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第5話『無心流』

天正元年の春、無心流道場。

早朝の稽古が終わり、朝靄が薄れゆく庭に静けさが戻っていた。木々の間を抜ける風が、かすかに襖の隙間を震わせる。その音は、まるで道場そのものが呼吸をしているかのようだった。


骸は裏庭で木刀の手入れをしていた。布が刃筋を撫でる音が、規則正しく響く。しかし、その手つきには僅かな乱れが見える。今朝の稽古で、道場主である花世の父が告げた言葉が、まだ耳に残っているからだ。


「骸、お前は無心流の真髄に近づいている」


その言葉には深い意味が込められていた。単なる称賛ではない。むしろ、これから先の道のりの険しさを諭すような、そんな響きがあった。


裏庭の空気が、僅かに動いた。花世が静かに近づいてくる気配を、骸は背中で感じていた。彼女は道場主の娘らしい凛とした佇まいで、音もなく縁側に腰を下ろした。その姿は、まるで障子に映る影絵のように、優美でありながらどこか儚さを感じさせた。


「父上の言葉が気になるのですね」


花世の声には、骸の心の揺らぎを見透かしたような静かな理解が滲んでいた。骸は木刀を下ろし、空を見上げた。朝日は既に高く登り、雲一つない青空が広がっている。その清々しさが、かえって自身の心の曇りを際立たせるようだった。


「無心とは何か。流派の根源すら、私には曖昧な理解しかありません」


その告白には、己の未熟さへの忸怩たる思いが込められていた。骸の視線は、まだ空を見上げたままだ。


「雑念を払おうとすればするほど、尚更、余計に一つのことが頭から離れないのです」


その言葉に、花世の指先がわずかに震えた。経典を握る手に、かすかな力が入る。彼女は、骸の姿を見つめながら、静かに微笑んだ。その表情には、どこか安堵のような、そして深い愛おしさのような感情が浮かんでいた。


彼女の手元の経典に、斜めから差し込む陽の光が落ちる。その光は、まるで仏の慈悲のように、二人を柔らかく包み込んでいた。


「雑念は、誰にでもあります」


花世の声は、まるで風のように、しかし確かな意志を持って響いた。その声には、父から受け継いだ教えと、自身の心の真実が溶け合っていた。


「ただ一つのことを、深く想い続けること。それこそが、無心なのではないかと、私は思うのです」


その言葉には、単なる教えを超えた、確かな想いが込められていた。花世の指先が、そっと骸の袖に触れる。その仕草は偶然を装いながら、しかし間違いなく意図されたものだった。


二人の間に流れる静寂の中で、骸は自分の心の中に確かな変化を感じていた。無心とは、何も考えないことではない。ただ一つのことを想い続けること。その理解は、これまでの迷いを静かに溶かしていくようだった。


夏が過ぎ、秋風が立ち始めた頃。道場には日々の稽古と説法が続いていた。しかし、その平穏な日常の底に、何か不穏な気配が忍び寄っていることを、誰もが感じ始めていた。


近隣の村々からは、織田の軍勢が北上しているという噂が届いていた。寺社の焼き討ちの知らせも、次々と耳に入る。花世の父は、そうした情報に眉を寄せながらも、どこか、変わらぬ態度を保っていた。


襲撃は、夜明け前の最も暗い時刻に始まった。


骸が道場に辿り着いた時、空気は既に血の匂いを帯びていた。松明の光が闇を切り裂き、その中で武者たちが蠢いている。憎悪が込み上げ、骸の手は震えていた。


刀を抜く音が、夜明け前の静寂を引き裂いた。

包囲網に突っ込む。一閃、一閃。その軌道は荒々しく、時に蛇行する。怒りに任せた一撃一撃が、技の粗さを露呈していた。

己の未熟さが、痛いほどに胸に突き刺さる。血飛沫が顔を濡らしても、もはや意に介さない。


むき出しにした叫び声が、焼け落ちる道場の前に響き渡る。その腕の中には、胸から血を流す花世の遺体があった。その顔は、まるで眠っているかのように穏やかで、それがかえって骸の心を引き裂いていく。


目の前に、一人の武将が立っていた。その存在感は、まるで時代そのものを体現したかのようだ。


織田信長。

その男は、燃え盛る道場を背景に、佇んでいた。骸の荒々しい剣術の中に紛れる真意を見透かすような、冷徹な視線。


「いやぁ、見事な剣さばきだった。見世物としては、申し分ない」


骸は再び刀を構える。憎悪と恐れが入り混じり、刀身が不規則に揺れている。目の前の男からは、圧倒的な力の予感が漂っていた。


「復讐か?」

信長の声には、嘲りが混じっていた。


その言葉には、絶対的な力への確信があった。骸は自分の未熟さを、否応なく思い知らされる。


「この世を統べるのに必要なのは、力だけだ。憎しみも、悲しみも、すべての感情は力の前では意味を持たん」


炎が音を立てて燃え上がる。その光が、信長の顔を不気味に照らし出していた。


「さあ、選べ。無意味な死か、それとも——」


骸は、ゆっくりと刀を下ろした。その動作には、屈辱と決意が混ざり合っていた。


「弱き者が強き者に従うは、必然」

骸の声は、血を吐くように響く。

「されど、必ずや、この刃であなたの首を刈らせていただきます」


信長は、大きく笑った。その笑いには、純粋な愉悦が込められていた。

「良かろう。その刃が、いずれこの首に届くまで、楽しみに待とうではないか」


炎は更に勢いを増し、道場は崩れ落ちていく。その光景を背に、骸は信長の前に跪いた。その姿勢には、深い屈辱と燃えるような復讐心が混ざり合っていた。

それは、未熟な剣士の、しかし決して消えることのない誓いだった。花世の血の匂いが、まだ手に残っている。

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