安土城の天守、その最上階に設えられた信長の居室。
窓からは琵琶湖が一望できる。水面に映る夕日は、さきほどの茶会の頃よりも深く沈み、城下の影が長く伸びていた。信長は窓辺に立ち、眼下に広がる風景を見下ろしている。
居室の意匠は、信長その人のように鋭利だった。黒漆の柱は真っ直ぐに天井へと伸び、障子の桟も無駄な装飾を排して端正な直線を保っている。南蛮渡来の金箔を贅沢に施した屏風のみが、異国の技術を誇示するかのように煌めいていた。
「外国からの使者との茶会はどうであった」
信長の声は、いつもながら鋭い。骸は部屋の中央で跪いたまま、静かに答える。
「はい。彼らはさらなる布教の自由を求めておりました」
「ほう」信長の声に冷たい嘲りが混じる。
「しかし、彼らは我が国の立場を誤解しているようでございます。寛容という言葉を口にしたため——」
「寛容?」
信長の笑みが、一層冷たくなる。「彫像を打ち砕き、経典を焼き払う私の手の中に、彼らは寛容を見出したというのか」
骸は黙って頭を垂れる。窓の外では、夕日が琵琶湖の水面を血のように染めていた。かつて比叡山の僧兵どもが、あの水面を渡って逃げようとしたことが、骸の脳裏に浮かぶ。
「骸よ。この国の僧たちは、私を魔王と呼んでおる。比叡山の焼き討ちを見よ。あれから十年、この世に必要なのは、絶対の力。慈悲も寛容も、力なくしては意味をなさぬ」
信長は窓辺から歩み寄りながら続けた。その足音が、異様な重みを持って響く。阿弥陀如来も、十一面観音も、キリストの像も、等しく打ち砕かれる運命にある。それが信長の描く世の理(ことわり)だった。
「布教の自由? 南蛮の鉄砲は欲しい。彼らの持つ天文の知識も、航海の技術も、戦いの術も、私の力となる。だが、仏の教えもキリストの教えも、所詮は民を従わせる道具。この私の力の前では、等しく無力なものよ」
信長の声は低く、しかし確かな威圧を帯びていた。その言葉には、人としての理を超えた野望が潜んでいる。近江一国を従えてから、もはや十数年。今や天下は、その手の内にあった。
「この国はもう、私の掌の上にある。次は、世界という器だ。南蛮の術も、仏の教えも、全てを私の力の下に従えてみせよう」
信長は机の上に置かれた地図に目を落とした。先日、宣教師たちが持ち込んだその地図には、日本を超えて、明や朝鮮、果ては南蛮の地まで書き記されていた。羊皮紙に描かれた世界の姿は、まるで神の視点から地上を見下ろすかのようだった。その上を、信長の指が這うように動く。
「今こそ、私の野望を示す時。丹波、但馬、因幡、美作。すべてが私の手の内に収まった。これからが、本当の戦いの始まりよ」
その時、襖が勢いよく開かれた。
「信長様!北の領国で反乱が——」
家臣の息を切らした声に、居室の空気が一変する。しかし、信長の目には怒りよりも、むしろ期待のような色が浮かんでいた。
「好機だ」信長の声に、底知れぬ何かが混じる。「反乱軍の背後には、きっと隣国の影がある。これを機に、北の諸国も私の手の内としよう」
「骸よ」
「はい」
「お前には、まず反乱軍の主力を叩かせる。だが、ただ殺すだけではない。見せしめとして、私の力を示すのだ」
「御意に従い」
骸は深く頭を下げた。その姿勢に、いかなる感情も読み取ることはできない。窓の外では、琵琶湖の水面に映る最後の陽光が血のように赤く揺らめいている。
安土城を出る頃には、月は既に高く昇っていた。
静かな街道を北へと向かう馬の蹄の音だけが、夜の闇を震わせている。骸の背後で、安土城の天守が月光に浮かび上がっていた。その威容は、まるで世界を見下ろす巨人のようだ。
街道には、時折夜盗の気配が感じられた。しかし、彼らは骸の姿を認めると、まるで野犬が強者を避けるように、音もなく姿を消していった。「頭狩り」の噂は、既にこの地方にも広まっているのだろう。
小雨が降り始めたのは、夜半を過ぎた頃だった。
骸は馬上で姿勢を正す。この雨は、明日の戦場まで続くかもしれない。北国への街道筋には、織田家の宿駅が設けられている。そこで馬を替え、休むことなく進むつもりだ。馬を走らせながら、戦いの計算を重ねていく。反乱軍の兵力、城の構造、そして最も効率的な殺戮の手順を。雨滴が刀の鞘を伝い落ちる音が、その思考に寄り添うように響いていた。
夜明け前、骸は二度目の宿駅に到着した。
「新しい馬を」
声をかけると、宿駅の者たちが慌ただしく動き出す。彼らは骸の素性を知っているのだろう。わずかな言葉で、全てを理解したかのように迅速に対応する。
