霜の降る朝、城下は沈鬱な空気に包まれていた。御家中の者どもは皆、言葉少なに顔を伏せ、ただ己が職務に専念するのみ。誰もが知っていた。いや、知らぬふりをしていたのかもしれぬ。
大名家の跡目を巡る争いが、すでに水面下ではじまっていることを。
御屋形様、つまり先代藩主・久我大納言正隆が病に伏せられてより一年余り。嫡男である久我左京大夫正親が家督を継ぐはずであったが、これに異を唱えたのが、先代の弟にあたる久我玄蕃允正頼である。
「兄上のご遺言が、果たして真に左京大夫殿を次代と定めたものであったのか――」
家中の諸士の間で囁かれたのは、正頼が密かに主君の最期の言葉を改竄し、己が正統なる後継者であると主張し始めたという噂であった。
その夜、城内の一隅にある西之丸の書院では、重臣たちが密議を交わしていた。
「……もはや埒があきませぬ。このままでは家中が二分し、他国に付け入る隙を与えかねませぬぞ」
そう言ったのは、筆頭家老の篠原出雲守であった。老齢ながらも剛毅な武人であり、先代正隆の信頼厚き人物である。
対するは、次席家老の松田監物。
「篠原殿、その御言葉、まさか玄蕃允様の命を断つことをお考えではありますまいな?」
「……左様。しかし、穏便に解決する道があれば、まずはそれを試みるのが道理」
夜は更ける。
城下では密かに浪人どもが集められ、また江戸の老中よりの使者が忍び入る。
久我家の命運は、もはや風前の灯火であった。
冬の寒さが一層厳しくなった頃、城内の空気は張り詰めていた。久我左京大夫正親の側近たちは、次第に武装を強め、家中の警備が厳しくなっていく。対する久我玄蕃允正頼の手勢も、密かに動きを見せていた。
しかし、決定的な動きがあったのは、ある夜のことだった。
城の西之丸。深夜にもかかわらず、書院の灯は消えず、家老・篠原出雲守の姿があった。彼の前には、重臣の一人、神谷修理が座している。
「殿が危ううございます」
神谷は低い声で言った。
「玄蕃允様の手勢が、次第に城下の要所を押さえつつあります。このままでは、殿の身にも危険が及びましょう」
篠原出雲守は静かに頷いた。
「承知しておる。だが、我らが軽々しく動けば、それこそお家の分裂を決定づけることになる」
「ですが……」
「動くべきは、我らではない」
篠原は立ち上がり、廊下へと歩を進めた。障子の向こうには、数人の若侍たちが控えている。彼らは、正親に忠義を誓う者たちだった。
「今夜、正親様へお伝えせよ。余計な血を流さぬためには、一刻も早く江戸へ向かわれるべきだとな」
神谷は息をのんだ。江戸へ――それはつまり、幕府の裁断を仰ぐということ。
「しかし、それでは玄蕃允様が――」
「それこそが狙いよ」
篠原の声は静かだった。
「幕府が動けば、もはや家中の争いではなくなる。玄蕃允様とて、公然と兵を挙げることはできまい」
神谷はしばし考えた。そして、深く頷くと、静かに立ち上がった。
「承知いたしました。すぐに準備を整えます」
城下に冷たい風が吹き抜ける。動乱の兆しは、すぐそこまで迫っていた。
翌朝、久我左京大夫正親のもとに、一通の密書が届けられた。差出人は篠原出雲守――そこには、江戸へ向かうべしとの言葉が短く記されていた。
正親は書状を握りしめ、そばに控える近習の藤井孫四郎に目を向けた。
「篠原殿の策に従うべきか……?」
藤井は静かに頷いた。
「殿が江戸へ向かわれれば、幕府が裁定を下し、我が家中の争いも収まりましょう。しかし、道中の安全が問題となります」
「玄蕃允叔父上が察知すれば、何らかの妨害を仕掛けてくるやもしれぬな」
