アクパーラ号の船長室は、長年の使用感が漂う簡素な部屋だった。壁や机には傷跡が刻まれ、年季の入った空気が部屋を包んでいる。
激しい雨音が窓を叩つけ、室内に低く響いていた。小峰はソファに身を沈め、紅茶を一口飲むと、深いため息をついた。
二時間前のことだ、星野から突然、ノーマンとカーラを営倉に入れるための使用許可を求められた。営倉は船長が使用許可を出さないと使えない仕組みだ。当然、到底認められる話ではなく、強く断った。
すると星野は、調査団が発掘物を私的利用し、国外流出させる恐れがあると国家技術保全庁に通報した。その結果、国防省から正式に帰還命令が通達され、ノーマンの拘束とカーラの「保護」が「要請」されたのだ。
小峰は呑まないわけにはいかなかった。
「…これでいいのか?」小峰は自問するように、手元の紅茶を見つめた。国防省の「要請」は絶対だ。しかし、それが果たして正しい判断なのか、誰にも確信はなかった。ノーマンやカーラを営倉に入れることで守られるものがある一方、失われるものもあるのではないか。
突然、船長室のドアがノックもなしに勢いよく開いた。雷でも落ちたかの様な轟音の後に険しい表情の田宮が入ってきた。目は怒りに燃えており、そのまま小峰に食ってかかっていった。
『小峰ぇ!』田宮の怒声が船長室に響いた。荒々しく握りしめられた拳が震え、小峰に詰め寄る。「営倉の許可をなぜ出した!」普段、飄々としている田宮がここまで怒りを顕わにするのは珍しかったが、小峰は微動だにせず口を開いた。
「国防省を通じて、ノーマンとカーラの拘束要請が来た……おまけにアクパーラ号の帰還命令付きだ。……すまない」田宮に頭を下げた。
静寂が訪れ、船室の窓を叩く雨の音だけが微かに響いていた。
田宮は大きく息を吐くと向かいのソファーに腰掛けた「小峰、なぜ俺に相談しなかった。星野のやりたい放題を許してどうするんだ。ノーマンがどうなってもいいのか?」
小峰が静かに口を開いた「俺が営倉の許可を出さなかったら。田宮、お前が機密漏洩罪で本国に強制的に送り返されていた。星野はお前の更迭までやろうとしたんだ。」
「なんだと?」田宮が絶句した。
「星野のやつ、そこまで手を回していたのか……。カーラだけじゃない。ノーマンや俺たち全員が奴の策略に囚われているようなものだ。」「つまり、俺がいなかったら、調査団全員が詰んでいたってわけか……」
田宮は小峰を睨んだまま微動だにしなかった。
「ノーマンが営倉にいてもお前がいればなんとかなるが、お前が本国に還ってしまったら調査団はどうなる?」
小峰は紅茶を口に運びながら、拳を握りしめた。
「……俺も、こんなことはしたくなかったさ。」
そう呟くと、また紅茶を飲む。微かな苦味が喉を通り抜ける。
「だが、田宮、お前がいなければ、ノーマンどころか調査団全員が終わっていた。俺はあくまで”最善”を選んだつもりだ。」
田宮は小峰の言葉に反論しようとしたが、結局、言葉が出てこなかった。田宮は拳を握り締めながら、じっと窓の外を睨んでいた。
外は雨が上がり、雨音の代わりに深い暗闇しか見えなかった。
突然、どこからともなく響いてきた美しい歌声が、室内の重い空気を一瞬にして変えた。
「この声は、カーラか?」小峰は顔を上げた。
その歌声は、ただの旋律ではなかった。人の心を優しく包み込み、希望の灯火をともす力を宿していた。
田宮と小峰は思わず耳を傾け、互いに顔を見合わせた。
「この声……」田宮は額に手を当て、頭の奥が震えるような感覚を覚えた。
それは、ただの音楽ではない。何かが、自分の内側に直接響いてくるような感覚だった。
小峰も同じように眉をひそめる。「まるで、心の奥の何かを掴まれているような……そんな気がする。」
「カーラの声には、人の心に直接響くような力があるのか?」
「たしかに心に希望を灯すような……劇場などで歌を聞いて感動するのとは違う何かがある。」
「まさか……神話の天使と関係しているのか?」田宮が低く呟いた。
小峰は黙ったまま考え込むと、紅茶を飲み干して口を開いた。「その可能性は否定できない。だが、それならなおさら、ノーマンとカーラは国家技術保全庁に渡すわけにはいかない。
奴らの手に渡ったら研究どころかバラバラにされるぞ。」
「……できることはあるはずだ。」田宮が静かに言った。「科学技術省との繋がりを使えば、星野を牽制できるかもしれない。」
小峰が腕を組んで眉間に皺を寄せた「しかしアクパーラ号が入港したら終わりだ。軍が入って何も出来なくなる。――まあ、エンジンの調整があると言って時間を稼ぐつもりではいるが、入港まで3日って所だ。」
「3日でカタをつけるのか、面白いな。」田宮がニヤリと笑った。この男は困難に遭うと笑う癖がある。
小峰は少しの間考え込んだ後、頷いた。「……そうだな。これは俺の希望的観測なのだが、カーラの力はこの状況を変える鍵になる気がする。」
カーラの歌声が再び静かに響き、二人の心に小さな光が灯ったように感じられた。
新和国の首都、東光都の官庁街は午後11時を回っても窓の灯りが消えることはない。
科学技術省内の海洋遺跡発掘統合推進本部では、課長の三国恭子が報告書のチェックを終えて帰ろうと思っている所だった。三国のいる統合推進本部は海洋遺跡調査団の中核機関で調査団の行動はここで決められている。
三国は後ろで留めていた髪留めを外して、長い黒髪を広げると眼鏡を取って目頭をマッサージした。
「今日は日が変わる前に帰れそうね。」と呟いてデスクを立ったところで電話が鳴った。三国はため息をついて、ツーコールで電話に出た。
「はい、海洋遺跡発掘統合推進本部の三国です。え?……田宮さん!……ご無沙汰してます。はい?まだ航海中ですよね。どうしました?……」三国はデスクに座り直して、田宮の話を聞いた。
「……なるほど、それはとんでもないものを見つけましたね。技保庁の連中が欲しがるわけです……」眉をひそめて、引き出しからメモとペンを出した。
「星野ですか。……機密理に処理したかったのでしょうけど、急ぎ過ぎですね……。承知しました。」三国は持っているペンを手の上で回しながら、少し考えてから話を続けた。
「報道関係者に何人か知り合いがいます、彼らに仕事をしてもらいましょう。」
そう言いながら、三国はオフィスのドアの鍵をかけた。誰に聞かれているかわからない。星野は間違いなく、この動きを警戒するだろう。
「……出来れば、なにかデータを送ってくださると助かります。……はい、お願いします。」三国はパソコンを立ち上げるとデータリンクをチェックし始めた。
「あ、それと。マル特(古代遺物)の件は言いがかりだと、こちらからも技保庁に圧力をかけますね……はい、そうですね。では、また連絡します。」
三国は電話を切ると今度は別の番号にかけ直した。
時計の針は0時30分を指していた。