純子は、大根の葉っぱをよく食べた。
質素だから美味しくない、食べたくない、と若い人は思うかもしれないが、純子にとってはとても懐かしくて、美味しいものだったのだ。亡くなった母のことを思い出したり、料理を通じて、彼女は自分の心と向き合っていた。
「純子ちゃん、これ」
「え?」
「大根の葉っぱ、持って帰って。後は、うちで採れた野菜なんだけど。不格好でごめんなさいね」
笑う悦子の目には、キラキラと輝く純子の笑顔が見える。本当は、こういう子なのだ。本当は、それが彼女の普通、日常なのだ。それを感じ取って、悦子は少し胸を撫で下ろす。
「お野菜、いいんですか?白菜もあるし、大根、ネギ……」
「不格好だから、純子ちゃんが食べちゃってね。お願いよ?」
「はい!」
純子は元気よく返事をし、この野菜たちは美味しくいただこう、と思う。野菜は嫌いじゃないし、母親の家庭菜園も嫌いじゃない。だから、こうやって手作りの野菜がもらえると嬉しくなる。
「純子ちゃん」
悦子が彼女を優しく呼び止めた。
「あのね、純子ちゃん。もしよかったら、また遊びに来てくれない?夫が仕事に出ちゃうとね、1人っきりなのよ」
「え、来てもいいんですか?」
「ええ、あなたがいいなら。年寄りの1人はやっぱり寂しくって」
本音と彼女のため。その2つが重なり合う。純子が本当に何を思っているのかは、わからない。でも、もしかしたら彼女の気持ちを少しでも支えられるなら。年寄りでも少しは役に立つかもしれない。そうなれれば、悦子にも意味が出てくるはず。自分の人生は、夫と子どものために頑張ってきた。だから、それに純子が追加されたって、悪くないなぁ、と悦子は思ったのだ。
「あの」
「どうしたの?」
「私、ペンションとカフェを続けようと思って」
「でも、仕事は……?どこかで働いているんでしょう?」
純粋な問いかけに、純子は笑って答えた。辞めちゃいました、と。両親が亡くなり、ペンションとカフェのことだけでなく、多くの手続きなどをしていた結果、時間もお金も足りないと気づいたらしい。とにかくまずは時間を作って、両親が残してくれたものを向き合う決意をしたようだ。そのために、彼女は仕事を辞めて、こちらに来たという。
「ペンションとカフェを見ていたら、両親が大事にしていたものが見えてきて」
「そうなのね……」
「もしよかったら、カフェに遊びに来ていただけませんか?」
こうして、悦子は『純子のカフェ』へ足を運ぶことになる。以前は、純子の母のカフェに行ったが、もともとカフェに行くような習慣もなかったので、多くは足を運ばなかった。しかし、今はこの子のカフェなのだ、と思うとちょっと足を運ぶ回数が増えてくる。
同時に、純子もニャーと一緒に悦子のもとへ来てくれることが増えた。ちょっと散歩のついで、ということもあれば、家庭菜園の悩み、カフェの新メニュー、さまざまなことを自分に持ってきてくれる。まるでそれは、自分をもう一度母親にしてくれたかのような感覚だった。
今日は、ニャーと一緒にやってきた純子が、チーズケーキを持ってきた。カフェで出すチーズケーキには、甘酒を入れている、という。
「甘酒を入れて作ったので、体にもいいかなーと思うんですけど、どうでしょうか?」
「不思議、見た目は普通のケーキね。焼き色もきれいだし」
どこのカフェに行ってもあるような、普通の見た目。でもこの中には甘酒が入っているという。発酵食品が体にいいことを悦子も知っていた。だから、興味津々でケーキを見つめ、ぜひ食べてみたい、と思う。
「実は、甘酒も手作りしたんです。炊飯器で作れるレシピを見つけて」
「そうなの?昔は温度を管理するのが大変でねぇ。でも美味しいものね、甘酒。その家で味も少しずつ違って」
「私、サラサラのサッパリした甘酒が好きなんです。今回、ちょっと甘くできちゃって、それならスイーツに、と思いました」
