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第10話 メロの誘惑

 馴染みのバーを出たのはいいものの、俺の記憶は曖昧でほとんど覚えていなく、気付いた時にはタクシーに座らせられていた。狭い後部座席だから仕方ないとは言え、必要以上の距離を詰めて知っている顔が目前に迫っていた。頬や鼻先、額に肌を擦らせてきているが、何故?


「んん……っ、オスの臭い、堪らない♡」


 彼女は俺の髪や首筋に顔を埋めると、くんかくんかと臭いを嗅いでいた。仕事終わりに酒を飲んでかなり汗臭いはずなのに、コイツは何をしているんだ?


「嗚呼、好き……、もっともっと」


 まさかコイツ、俺が眠っていることをいいことに、振られた不倫相手の代用にしているのではないだろうか?


 ——それよりも、ここはタクシーの中だろ?

 運転手もいるのに、コイツは何をしているんだ?


 太ももの辺りを弄り、際どいところをソフトタッチする。エロい、なんてエロい女なんだ、メロ秘書!


 だが、いくらメロが攻めてこようが、酒を浴びるほど飲んだ俺には敵わないはずだ。いや、正確にはどうしようもないと言うのが正解だろう。


(酒を飲み過ぎると俺のムスコは、うんともすんとも言わなくなるんだよな)


 昔と違って色気を帯びたメロは魅力的な女性へと変貌を遂げたのだが、俺には既に波留という心に決めた女性がいる。

 どれだけメロが攻めてこようと最後まで抵抗を続けるぞ!(そもそもタクシーの中で卑猥な行為はしてはいけません)


「お客さん、もうすぐで目的地に着きますよ?」


 運転手のおっちゃんが声を掛けてきた。

 窓の外を見ると見慣れた景色が映っていて、何だかんだ言いながらもキチンと俺の家まで送ってくれる様子で安心した。


(ラブホやメロの家に連れ込まれたらどうしようと思ったけど、杞憂に終わって安心したな)


 気持ちは抗う気分だったが、物理的に攻められた時には敵わないと不安だったので、俺は胸を撫で下ろすかのように安堵した。


 ——だが、タクシーを降りた後のメロの距離が妙に近くて、焦燥感に追い立てられた。


 波留に比べると貧相だけれども、それでもアピールしてくる柔らかな存在感。しかし、突き放そうにも彼女の支えなしではまともに歩けない。

 そんなしっかりホールドの彼女に連れられて、部屋番号の後に呼び出しボタンを押した。


 …………ん、待てよ?

 この状況って、大丈夫か?


 どうしようもない状況に気持ちは酷く混乱していたにも関わらず、事態は着々と進んでいく。


『はい、どちら様ですか?』


 何も知らない波留がインターフォン越しに声を掛けてくる。額に脂汗が滲む。脈が早まる。俺は縋るように隣のメロを見た。


 た、頼むから余計なことは言わないでくれ!


 そもそも俺達は偶然会って、健全に飲んでいただけなのだ。何もやましい事はしていないのだが、心がざわざわして、なかなか気が休まらない。身体が硬直してうまく動かせない。足がすくんで震え出す。


「私、旦那さんの会社に勤めている者なんですが、飲み過ぎた旦那さんを送りに来ました」


 ニッコリと作られた顔に恐怖を覚える。

 おい、お前……っ、自分が好きなやつに振られたからって、俺の家庭までぶっ壊すなよ⁉︎


『え、あ……わざわざ申し訳ございません。すぐに下に降りますので、お待ちください』


 施錠されたドアは開くことなく俺達は待ちぼうけを喰らわされていたが、しばらくして慌てた波留がエレベーターを降りて近づいて駆けてきた。


 タンクトップにフード付きのルームウェアーを羽織って、たゆんたゆんに揺れる乳に俺は目を奪われた。


「大智さん……! すいません、うちの主人がご迷惑をお掛けして」


 波留の手が俺の腕を掴んで、申し訳なさそうに引き寄せた。

 だが、波留の顔色は不安を帯びたまま消えなかった。自然と強まる掴んだ手。それに気付いているのか、メロも負けん気で応えてきた。


「いえいえ、迷惑なんてとんでもない。久しぶりに社長とご一緒できて、私も嬉しかったので」


 意味深な笑みを残して、メロはその場を立ち去っていった。


 残された俺達は、不穏な空気を拭えないまま立ち尽くしていた。腕を掴んでいる指が僅かに震えている。眉を顰めて浮かない表情になっていた。


「大智さん……。私が心とお留守番している間、あんな綺麗な女の人と飲んでいたなんて」


 ポロッと溢れた波留の胸の内を耳にし、必死に言い訳を考えていたが、黙り込んだまま寝たふりを貫いてしまった。


 違うんだ、違うんだよ波留! メロとは偶然会っただけで何もなかったんだ!


 だが、自分ではどうしようもない状況に整理が追いつかず、俺は考えることを放棄してしまった。


 ————……★


「いや、何もなかったんだ。ちゃんと話せば分かってくれるはずなんだ!」

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