休むことなく、さらに半日の道のりを進む。昼過ぎには目的の城下に近づいていた。道中で出会った商人の話では、既に三日前から戦いは始まっているという。
城下に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
領主の居城は反乱軍に包囲され、籠城戦の様相を呈していた。朝から降り続く小雨が、戦場の地面を濡らしている。城内からの援軍要請の狼煙が、夕暮れの空に立ち昇っていた。その白い筋は、雨に打たれながらも、なお執拗に空へと伸びていく。
周囲には、すでに戦いの痕跡が散りばめられていた。折れた槍の柄。血に濡れた陣羽織。漆塗りの兜の欠片。それらが、これまでの激戦を物語っている。雨に濡れた地面には、馬の蹄の跡が幾重にも刻まれ、その上を血が薄く流れていた。
「骸様、只今の戦況でございます」
先発隊の武将、松井左近が馬上から降り立ち、恭しく報告を始める。織田家の物頭として、その立場は確かなものだった。しかし、その声には僅かな震えが混じっていた。雨に濡れた陣羽織から、水滴が静かに落ちていく。「北の門は我が軍が確保。しかし、反乱軍が城内から北門を封鎖しており、進入が困難な状況です。東西の門は反乱軍が押さえております。そこで、死角となる南門からの突入を試み、城内への連絡を——」
「失敗したのですか」
骸の問いに、松井は一瞬言葉を詰まらせた。その表情には、焦りと恐れが交錯する。
「いえ、決して。彼らは多勢に紛れて逃げ出しただけ。私が率いる精鋭たちなら、次は必ず——」
松井の声には、自らの武功を誇示しようとする響きがあった。しかし、その言葉は途中で途切れる。骸の眼差しに、何か危ういものを感じ取ったのだ。
「充分、と仰いましたか?」
骸の声は穏やかだった。しかし、その言葉に松井は顔を蒼白にする。
「あなた様が一対一の殺し合いにおいて負け知らずと言いましても、不十分と申さねばなりません。多数から一斉に斬りかかられても生きながらえることが出来なければ、戦場においては雑兵と同じです」
周囲の兵士たちが、息を呑む。松井の額には冷や汗が浮かび、その手が微かに震えているのが見て取れた。雨脚が強まり、足元の泥が深くなっていく。
「骸様、私めは家格も——」
その言葉は、喉元で途切れた。
松井の目が、骸の腰の刀に釘付けになる。その刀は、まだ鞘に収まったままだった。しかし、その存在自体が、松井の心を凍らせるに十分だった。刀の鞘には、雨粒が静かに伝い落ちていく。
その時、松井の脳裏に、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡った。
近江の片田舎に生まれた一介の下級武士の子。父は小さな所領を守る侍大将に過ぎなかったが、その矜持だけは誰にも負けなかった。「家の名を上げるのだ」。父の言葉を胸に、松井は幼い頃から刀の修練に励んだ。
まだ若かった頃、織田家に仕官を願い出た時のことを思い出す。多くの武将たちが、その野心的な大名に魅かれていた。しかし、松井を動かしたのは、織田信長の持つ力への渇望だった。この男の下でなら、必ずや出世の道が開けると信じていた。
その思いは間違ってはいなかった。丹波平定では、その才覚を遺憾なく発揮した。敵の動きを読み、的確な采配で勝利を重ねていく。その功績により、ついに織田家の物頭にまで上り詰めた。父の墓前に報告した時、松井は誇らしい気持ちで胸が一杯になった。
しかし、今——。
「家格など、戦場では意味を持ちません」
骸は静かに刀を抜いた。その動作には、まるで茶を点てるような優雅さがあった。雨粒が刀身を伝い落ちる音が、不思議なほど鮮明に聞こえた。周囲の音が全て消えたかのような静寂の中で、その水音だけが際立っていた。
松井は、最期の言葉を紡ごうとした。しかし、その機会すら与えられなかった。
骸の刀は、まるで自然の理のように、松井の首を刈り取っていた。それは、まるで露が滴り落ちるような、静かな死であった。
首は弧を描いて宙を舞い、生暖かい血が雨に混じって地面を染みていく。周囲の兵士たちは、その光景に釘付けになったまま、身動きすら出来なかった。雨脚は更に強まり、血の跡を薄めていった。
骸は無言で刀を鞘に収め、城を見上げた。朝もやが晴れ始め、その全容が徐々に姿を現す。雨は小止みになり、城壁の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。その城の中に、信長の言う「隣国の影」が潜んでいるのは間違いない。