この子は常に考えているのか、と悦子は思う。些細なことのように思うかもしれないけれど、彼女はあのカフェに来るお客のことを考えているのだ。自分にとって、大切な場所。それを大切な人と共有したい。そんな思いが強く感じられる。
「悦子さん、味見してもらえますか?」
「ええ、ぜひ。そうだわ、今日のお昼は久しぶりにお稲荷さんを作ったのよ。混ぜご飯を入れただけだから、簡単で美味しいわよ」
「わ!私、お稲荷さん大好きです!」
いつもの縁側には、純子と悦子が並んで座り、ニャーは丸くなって眠る。そして、チーズケーキとお稲荷さん、白菜の和え物、すまし汁が並んだ。白菜の和え物は、茹でて味をつければ簡単よ、と悦子が教えてくれた。
「ごまを振ったら、何でも美味しいのよ」
「あは、そうですね!ごまの香りって、いいもんなぁ」
純子は、そこに並ぶ料理たちを見つめた。お稲荷さんは、揚げの口が上を向いていて、ご飯の上に錦糸卵が乗っている。塩茹でした千切りのニンジンが、彩りとして載っていた。
「悦子さん、料理上手ですよね」
「あら、何年主婦をしてきたと思ってるの?」
笑って言う悦子は、嬉しそうだった。純子はもっと料理を教えてほしい、と頼み込む。
「いいわよ、純子ちゃんにならいつだって教えてあげるから」
「わー!よろしくお願いします!」
子どものような笑顔をたくさんしてくれるようになった、と悦子は純子を見て安心した。若くして両親を喪って、この子がどうなっていってしまうのか、悦子はとても心配だったのだ。もしかしたら、と思ってしまうことも多々あった。でも、今は彼女は前に進んでいる。
「卵ね、少しだけ片栗粉を入れるのよ。そうしたら、破れなくなるから」
「え、すごい」
「でも、破れちゃっても、切っちゃえばわからなくなるから、気にしないってのが一番よ!」
「はい!」
気にしない、と言われて純子はホッとしながら、いつかこの錦糸卵がきれいに焼けるといいなぁと思うのだった。
◇◇◇
「和弘さん、白菜を純子ちゃんに持って行ってくれないかしら」
縁側で蕎麦を食べ終わった荒尾に、悦子は頼みごとをした。ニャーが丸まっていた体を伸ばし、出発の合図のように前を向く。
「はい。俺でできることなら」
「あら、あなた、お昼ご飯ここで食べちゃったら、純子ちゃんの手料理が食べられなかったわね。いやだわ~、ごめんなさい!」
「いえ、帰ったらまた食べます」
よく食べる彼にとって、蕎麦は美味い食事だった。しかし、量がちょっと物足りない。だから、帰れば待っているであろう食事をもらえばいいか、と思うのだ。さっぱりとした彼の返事に、悦子は思った。これは恋の予感だ!と。
「そうよねぇ、純子ちゃんの料理は美味しいし、笑顔がいいものねぇ」
「そうですね、中野瀬は料理が上手いです」
「可愛いものねぇ」
頬に手を当てて、悦子は考え込んだような顔をしている。うんうん、とまるで『母親』をイメージできるような仕草である。それを荒尾は黙って見てから、視線を逸らす。
「そうですね」
小声は、高齢の悦子には聞こえなかったのだろう。彼の気持ちのこぼれた瞬間を、目の前の人は見逃してしまった。しかしそれは、悦子に向けられた気持ちではないから、知られない方がいいかもしれない、と荒尾は思った。
「そうだわ、和弘さん」
今度はなんだ、と荒尾が思うと、悦子は家の奥から次々とものを持ってくる。あれも、これも、持って行って!とたくさんのものを持たせられてしまう。しまった、この年代の女性は若い男性を見ると『重たいものでもなんでも持っていける』と思ってしまうのだ。
「和弘さんが来てくれたよかったわ~!」
悦子の輝かしい笑顔を見て、荒尾は両手に持った荷物を握って歩き出すことしかできなかった。
またニャーが彼の前を歩いて行く。