目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話『追及の果てに』

安土城の間。

陽射しが差し込む窓辺に、信長は立っていた。先ほどから続く骸との対話は、北方の情勢へと及んでいた。


「越中の佐々が我が方に従うと申しながら、未だに決断できぬというのは本当か」


「はい。越後との国境付近で、不穏な動きが確認されております。特に、かつての一向一揆の残党たちが、新たな動きを見せ始めているようです」


「その背後に、佐々の影があるというのだな」


「越中の民衆の多くは、今なお浄土真宗の信徒でございます。佐々も、彼らの力を完全に無視するわけにはいかないのでしょう」


「その動きを探っていたのが、奥村か」


信長の視線が、部屋の隅に跪く男へと向けられた。織田家の宿老、奥村玄明である。北国との密偵のやり取りを任されていた重臣である。しかし、上杉家からの莫大な報酬の誘惑に負け、越後との密約を結んでいたことが発覚した。彼の手による書状が、先の反乱で押収した文書の中から見つかったのだ。


「玄明殿は、佐々の内情を探るよう命じられておりました。しかし、見つかった書状によれば、越後上杉との間で密約を交わしていたようです」


骸の言葉に、奥村の肩が微かに震える。


「御慈悲を、信長様」


奥村の声が震える。彼は必死に言葉を紡ぎ出そうとしていた。先の任務での裏切りについて、どうにか言い訳を見出そうとする。しかし、その懸命な努力が、かえって彼の不安と焦りを際立たせていた。十年の忠勤が、今この瞬間に帳消しになろうとしている。その予感が、奥村の心を締め付けていた。


「奥村」


信長の声は低く、しかし鋭い。その一言に、部屋の空気が凍りつく。


「お前は、私に何を求めている」


その問いには、既に答えが含まれていた。奥村は、自分の運命が決まったことを悟る。それでも、最後の望みにすがるように言葉を続けた。


「はっ。私めは、ただ、この十年の忠勤を——」


「十年か」


信長は、ゆっくりと振り返る。その目には、冷たい光が宿っていた。しかし、その冷たさは憎しみや怒りからではない。まるで、水面に映る月のように、ただ澄み切っていた。


「骸」


「はい」


「お前は、どう思う」


骸は静かに一歩前に出た。奥村は、その姿を見て顔を蒼白にする。しかし、その表情には、もはや恐怖だけではない。ある種の諦めと、それと同時に生まれた開き直りのような感情が混じっていた。


「骸殿。あなたも織田様に重用されておられる。それもまた、運が味方したからではありませんか」


骸は、黙って立ち続けていた。その姿は、茶室に置かれた花器のように、その場の空気に溶け込んでいた。


「運を味方にしなければ生きられないとは、とんだお笑い種ですね」


骸の声は、相変わらず穏やかだった。


「いつ死ぬかは運次第など、有りはしません。この世にあるのは、必然だけなのです。今、ここに立っているという、事実。それを偶然と言い張る方が、現実が見えてないのでは無いですか?」


その言葉には、単なる哲学的な思索以上のものが込められていた。


「では、私の死もまた必然と?」


奥村の声が、少し震えていた。その問いには、自らの運命を見据えようとする覚悟と、それでもなお残る未練が混じっていた。


「そうです。あなたは、この瞬間のために生きてこられた。それ以外の何物でもない」


その時、襖が静かに開かれた。明智光秀の姿が、柔らかな陽光と共に現れる。


「失礼いたします。北方の情勢について、少々申し上げたいことがございまして」


五十を過ぎた年齢からは想像できないほどの端正な立ち姿。今川義元に仕えていた頃から培った学才と、近年の丹波平定で示した戦術眼。その両方を合わせ持つ希有な武将として、光秀の名は知れ渡っていた。彼が織田家に仕官してから既に十年以上。その間、朝廷との交渉役として手腕を発揮し、時に外交官として、時に軍師として、信長の信任を得てきた。


その物腰には、公家にも比すべき優雅さがあった。しかし、その作法の端々に垣間見える計算された動きは、決して気を抜くことのできない用心深さを感じさせる。今この瞬間も、部屋の空気を読み取りながら、最も効果的な立ち位置を選んでいるかのようだ。


信長の視線が、光秀へと移る。光秀は骸の傍らまで進み出ると、ゆったりとした動作で一冊の書物を取り出した。


「こちらは、越後の地誌でございます。上杉家の家臣が記したもの。奥村殿の働きにより、入手することができました」


光秀は更に続ける。


「越後と越中の国境には、幾つもの抜け道がございます。地元の民でなければ知り得ぬような。これらの情報は、今後の戦において必ず役に立つはずです」


その言葉には、単なる助命嘆願以上の意味が込められていた。奥村を生かしておくことの政治的、軍事的な価値を説いているのだ。


「なるほど」


信長の声に、僅かな興味が混じる。


「生かすことにも、それなりの価値があるということか」


その言葉に、骸は静かに目を伏せた。光秀の提案は、確かに道理を示していた。しかし、その道理の向こうに、骸はただならぬ予感を感じ取っていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?