正親の言葉に、藤井は深く頷く。
「ゆえに、決行は今夜――密かに城を抜け出し、城下を離れるべきかと存じます」
正親はしばし沈思した。篠原の言う通り、このままでは家中の分裂は避けられぬ。己が動くことで、それを防げるならば――
「よし、準備を進めよ」
藤井は素早く頭を下げ、静かに部屋を辞した。
その夜。
月のない闇の中、正親は藤井、そして数人の腹心と共に、ひそやかに城を抜け出した。足音を消し、慎重に進む。城下の通りは静まり返り、人影はない。
しかし、ある路地を抜けようとしたそのとき。
「殿、伏せて!」
藤井の鋭い声が響いた。次の瞬間、夜闇に紛れていた影が動く。数名の武者が、するりと路地から現れた。
「お待ちくだされ、左京大夫殿」
その中のひとりが、静かに言った。
「玄蕃允様のご命により、お引き止めいたす」
正親は、じっと相手を見つめた。
このままでは、強引に連れ戻されることは明白だった。正親は覚悟を決め、静かに口を開いた。
「私の身柄を押さえようとするならば、幕府への報告を阻むことになる。それが、果たして久我家のためとなるか?」
相手の武者たちは、一瞬、わずかに動揺したように見えた。
そこへ、足音が響く。
「お下がりなされ」
現れたのは篠原出雲守だった。
「久我家の存続を第一に考えるならば、幕府の裁定を仰ぐべきだ。ここで刃を交えるは無用」
篠原の言葉に、武者たちは顔を見合わせた。やがて、静かに道を開ける。
正親は、篠原に軽く頷き、そのまま歩みを進めた。
こうして、正親は江戸へ向かう道を得た。だが、これで全てが解決するわけではない。幕府の裁定が下るまで、久我家の行く末は未だ定まらぬ。
その背に、城下の冷たい風が吹いていた。
江戸へ向かう道中、正親一行は夜を徹して進んだ。余計な足止めを避けるため、街道を外れ、山間の道を選ぶ。篠原出雲守が手配した駕籠と早馬により、一行はひたすら前へと急いだ。
しかし、江戸入りを目前にしたある夜、休息のために立ち寄った宿場に、一人の使者が訪れた。
「久我左京大夫殿にお伝えしたきことがございます」
名を聞けば、江戸詰めの家老石川内膳の使いであるという。
正親は使者を部屋へ招き入れた。使者は低く頭を下げ、慎重に言葉を選びながら告げる。
「幕府はすでに久我家中の動きを把握されており、御家騒動の沙汰を待っておられます。しかし……」
使者は少し躊躇い、言葉を続けた。
「玄蕃允様よりも、先に御前へ出られることが肝要にございます」
それはつまり、玄蕃允正頼もまた幕府に訴えを起こし、自らの正統性を主張しようとしているということだった。
正親は静かに頷いた。
「ならば、一刻も早く登城せねばなるまいな」
翌日、正親一行は幕府の城へと向かった。道中には、すでに幕府の目付の者たちが控えており、彼らの案内のもと、正親は速やかに城内へと迎えられた。
数日後、幕府の裁定が下された。
「久我左京大夫正親、これをもって久我家の正当なる後継者と定む」
その決定により、玄蕃允正頼の訴えは退けられた。正頼には隠居が命じられ、家中には幕府の監視が入ることとなった。
江戸城を出た正親は、篠原出雲守と共に歩きながら、ふと呟いた。
「……これで久我家は安泰となるか?」
篠原は静かに微笑み、頭を下げた。
「殿が正しき道を歩まれる限り、久我家の未来は揺るぎませぬ」
正親は空を仰いだ。冬の雲が切れ、わずかに青空が覗いている。
騒動は終わった。しかし、これが終わりではない。藩主としての新たな務めが、これから始まるのだ。
正親は静かに歩を進めた。久我家の未来を、その背に背負いながら。
(了)