俺の親父は厳しかった、そりゃもう半端なく。
中学から高校卒業までの六年間といえば、皆は何を思い浮かべるだろうか。
初めての恋人と充実した日々や、友人たちと時を忘れてゲーム三昧なんてのも。あぁ、時間を持て余し『暇だ暇だ』とボヤく毎日というのもよく聞く。
そんな日常が心の底から羨ましいと思う。
同じように過ごしたかった。経験してみたかった。なぜなら俺の青春は、勉強のみで終わったから……。携帯ゲーム機を持ち寄り楽しそうに談笑する声も、夜中のコンビニ前に集まる姿も、自由の無い俺には何の関係もない。近くて遠い世界。
学校と食事に習い事、それらに風呂以外の時間は全て勉強なんて想像できるか? 時に強く反抗を試みることもあったけれど、親父に「親の言うことも聞けんのか!」と叱られ、
我が家は、
幼少の
「うわ、おうちが広い!」
「スゲー! お前んち金持ちだな!」
「お父さん社長?」
手入れの行き届いた広い庭に、リビングには最新の大型テレビ。車庫には父の趣味である高級車がずらりと並ぶ。服や持ち物の全てが一流の品々で用意され、そんな家だ、当然飯だって旨いに決まっている。極めつけは、その辺の芸能人よりずっと美人な母か。
そんな所でずっと育ってみろよ。幼い頃から散々に言い聞かされてきた、
『この世は競争社会だ、一瞬でも気を抜けばすぐに置いていかれるぞ。なぜ机に向かわん、死ぬ気で努力せい!』
最初は
子供ながらに社会の仕組みを理解した俺は、皆が人生を
努力が実を結び、日本でも指折りの有名私立大学医学部への入学を果たした俺は、
『これで俺の世界は変わる。モテ期到来!』と真剣に思ったさ。
皆思うだろ、医学生だよ? 某有名私立だぜ? ブランドじゃん。
だが、俺のターンは始まらない。
人生で
なぜかって? そんなのは簡単さ。
中高と勉強漬けだった俺、いや俺達医学部生はな、その有名私立大学の中にあっては
『ならば仕方がない』
と、
そうじゃないだろ。
自分は陰キャカテゴライズでも、相手も同じカテゴリーは嫌なんだ。そんな為に努力を重ねて来た訳ではない。昼は
ちなみに肉食系は却下で、優しいのが必須条件だ。
なぜなら、俺たちの精神が耐えられないからな!
夢くらい見たっていいだろ……、くうぅ。
知ってるか? 苦労して入った医学部も軽い地獄が続く。
朝から晩まで専門用語が飛び交う講義に、毎週のように課されるレポートの山。学ぶことは多く、先のスケジュールもびっしりと埋まってるのに、四年からはソコに病院実習も加わるときた。遊ぶ暇なんてこれっぽっちも無い。
ハハハ、笑いも枯れるわ。
そんな地獄のような学生生活を終え、医師として勤め、気が付けばもう十年の歳月が流れていた。
初めて現場に立たされた時の怖さがわかるか?
頼れる先輩医師が不在の夜勤が、一体どれほどの恐怖か。シンと静まり返った深夜の病棟、ナースステーションの明かりだけが廊下をぼんやりと照らし、患者の状態を知らせる無機質な音がやけに大きく響く。
お前達にはわかるまい。
若造に、人の命が重くのしかかる。
その怖さを克服するために、知識で武装する。
結局、いつまでたっても勉強なのさ。
そうして気づけば、俺はこの年齢になっても唯一人。
物質的な豊かさだけでは決して満たされない。癒しの無い世界。
こんな医療ロボみたいな毎日が、俺の望んでいた将来か? もう疲れたよ。
◇ ◇ ◇
たぶん、俺は死んだのだ。
当直明けの当直という、
……そこで俺の記憶は途切れている。
いやいや、死んだら説明できないだろって?
