「おはようございまーす、とりあえずカーテン開けますね」
カーテンを引くシャッという音の後、雲ひとつない青空が窓の外に現れる。蛍光のピンク色に白抜きで「妖怪課」と書かれた腕章を右上腕部に巻き、くたびれた灰色のスーツを着た30歳くらいの女性が私の寝ているベッドに歩み寄ってきてそうっと端に座る。
「今朝の体調はどうですか、アオシマさん?」
「ああ……昨日の夜よりはいくらかマシになりましたが、まだ本調子じゃないですね。ところでアオシマって僕のことですか」
私が尋ね返すとスーツの女性が首を縦にふる。長く編まれた黒いおさげ髪が揺れた。
「あっこれはその……名前がないと呼びづらいので勝手に付けさせてもらいました。昨日の夜の調査の時青くて細い縞模様の入ったスーツ着てましたよね」
「え?ええ、それはもちろん。さすがにこんな普段着じゃ出かけられませんから」
アオシマと呼ばれた男はそう言って着ている淡い水色のシャツを軽く指先で引っぱって見せる。昨夜より肌の色も体調も幾分かマシになったような気はするが、まだ体と頭が重い。そういえば昨日の記憶が
「ええと金本……さんでしたっけ。僕、昨夜の記憶がほとんどないんですが何があったかよければ話してくれませんか?」
アオシマがそう話を振ると金本は一瞬顔をこわばらせたように見えた。
「えっそうなんですか。ああでもたぶん……話すと長くなりますよ」
「かまいませんよ、そんなこと。どうせ今日一日はベッドの上で過ごすことになりそうですから」
*
金本が昨夜あったことをできるかぎりの範囲で説明し出して小一時間ほど経った頃、部屋の窓に雨粒がつき出した。
「……という訳なんですが。アオシマさん大丈夫ですか、なんだか顔が真っ青ですよ」
「い、いえ。大丈夫です、それより僕……金本さんに何かその……失礼なことしてませんよね?」
金本から昨夜の様子を聞き終わったアオシマは顔を青くしたまま尋ねる。
「いいえ別に何も。あ、ただこれを肌身離さず持っていてほしいって言われました」
金本は昨夜の記憶を辿りながらスーツの胸ポケットを探って何かを取り出した。片手からちょっとはみ出すくらいの大きさの石……にも見えるが、薄暗くした照明の光が表面にあたって言葉では言い表せない赤や青色に内側から光る。どことなく形は
「そっ……それ!ぼっ僕があなたに手渡したんですか」
「ええ。そういえばコレ、なんなんですか?」
アオシマが過剰に怯える意味がわからない金本は続けて尋ねた。
「マガタマ」
「マガタマ?たしかに形は似てますけどそんなに怯える必要ないじゃないですか」
「いや、実際は全く別のものなんですがそれ割れたり、壊されたりすると僕がその…………死にます」
血の気が引きすぎて白くなってしまった顔のままアオシマがつぶやく。次は金本が困惑する番だった。
「し、死ぬってそんな、大げさな」
「本当ですよ……人間で言うと脳とか心臓にあたるくらいのものなので」
「ええ……そんなに大切なもの、私が持ってても大丈夫なんですか?」
金本が不安そうに言うとアオシマはしばらく考えこんだ後、頷いた。
「かまいませんが、大切にしてくださいね」
「わかり……ました。気をつけます」
金本は恐る恐る手にしたマガタマと呼ばれる石を胸ポケットへと戻す。後から持ち歩いても大丈夫なよう頑丈なケースでも買いに行こう。
「あ、アオシマさん。今夜、
「ええっと体調が戻れば行けそうですが、そういやKスポットって……なんでしたっけ?」
アオシマが小首をかしげつつ質問する。
「あれ、私言ってませんでした?KAIKI(怪奇)スポットの略称です。ようするに……肝試しみたいなものですよ」
「ああ〜……なるほど。肝試しですかあ、僕苦手なんですよねそういうの」
アオシマがぶるぶると頭を振る。すでにその顔が青い。本当に苦手なのだろう。
「じゃあ、来れなくても大丈夫です。ほら、早く体治しましょう。他の方には伝えておきます」
「ええ、お力になれなくてすみません」
アオシマは本当にすまなさそうな顔で金本に謝罪し、掛け布団を手元に引きよせる。
「では……そろそろ失礼します。何かあったらこのスマホから私に電話してください」
そう言って金本はベッドのそばにあった丸テーブルの上にメタリックブルーのスマートフォンを1台置く。これはアオシマ用にと数日前に購入したものだ。
「わかりました。ああ、雨がひどくなりそうですから帰り道お気をつけて」
ベッドの上のアオシマが顔を上げ、窓の外を見つめてぽつりとつぶやく。午前中は快晴だった空はすでに白っぽい色に染まり、黒い雲が浮かんでいる。金本は礼を言い、アオシマ宅から外に出た。歩き始めた途端、髪や鼻先に雨粒があたり始める。常備している携帯用傘を持ってこなかったことを悔やんだ。
*
「おや悠ちゃん、来るの早かったね」
