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髑髏(されこうべ)
髑髏(されこうべ)
Jloo(ジロー)
歴史・時代戦国
2025年02月19日
公開日
1.6万字
連載中
戦国末期、織田信長の配下に「頭狩り」と呼ばれる男がいた。その男・骸は、茶の湯の作法と刀術の双方に通じた不可思議な存在として恐れられていた。しかし、その冷徹な表の顔の裏には、生涯消えることのない復讐の炎が燃えている。
かつて骸は無心流の道場で剣を学び、道場主の娘・花世と深い絆を育んでいた。しかし、織田信長による寺社焼き討ちの嵐は、その道場をも飲み込んでいく。愛する者を失った骸は、復讐を誓って信長の配下となる。「頭狩り」の異名を持つ暗殺者として頭角を現し、冷酷無比な殺戮者としての評価を確立していった。
時代の転換点に生きた一人の男の魂の軌跡を描き出す、歴史小説。

第1話『織田の犬』

天正九年、安土城の裏手に佇む茶室。土壁と竹で組まれた小さな空間に、夕刻の光が障子を透かして差し込む。その光は、備前焼の茶碗の歪みに深い影を落としていた。


宣教師ルイス・フロイスは、香炉から立ち上る線香の煙を見つめながら、向かいに座る男の存在を意識していた。この十年以上の日本滞在で、彼は多くの武将や高僧に会ってきた。しかし、目の前の男ほど不可思議な存在を見たことはない。


男は、礼装の着物を着こなし、その作法は実に優美である。茶筅を操る手つきは柔らかく、茶碗を差し出す仕草にも乱れはない。


しかし、その腰の刀だけが、茶室の調和を乱していた。

茶室に刀を帯びて入ることは、この国の作法に反するはずだ。それでも誰一人、男の刀を咎めようとはしない。むしろ、茶室の主人である利休までもが、それを自然なことのように受け入れているように見えた。


フロイスには、その理由が分かっていた。織田信長が、この男をどれほど重用しているか。ヨーロッパに送る報告の中で、フロイスは既にこの男のことを書き記していた。「織田の意志を体現する犬」として。


やがて茶事も終わりに近づき、フロイスは本題を切り出した。儀礼的な会話の後、慎重に言葉を選びながら、キリスト教布教に関する提案を始める。


「骸殿」フロイスは慎重に言葉を選んだ。「信長様の寛容なお心により、私どもは布教の自由を得ております。さらなる協力関係の深化を望んでおりますが」


その言葉が落ちる前に、フロイスは既に自分の過ちを悟っていた。茶室の空気が、目に見えるように凍り付いていく。

利休の手元で、茶碗を拭う布の音が、一瞬途切れた。骸は静かに茶碗を置き、初めてフロイスの目を直視した。その眼差しには、底知れぬ何かが潜んでいた。


「寛容と、仰いましたか?」骸の声は静かに響く。「信長様があなた方の布教を許しているのは、政策の一部。決して、『受け入れられた』などとは思わぬように」


その声は穏やかでありながら、フロイスの背筋を凍らせるに十分だった。自分の認識の甘さ、思い上がりを完全に見抜かれている。


「いやはや、あなた様には理解の及ばぬことかもしれませんが。この世では、生かされているという事実すら、時として危うい幻のようなもの。それを『寛容』などと取り違えてしまうところに、あなた方の限界が見えるのです」


「申し訳ございません。私の言葉が不適切でしたか。どうか——」


「身と心は切っても切り離せないものでして、いやぁ気に入らないと思えば、刀を握る手が勝手に動いてしまうのでございます」


骸の姿には何の変化もない。しかし、その存在そのものが、突如として鋭い刃物のように感じられた。フロイスは冷や汗を流しながら、必死に言葉を紡ぐ。


茶室に再び沈黙が訪れる。利休が襖を開け、夕暮れの光が差し込んできた。茜色に染まる空の下、骸は静かに立ち上がった。茶室の静寂の中で、その動きだけが異様な存在感を放っている。


「宣教師との対話は、これにて十分でしょう」


その声には、もはや先ほどまでの殺気は感じられなかった。しかし、フロイスは理解していた。この男の穏やかさこそが、最も恐ろしいものなのだと。


茶会の後、骸は、いつもの道を辿っていた。足音を立てぬよう、石畳の隙間を選びながら歩く。しかし、その存在を完全に隠すことはできない。道行く人々は、骸の姿を認めると慌てて道を開ける。


かつて、この道には多くの弟子たちが行き交っていた。無心流道場は、この通りの奥まったところにある。今でも建物は残っているが、もはやそこで刀を振るう者はいない。


「骸さまッ」


呼び止める声に、骸は足を止めた。振り返ると、道場の庭掃除をしていた老人の姿があった。元々この道場の世話をしていた清吉である。今は、ただ一人でこの場所を守り続けている。


「これは、清吉殿」


「先ほどは、外国からのお客と対面なさったとか」


清吉は、骸がまだ一介の剣士だった頃から、その成長を見守ってきた数少ない生き証人の一人だ。二人の自然な会話の間が、長年の信頼関係を表していた。


「はい。茶会にて」


「茶会とは、まあ優雅な。織田さまに仕えてからは、骸さまも随分とお変わりで」


その言葉に、微かな皮肉が混じっているのを骸は聞き逃さなかった。その目には、今の骸の姿が、どのように映っているのだろう。


「まあ、お幸せそうで何よりですよ。織田さまの庇護の下、心安らかにお過ごしで」


清吉の言葉には、深い失望が滲んでいた。骸は、静かに目を伏せた。


「害虫のように人目を忍んで生きる者にとっては、心安らかにという文句を一日中繰り返し、絶望に溺れることが最大の至福なのでございます」


その言葉に、清吉は息を呑んだ。それは、骸が抱え続けてきた深い痛みの告白だった。


「骸さま......」


「清吉殿。道場の手入れ、いつもありがとうございます」


骸は丁寧に一礼すると、そのまま歩き出した。清吉は、その後ろ姿を見つめながら、胸に去来する複雑な思いを抑えることができなかった。骸の背中は、以前と変わらず真っ直ぐだ。しかし、その真っ直ぐさの意味が、大きく変質してしまったことを、清吉は痛いほど理解していた。

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