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第7話『天守』

本能寺の鐘が、まだ闇に沈む京の街に響き渡る。

六月朔日の明け方前、骸は京の宿坊で目を覚ました。数日前から、この地で機会を窺っていたのだ。宿坊の窓から見える本能寺の輪郭が、東の空が白み始める中、次第にはっきりとしてきていた。


その時、北からの物音が聞こえ始めた。

多くの足音が、次第に近づいてくる。それは明らかに、軍勢の進軍の音だった。骸は窓辺に立ち、暁闇の中を見通そうとする。松明の光が、堀川通りを南下してくるのが見えた。


「敵は本能寺にあり!」


かすかに聞こえた号令に、骸は動きを止めた。声は間違いなく明智光秀のものだった。坂本から京へと向かった光秀の軍が、ついに本能寺に到達したのだ。これは、骸にとっても絶好の機会となった。


本能寺の中庭には、既に騒ぎが広がっていた。信長の護衛の侍たちが、急いで備えを整えている。しかし、その数は少ない。信長はわずかな供回りで本能寺に滞在していたのだ。


骸は静かに刀を帯びる。この時のために、これまでの全てがあった。無心流道場が炎に包まれた日から、この瞬間のために生きてきた。花世の面影が、まだ刀の鞘に宿っているような気がした。


本能寺の堂内に入ると、既に戦いは始まっていた。明智軍の放った矢が、闇を切り裂いて飛んでくる。火の手が上がり始め、堂内は炎と煙に包まれつつあった。


混乱の中、骸は確かな足取りで信長の居室へと向かう。襖を開けると、そこには信長の姿があった。床の間には、花世の頭蓋骨が置かれている。月光と松明の光が入り混じり、その白い骨を不気味に照らしていた。


信長は、静かに振り返った。その目には、すでに全てを悟ったような色が浮かんでいた。


「骸よ」

信長は窓辺に立ち、外の混乱を眺めていた。松明の光が、本能寺の境内を不気味に照らしている。明智軍の包囲網が、次第に狭まってきているのが分かった。


「お前の手で、介錯を頼みたい」


その言葉に、骸は静かに首を振った。


「あなたらしくありません」


骸は刀を抜きながら、静かに言葉を続けた。


「まるで天上から見下ろすような、その高貴な物言い。ええ、結構ですとも。私にはそのような贅沢な思考など、とうの昔に失われました」


信長の表情が一瞬、歪む。しかし、その声は落ち着きを失わなかった。


「所詮、人の世は移ろいゆくもの。権力も、野望も、この世の定めには逆らえぬ。それを知る者こそが、死に様を選ぶ資格を持つのだ」


骸は、その反応を見逃さなかった。


「加害の立場にありながら、如何にも正論を吐くその根性。下賤なこの身に、大層染み渡りました。まるで腐った魚の臭いのように。そうですとも、私たちは腐った世の中で、腐った魚のように生きているのです」


その言葉が、部屋の空気を凍らせる。信長の表情が一瞬歪んだ。それは、怒りではなく、むしろ嗜虐的な愉悦を含んでいた。


「最期の言葉か」


信長の動きは、予想以上に速かった。彼は懐から短刀を取り出すと、一瞬の躊躇もなく骸に襲いかかった。その動きには、これまでの高貴な物腰は微塵も残っていない。ただ純粋な、殺意だけがあった。


骸は身を翻して躱すが、信長の短刀が左腕を深く貫いていた。肉を裂く音と、骨を砕く感触が、夜の静寂を破る。温かい血が、畳を染めていく。刃が横に引かれ、左腕が完全に切り離されていく。


刹那、骸の脳裏に一つの光景が浮かぶ。かつて道場で、花世と交わした言葉。「無心とは、ただ一つを想うこと」。その真意を、今ようやく理解する。


体を貫く激痛も、失われた左腕さえも、もはや意識の外にある。そこにあるのは、ただ花世への想いだけだった。これが無心なのだと、骸は悟った。


火の手が本能寺を包み始め、赤い光が部屋の隅々まで差し込んでくる。信長の短刀が再び閃く。今度は喉元を狙っていた。骸は右足を半歩後ろに引き、僅かに身を捻る。刃が空を切る音が、炎の裂ける音に重なる。


信長の呼吸が乱れ始めていた。その隙を突くように、骸の右手が動く。自然で優美な動きだった。


刀身が不規則な軌跡を描く。信長の短刀が追いすがるが、その動きは僅かにずれていた。骸の刀は、まるで水が低きに流れるように、自然な必然として信長の首に達する。


一閃。信長の首が、ゆっくりと宙を舞う。血飛沫が、炎に照らされて真紅に輝いた。その光景は、まるで地獄の華が咲いたかのようだった。


骸は、血に濡れた床を見つめていた。そこに映る炎の光が、ゆらめいている。左腕からの血が、まだ滴り続けていた。その音が、本能寺を包む炎の音に溶けていくように響く。


骸はゆっくりと、花世の頭蓋骨を拾い上げる。しかし手は次第に力を失い、大量の失血が意識を遠ざけていく。


外の炎が本能寺を包み込み、その明かりが部屋の中まで差し込んでいた。


「頭狩りと呼ばれ、この手で多くの命を葬ってきた。もはや、私に正しさを語る資格はない」


「それでも。ただ一つ、あなたへの想いは──」


骸の体が、前のめりに傾いていく。腕に抱かれた頭蓋骨が、炎に照らされて白く輝く。意識が遠のく中、最後まで残っていたのは、決して正当化することのできない愛の形だった。

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