その通りだ。愚かなことを言ってる自覚はある。
なぜ説明できるかというとな? 簡単さ、俺、目が覚めたら違う人だったんだよ……。ハハハ、笑えねェ。こんな話、誰が信じるというのだ。
──時は少しさかのぼる。
「まぁ、ぼっちゃま。お目を覚まされたのですね」
重たい
状況が理解できず、頭の中は疑問符でいっぱいだ。疲れてうっかり寝てしまったのかもしれないが、ここは一体どこだ? それになぜメイドが? メイド喫茶に入店した覚えも無ければ、当然
「ご両親を呼んで参りますから、そのまま安静にしていてくださいね」
部屋を出ていくそぶりを見せた
「絶対ですよ?」と。
まるで子供に言い聞かせるような
そもそも、まだ状況を
それからしばらく、慌てて部屋を飛び出したメイドが二人の男女を連れて戻ると、そのうちの一人がいきなり「フェリクス。母様よ、目を覚ましたのね」と涙ながらに俺を抱きしめる。
ふわっと頬を包む、とても柔らかな二つの
あ、後で高額請求がくるパターンかも知れない。し、しっかりしろ。
まずは落ち着け。慌てる乞食は貰いが少ないともいう……いや違う、それではまるで、パイ包みの延長を求めてるみたいじゃないか。ああ、でも柔らかいし、ほのかに甘い香りまでぇぇ……。
「ど、どど、どちら様ですか?」
まるで赤ちゃんの頬みたいに柔らかくも温かい、そんな夢のような心地に包まれながら、思考を停止させまいと
「そんな……私がわからないの?」
「フェリクス、私はわかるかな?」
「いえ……」
フェリクス? 状況がさっぱり掴めない。
ただ、ベッドに横たわる状況から察するに、
「どこで倒れたのか存じませんが、お店にご迷惑をおかけしてしまったようで……本当に申し訳ない」
「フェ、フェリクス。一体何を言ってるんだ? お、おい、どうなっている。何とかしろ!」
店長が必死の形相で、白髪交じりの老人の肩を揺らしていた。
皆なかなかの演技だと思う。感心する。
「おそらく、落馬の際に頭を強く打たれたのでしょうな。記憶喪失でしょう」
「き、記憶が無いだと!?」
「ええ、無理に思い出させるのはご子息を追い詰め、却って良くないですな。しばらくは安静にしてあげるのがよろしいかと」
「なんてことだ……」
何言ってんだこのバカ、誰が
「フェリクス、急に押しかけてすまなかった。落ち着くまでゆっくりするといい」
一連の迫真の演技にどう返してよいかわからず、ただ黙って眺めるしかできないでいる。俺だけ台本無しとか、無理でしょーよ。
「さあ、エミリー行こう。医者も言ってただろ? 今は目を覚ましただけで良しとしようじゃないか、ゆっくりさせてあげるんだ」
「ええ、わかったわアナタ。グスッ」
え? ちょっと待って、あいつ医者役だったの?
意識を失う程、強く頭を打ったなら普通検査だろ。
──
皆が去り、知らぬ部屋にただ一人。
どうにも落ち着かない俺は、薄暗い部屋の中を色々と物色し始める。磨き上げられた木製の家具や、壁に掛けられた古めかしさを感じる絵画。足は、自然と甘い香りが
鏡台の前に立ち、意図せぬ自分の姿を見て腰を抜かしそうになる。
「うわああああ、嘘だろ?」
そこに映っていたのは、見慣れた自分の姿ではなかった。金髪。それも、どう見ても若すぎる、まるで子供ではないか。
混乱する頭で、必死に状況を理解しようとする。
まさか、これが異世界転生、ってやつなのか……?
ご都合満載で、俺が死ぬほど嫌いなやつじゃないか!
死ぬほど勉強してやっと医者になった。これからセレブな生活と美人な奥さんを手に入れる予定だったのに! ふざけるな、こんなの認められるか!
……元の世界に戻してくれ、頼むから。
「転生なんてキャンセルだぁぁぁ」
心の底から、そう叫んでいた。