その夜は激しい雨が降り、甲板上ではクレードルが落ちない様にビニールシートとロープで固定されていた。雨粒の激しい音が船全体に弾き割るように響き、ビニールシートが風に煽られてクレードルを何度も叩く姿は暴力的に見えた。
雨に濡れるクレードルを横目で見ながら、ふたつの影が身を潜めるように階段を駆け降りていった。有田と木村だ。
「営倉って牢屋の事だよね?うちらの船に牢屋があるなんて!」
「そりゃ、元軍艦っすからね。秘密の隠し部屋のひとつくらいあるでしょう。」有田がのんびり言う。
「秘密の隠し部屋って……ゲームじゃないんだから!」
船の最下層まで降りると、薄暗い通路に船のエンジンの低く唸る音が不気味に響いていた。
「こっちすかね。」狭い通路を奥まで進むと、突き当たりに鉄格子が嵌め込まれた2メートル四方ほどの小部屋があった。
「ノーマン!やほー、生きてる?」木村が手を振りながらノーマンに話しかけた。部屋の壁にもたれて座っていたノーマンが顔を上げ、「来てくれたんだ。ありがとう、本当に助かったよ、君たちが来てくれなかったら、俺は……」笑ってはいるが疲れ切った表情だ。
「大変だったっすね、差し入れ持ってきたっす。」有田がポケットから小さなラジオを出した。
「これおいら特製チューンの短波ラジオっす、ここでも充分電波は受けられるっすよ。暇つぶしに聞くといいっすよ。」
「ありがとう!」ノーマンがラジオを受け取る。
「私からはこれ!」木村が板チョコを取り出してノーマンに渡した「ありがとう、助かるよ。」「でしょー!」木村はそう言って隣の部屋を見るとビクッとした。
殺風景な何もない鉄の小部屋の中央でカーラが静かに正座をしていたのだ。薄暗い部屋の中で銀色の髪がわずかな光を反射し、額の宝石が微かな光を放っている。白く端正な顔立ちも相まってまるで人形が座っているようだった。これほど営倉に似合わない組み合わせもないだろう。
カーラは顔を上げて木村を見ると、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ああ、海洋古代文明の落とし子だ。」
「ひえええ!いやいやいや、落とし子とかサラッと言うなし!?」
木村は頭を抱えながら、カーラをじろじろと見た。
「……うそでしょ。美人すぎない?」
「なんで正座してるの!?」
「罪を償う姿勢はこれだと感じたからです。」
「えええ!?」
カーラは鉄格子の近くまでくると「初めまして、カーラです。」と丁寧に挨拶をした。彼女の柔らかく、それでいてどこか凛とした響きを持っていた。
「あ、えーと、木村裕子です!よろしくお願いします!」木村は間近で見るカーラの美しさに圧倒され、ドギマギと頭を下げた。「あ、そうだ!これ要りますか?」ポケットから板チョコを出してカーラに差し出した。
「これは?」カーラは板チョコを手に取ると、不思議そうに板チョコを眺めた。
「それはチョコレートってお菓子だよ、おいしいよ!」木村は親指を立てた。
「そうだ!みんなで食べちゃおうか!」ポケットから板チョコを出すと、一枚は有田に渡してもう一枚は自分が持った。「何枚チョコ持ってんすか?」有田が呆れ顔でチョコを受け取る。
「チョコは正義です!」木村がカーラにVサインした。
「チョコは正義……」カーラが続けて言う。
「あ!この人の言う事は気にしなくっていいっすよ!」慌てて有田がフォローした。
その様子にノーマンが笑った。久しぶりに心の底から笑った気がした。
「じゃ!いただきます!」木村が板チョコに齧り付く。
「ん!おいしい。やっぱチョコはいいねー!」とほっぺたに手を当てた。
「カーラも食べなよ!」木村に促され、カーラは恐る恐るチョコを口に含んだ。