金本が妖怪課に戻ったのはすでに日が落ちた後だった。活動拠点はアパート貝木荘のある一室。外観は狭そうだが、中に入ると意外に奥行きがあり広い。そこにひと昔前のブラウン管テレビやビデオデッキがあり、積み上げられた雑誌やオカルト情報誌なんかが散乱している。妖怪課に勤務し出してから金本はこの部屋で暮らしていた。
そこに今朝の日付の新聞を鼻をつっこんで読んでいる男がいた。顔の両側の伸ばしっぱなしの髪と唐草模様のシャツに黄色い地の縞柄スラックスという柄物だらけの服装の彼は
「雨、大丈夫だった?ほらタオルあるわよ」
「例の彼、どうだった?」
金本が何か言おうとしていると、桜野と夜見からほぼ同時に質問がとんだ。
「桜野さんありがとうございます。ああえっと、とても……無害そうな人でしたよ。昨夜の調査で体調をくずされているので、今夜のKスポット巡りは参加できるかまだわからないです」
金本は桜野から手渡されたタオルで髪やスーツを拭きながら夜見からの問いに答える。
「ああ……そう。でも彼、
夜見は金本のほうを見ることなく新聞に顔を埋うずめたまま興味がなさそうな口調で言う。
「えっそれ、どういう意味ですか夜見さん」
「だから、あ〜面倒くせえ。そこの棚の中に調査表があるから読んでみろ」
夜見は伸ばしきった髪を指先に巻きつけつつ、金本の斜め左にあるプラスチック製の棚を指さす。金本は言われたとおりに棚へ歩みよって開けてみる。透明なクリアファイルに紙が数枚入っていた。顔写真付きでぱっと見は履歴書に似ている。
(あ……これだ)
金本はクリップで留められた紙を捲めくる手を止める。顔の右側を隠したクセのある髪、水色のメッシュと神経質そうな顔に見覚えがあった。アオシマだ。
【名前】不明
【性別】男
【年齢】150歳(外見年齢は60くらい)
【分類】鬼
【能力】不明
【備考】今のところ分類以外が一切不明な妖怪。要調査
(実年齢がひゃ……150歳?いやでももっと若そうに見えたし、やっぱり人も妖怪も外見は見かけによらないのかしら)
「どうした、そんなとこで突っ立って見てないでこっちに持ってこいよ」
金本がアオシマの調査表を熟読していると後ろから夜見に呼ばれる。夜見へクリアファイルごと手渡すとちゃぶ台の上に置き、慣れた手つきでアオシマの用紙のみを抜き出した。
「ああ、これ。ほら、名前と能力のとこだけ空いてるだろ。しばらく張りついて調べてたんだがこれだけが分からん」
「あの……なんですかそれって」
「はあ?」
金本が分からずに質問すると夜見があきれた声を出した。隣にやってきた桜野が金本へ助け舟を出す。
「妖怪はみんなそれぞれに別の名前……そうね、普段使ってるものじゃなくて本当の名前があるの。あと特殊な力もね」
「へえ……そうなんですね。いいな」
金本がぽつりとつぶやく。夜見がその横顔を目だけ動かしてじろりと睨む。
「……何が。いい訳ないだろう、中には厄介な能力を持ってる奴もいるんだぞ。調べなきゃならんことは山積みだ」
「まあまあ夜見さん、そんなに怒らなくてもいいじゃない。悠ちゃんはまだここに来たばっかりなんだし」
桜野が突然怒りだした夜見をなだめにかかる。夜見は目と目のあたりを強く指先で押さえ「……ま、そうだな。悪かった、ちょっと外の風にあたってくる」と立ち上がり部屋を出ていった。残された金本と桜野が顔を見合わせていると、入れ替わりで人がやって来た。
「あれ、夜見さんいないの?」
「もしかしてさっき出て行ったのがそうじゃないですか?」
1人は顔の長さが妙に印象に残る60代後半、もう1人は髪を七三分けにした50代後半の爽やかそうな雰囲気の男性だった。身長は2人とも同じくらいだろうが金本からすればかなり背が高く見える。
「あら、水木さんに蔵田さんいらっしゃい」
桜野が男性2人の名前を親しげに呼ぶ。水木と蔵田が揃って「どうも」と会釈した。手にはそれぞれ近所にあるコンビニの白いビニール袋がぶら下がっている。金本は初めて会う2人を見ながら「この人たちもメンバーなのかな」と思う。
「桜野さん、彼女は?」
「ああ、会うの初めてだったかしら。最近入った金本さんよ」
不思議そうな表情の蔵田に桜野が答える。
「あ、そうだ。桜野さんこれ、そこのコンビニで買ってきたんで使ってください」
「俺は夜見さん探してきます。Kスポット巡りの時間までには連れ戻しますんで……!」
蔵田が桜野へ手にしたビニール袋を差し出し、水木はあわてた様子で外に飛び出して行った。状況が飲みこめない金本はただ見ているしかない。
「大丈夫?なんだか慌ただしくてごめんね……今から紅茶淹れるから飲む?」
「す、すみません。あの、お願いします」
桜野に頷き返した後、金本はちゃぶ台の上のクリアファイルを再び手に取る。先ほどの夜見の態度がどうしても気になった。自分は何か彼の気に障るようなことを言ったのだろうか?
