒れた。
その結果、信用だけでなく、仕事への情熱すらも失ってしまった。今では名前を伏せたウェブライターの仕事で細々と食いつなぐ日々を送っている。
公園の土鳩をぼんやりと眺めながら、今日の行き先を考えていたところ、スマホが鳴った。画面には「田宮」の名前が表示されている。
かつて村瀬が紛争地帯の取材で現地ゲリラに襲われ、危機一髪のところを救ってくれたのが田宮の部隊だったのだ。彼にとって田宮は命の恩人である。
電話の向こうで田宮が静かに切り出した。
「3年前の雪辱を果たしたくはないか……?」
村瀬はスマホを握りしめた。
「もう俺には関係ない……」 そう思おうとした。
しかし、胸の奥にこびりついた後悔が、それを許さなかった。
「あの時、俺は嘘つき扱いされた。でも、本当に間違っていたのか?」
3年前の出来事が脳裏をよぎる。
そして田宮の言葉――村瀬は静かに息を吐き、ベンチから立ち上がった。「……やるしかないな。」
話が終わってスマホを切ると自宅兼事務所のアパートまで走って帰り、息を切らせながら使い込まれたノートPCを開いてキーボードを叩き始めた。
ディスプレイに映る見出しには「誰が海洋遺跡を奪うのか? 国家の横暴と調査団の危機」と書かれていた。
アクパーラ号はエンジン調整のために洋上で停止していた。小峰が時間稼ぎのためにでっち上げた点検だ。
クレードルはデッキの上で朝日を浴び、まるでそこだけが異世界のような輝きを放っていた。
田宮はスマホをしまうと「これでかなり撹乱が出来るだろう。後は、星野がどう出るか……」と独りごちた。
通路に向かって歩くと、向こうから星野が来た。
「おや、おはよう。こんな所で会うとは朝からお忙しいようで。」星野が笑みを浮かべながら田宮に挨拶をした。田宮も満面の笑みを浮かべ「おはようございます。星野さんも精が出ますね。」と返した。
「なにしろ、何の偶然か知らんが船が動かないらしいからね。暇だしクレードルの見物をしに来たのさ。」
「帰港は3日後ですから、退屈で嫌になりますな。」
「退屈か……そうだな。それではまた。」星野がクレードルに向かって歩き去ると。田宮は星野の背中を笑顔で軽く手を振り見送った、笑みの裏側に潜む瞳の奥には鋭い光があった。
木村裕子の船室では、「うひょー!」と驚きの声が上がっていた。
どのニュースサイトも、海洋遺跡調査団の成果としてカーラとクレードルのことを大々的に取り上げている。国家技術保全庁の横暴を非難する記事も目立つ。そして、なにより木村を驚かせたのは、カーラがクレードルをバックに写っている画像が堂々と使われていることだった。
「え!これ、いいの!?カーラの画像まで公開しちゃって!」と、目を疑って思わず画面に顔を近づけて見たぐらいだ。
カーラの画像には「かわいい!」や「守ってあげたい!」といった好意的なコメントが多く寄せられる一方、「どう見てもCG」「破滅の天使か?」「やらせだろ」という批判的な意見も少なくなく、コメント欄は約6:4の割合で賛否が分かれていた。
「これはじっとしてられないにゃあ!」
木村はSNSのShiftterを立ち上げると、自分のアカウント『塩対応エンジニア@Salty_yukochan』で投稿を始めた。
『遺跡発掘の調査が妨害されてる状況ってさ、発掘したオーバーテクノロジーが失われるリスクもあるってことだよね。これって未来の新和国にとってどれだけの損失になるかわかってるのかな?』
塩対応エンジニアは技術系やオタク層を中心に人気があり、フォロワー数一万人を誇るアカウントだ。
反応はすぐに来た。
『未知の技術は保護すべきだ』という肯定的な意見。『天使が本物か確認すべきだ』という懐疑的な意見。『カーラかわいい!』『ロマンを感じる!』という感情的な意見。『データーをオープンにすればいいのに』という冷静な意見。オタク層からの盛り上がり、陰謀論や皮肉や野次馬など。500を超える意見が来た。リポストやイイネを含めると3万にもなった。
「うっひゃあ!ひっさしぶりにバズったぞう!」
全部は読みきれないが、それでも、目立つ意見や真剣に考えてくれている意見には真面目に返信をした。塩対応エンジニアのフォロワーが多い理由のひとつは木村の真摯さにあった。
来賓室に戻った星野が執務用のデスクでコーヒーを飲んでいた。朝の日課のニュースチェックをしようとタブレットを開いた瞬間、コーヒーを吹き出しかけた。画面には、カーラとクレードルの写真が堂々と映し出されていたのだ。
「田宮……!貴様ここまでやるのか!」彼の顔が怒りで真っ赤に染まり、歯を食いしばった。
一方で、背筋に冷たい汗が伝っていく。記事に掲載された「国家技術保全庁の横暴」という文言が、彼の心を鋭くえぐっていた。
「このままだと、俺のキャリアに傷が付いてしまうだろ!」星野は震える手でコーヒーを一口飲み、冷静になって考えた。
カーラが現れた翌日の朝に、これだけのニュースサイトに画像付きの記事を載せるのは田宮一人の力ではまず無理だ。
「科学技術省が動いたか……」完全に油断していた。カーラのような未知の存在はリスクが大きすぎて、科学技術省も詳細な調査を終えるまで発表は控えるはずだと思っていた。が、実際は画像まで公開してしまっている。なぜ、こんなリスクが取れる?