甘さが舌に広がると、彼女の目がわずかに見開かれる。
「……あっ」
一瞬、言葉を失った後、嬉しそうに微笑む。「とても甘くて……おいしいです!」
「ふふん、そーでしょう!」木村は満足そうに頷いた。
「こんな味を作り出せるなんで、人は凄いですね!」カーラは驚いた表情でチョコを見た。
「チョコは偉大です!」木村が得意そうに言った。「いや、だから本気にするからその言い方はやめるっすよ。」
「それはさすがに冗談と理解は出来ました。」カーラは笑って言った。みんなも笑った。
「長くは居られないのでそろそろ帰るっすよ」このまま黙っていると朝まで居そうなので有田が切り出した。
「じゃ、ノーマン!カーラ!頑張ってね!」
「ありがとう、助かったよ。」
「また、会いましょう。」カーラが手を振った。
木村と有田は手を振り返して薄暗い通路を戻って行った。
「あの子の事、破滅の天使とか言う奴がいたけど、そんな事ないと思うけどなぁ?」外に上がる階段で木村が聞いたが、雨音と風の音でその声はかき消された。
木村と有田が帰ると、部屋の中が急に薄暗く感じた。エンジンの唸る音も大きくなった気がする。
「急に静かになったな。」ノーマンが独り言の様に言った。
「そうですね、お日様のような人たちでした。」カーラが答える。ノーマンは隣の部屋なので顔を見る事が出来ないのは残念に思えた。
「お日様というより、嵐かな。」
「それでは、せっかく来てくれたのに失礼です。」少し笑っている声だ。
「カーラ、聞いてもいいかな。」
「なんでしょうか?」
「さっき、罪を償う姿勢で正座をしているって言ったけど、君の罪ってなんだい?」
「…………」
沈黙が続いた。ノーマンは少し焦ったように言葉を付け加えた。
「無理に言わなくてもいいよ。でも、もし話したいことがあるなら、聞かせて欲しい。」
カーラは小さく息をつき、静かに口を開いた。
「……わからないのです。」
「わからない?」
「私には記憶がないのです。でも、深い後悔と痛みだけが私の中に残っています。それが罪だと思っています。」
ノーマンはカーラの言葉の重さを噛み締めるように頷いた。
「カーラ」
「はい」
「君が感じている罪が何かを知るために、俺たちが助けになることができるかもしれない。いや、手伝わせてくれないか。」
カーラの声が少し明るくなった。
「ノーマン、ありがとう。」
ノーマンが有田の短波ラジオを手にして座り直そうとしたとき、手からラジオが落ちて、偶然スイッチが入り音楽が流れてきた。
「この音楽はなんという曲ですか?」
「昔流行った恋の歌さ。」
その曲は、好きな人に会いたくても会えない切ない気持ちを歌ったものだった。短波のノイズ混じりに聴く昔の歌はノスタルジックな想いを掻き立てた。
「良い曲ですね。私の記憶の中にも歌があります。」
「歌って欲しいな。」
「少し恥ずかしいですが、わかりました。」
カーラは古代文明の言葉で歌い始めた。柔らかく赤い光がカーラを包み込むように輝いた。
透き通ったカーラの声が響く。
それは、まるで遠い昔の記憶を呼び覚ますかのようだった。
言葉はわからないのに、懐かしい気持ちになる。
まるで、すべての人がどこかで知っているはずの旋律のように――。
外の風雨が収まり、空には月が浮かんでいた。カーラの歌声は営倉の外まで流れ、ブリッジに厨房に機関室へと、アクパーラ号のみんなに届き、誰もが一瞬、息を飲んだ。
来賓室にいる星野にもカーラの歌声は届いていた「……歌で虜にするとはまるでセイレーンだな……いや、破滅の天使か?厄介なものを拾ったものだが、その大きな力、せいぜい利用させてもらおうか。」星野はカーラの歌に毒ずくと、手に持ったグラスのウイスキーを飲み干した。