(謝ろう……)
*
時刻は夜10時。金本は妖怪課のメンバーである夜見、桜野そして後から合流した水木、蔵田と一緒に人通りのない横断歩道に来ていた。貝木荘の部屋を出る時には気配すら見せていなかった雨が今は叩きつけるようにして降っている。手に持つビニール傘が激しい雨風にもっていかれそうで、金本はぎゅっと強く柄を握りしめた。
(寒いし早く帰りたい)
切れかかって明滅する街灯が雨に濡れた路面を不気味な緑色に照らしている。今からやらなければならない調査を想像して金本は心の中で弱音を吐く。不意に胸ポケットが熱を持ちすぐに引いた。そこにはアオシマから午前中に預かったマガタマが入っているはずだ。なぜかその場には来ていないアオシマのことが気にかかった。
(アオシマさん……一人で大丈夫かな)
今夜のKスポット調査が終わったら帰りに会いに行こう。夜食も買っていけば喜ぶだろうか。金本は目の前の現実から逃避したくて頭の中で想像をふくらませる。
「……そろそろだな。これだけ雨が降ってれば《雨男》も出てくるだろ」
金本のすぐ隣で夜見が口火を切る。口調から相当イラついている様子だ。
「だといいんですが……今まで一度も遭遇できてませんからね、僕たち」
とは蔵田。
「うーん……そういえばそうね。逆に本当にいるのか不安になってくるわ」
桜野も不安を口にする。
「あ、あの……夜見さん、夕方はすみませんでした。そういえば雨男って?」
金本は夜見に小走りで歩み寄り最初に謝罪する。
「ああ、別にいいって。単に俺の虫の居所が悪かっただけだから。あれ、まだ言ってなかったか?ほら、最近動画サイトとか昼のバラエティ番組とかで取り上げられてるやつだよ。黒い雨傘の」
夜見は照れくさそうな顔をした後、話題を変える。
「あっ……アレですか。昨日の夜のニュースでもやってましたよね」
「そうそう。特に今のところ人への被害はないんだが、本当にいるのかいないのかくらいはきちんと調べないとな」
夜見の返答に金本は昨夜寝る前に見たニュース番組の内容を思い出す。雨の降る日に黒い雨傘を差した不審な人物がここ数日のところ夜行町のあちこちで目撃されているというものだ。番組での取り上げは短かったが、後からインターネットで検索をしてみたらそれらしきSNS(ソーシャルネットワークサービス)の書き込みや動画が山のように出てきた。
「そうですね。それが私たちの仕事ですもんね……頑張らないと」
金本が自分に言い聞かせるように言った時、誰かが「おい、あれ!」と大声を上げた。
「……なんだ、どうかしたのか?」
夜見が声に気づいて怪訝そうな表情をする。金本も声のした方を向く。傘を差した水木が横断歩道の向かい側を指差している。そこは雑木林になっていて、昼でも薄暗かった。雨がさらに強まり、視界を遮る。
(何…………あれ)
金本は水木の指差したものを確認して固まった。雑木林を背にして黒い雨傘を差した人影が三つ。顔は傘に隠れて見えないが、金本にはなんとなく家族のように思えた。
「か、カメラ!皆スマホ構えろ‼︎」
興奮した夜見が金本の隣で叫ぶ。一斉に桜野、蔵田、水木が指示に従う。金本も続いた。スマホをカメラモードに切り替え、動画撮影ボタンを急いで押す。
「ちくしょう……雨がひどくて上手く撮れねえ」
夜見が面倒だとばかりに傘を放り出し、両手で構えたスマホの画面を覗きながら忌々しげにつぶやく。
「や、夜見さん風邪ひきますよ⁉︎」
「構わん、滅多にないスクープを逃してたまるか」
金本が慌てて自分の傘を夜見に差しかける。着ているスーツの肩があっという間に濡れていく。動いた時に胸ポケットから預かったマガタマが飛び出した。
(……だめ!)
金本は宙に舞ったマガタマに手を伸ばした。指先をかすめて横断歩道の上へ落ち、路面を少し滑る。金本はそのまま横断歩道のほうに走ってマガタマを拾おうとした。
「悠ちゃん、危ない!」
背後で桜野が悲鳴に近い声を出す。マガタマを拾い上げた金本が顔を上げると、ヘッドライトを灯した乗用車がすぐそばまで迫っていた。