星野の思考は次第に整理され、冷徹な判断を下すべく動き始めた。「科学技術省が、国民感情を利用して我々を追い詰めようとしているのか?それとも、内部で何か別の意図があるのか……」彼の眉間に深いしわが刻まれる。
もし国民の目が調査団やアクパーラ号に集中し続ければ、星野たちの行動が制限されるのは明らかであり、最悪、オーバーテクノロジーの公開ともなりかねない。この状況で次に打つべき手は何だ?
「田宮の仕掛けを利用して、調査団の信頼を崩せれば、まだ巻き返しのチャンスはあるかもしれない……」
だが、カーラとクレードルの存在そのものが、従来のやり方では制御しきれない規模の問題であることを星野も痛感していた。
「まずは上層部に報告はしなければなるまい……厳しい追及は覚悟するしかないか。」
深いため息をつくと、椅子に深々と腰掛け、冷めたコーヒーを飲み干して「まずいな」と呟いた。彼の目には、次の一手を模索する険しい光が宿っていた。
「そういえば機関室に妙に若いのがいたな。たしか工作員も数名入っていたはずだ……使うか?」星野はタブレットを操作すると工作員のリストを出した。
アクパーラ号の機関室では、機関士の馬場弘志がエンジン周りの掃除をやり終えようとしていた。「馬場さん燃料系統のバルブのチェック完了したっす。」加藤が馬場の後ろから声をかけた。
「おっ、ごくろー!」馬場が返事をすると、「あの……馬場さん……」加藤が言いづらそうにしているので「なに?どうした?」と馬場は加藤の方を向いた。
加藤はスマホの画面を出して馬場に見せた。画面には、赤い瞳を輝かせているカーラが、クレードルの前に立つ姿が映し出されていた。その周囲にはぼんやりと光る霧のようなものが立ち込め、背後のクレードルの鋭いラインがまるで翼のように見えた。
「うおっ!何これ!やばっ!」馬場がスマホの画面を見て驚いた。
加藤は神妙な面持ちで囁いた。「まるで破滅の天使みたいですよね……」
馬場は再び画像を覗き込むと、口元を歪めて言った。「破滅の天使か……おいおい、そんな洒落にならない話をするなよ。だが、まあ確かにそう見えなくもないか。」
加藤は薄ら笑いを浮かべながら、囁くように続けた。
「昔からそうですけど、どんな船だって、災いの象徴がいると噂されるものですよね。」
加藤はぼんやりとスマホの画面を見つめながら、何かを思い出すように呟いた。
「……あの時の村でも、そんな話がありました。」
馬場が怪訝そうに聞き返す。「村?」
加藤は微笑みながら「なんでもないすよ。」と肩をすくめた。
馬場は一瞬、加藤の様子に違和感を覚えた。何かがおかしい。だが、その思いを打ち消すかのように肩をすくめて言った。「まあ、そうだな。だが変なことするなよ。」
「そんな、しませんよ」加藤は薄ら笑いを浮かべると後ろ手で手袋をいじるふりをしながら、手のひらに収めた部品を確かめた。冷たく、固い鉄の感触があった。