朝からのドリアは重たかった。純子はそう思いながら、グラタン皿を洗っている。テーブルを拭き上げてくれているのは荒尾で、すっかりここの生活にも慣れたような顔をしていた。ここが片付いたら、今度は客室の掃除をしようと計画していたが、いくつかある部屋のすべてを掃除するには少し時間がかかるかも、と思う。
「荒尾さん」
「なんだ?」
「部屋を掃除するまで、少しこのあたりを散歩してきませんか?特に面白いものがあるってわけじゃないんですけど、空気はきれいですし、あんまり人と会うこともないので、ゆっくりできると思うんですけど」
「散歩か……」
「荒尾さんなら、普段から営業で歩いているでしょう?だからそんなに大変なこともないかと」
「そうだな。少し行ってみるか」
「じゃあ」
じゃあ、と言われて、そのあとの言葉に荒尾は驚いた。そして、ペンションを出るとさらに驚くこととなる。
ペンションを出て、近くの林を歩いた。人の気配なんて一切ない、澄んだ空気の美味しい場所だ。確かに面白いものがある、というわけでもないのだが、自然の中を歩くのは悪くない。まだ肌寒い季節なので、春の植物も見かけることはないのだが、それでも都会で人に合わせて歩くよりよっぽどいい。マイペースに歩けるし、ぶつかったり、謝ったりすることもない。
ぶつかる、ということは、自分も謝ることになる。つまりそれは、そこに嫌でも人との関わりができているということ。嫌なことも、悪いことも、一緒に起きる。それが、あの場所だった。こうやって木々の中を歩いていくのは、自分の意思だけで歩けると思ったのだが―――
「なんで、お前が先を歩くんだよ」
荒尾の前を歩いていくのは、なんとニャーだった。この猫、人と一緒に散歩するらしい。そんなに頭がよかったのか、と荒尾は驚いたのだが、ニャーは気にせず落ち葉を踏んで歩いていく。
雪の降る季節は、寒すぎてあまり行きたがらないのだが、これくらいの季節になると行くようになるらしい。純子が頼み、相手を見て出発するが、気に入った人の時は特に何もなく出発し、気に入らないと渋々歩き出すらしい。荒尾の時は、まあ渋々という雰囲気で、猫は彼の上から下までをジロリと見てから出発した。
「なあ、なんで先に行くんだよ」
そんな彼の言葉に返事を返してくれるような猫ではない。ジロリ、と振り返ったかと思えば、また先に歩いていく。
「お前さ、いつから中野瀬の猫なんだ?」
他愛ない言葉を発しているつもりだが、相手は猫だ。しかも渋々、相手をしてやっているという猫なりの気持ちもあるのだろう。人間が勝手に後ろをついてくる、くらいの気持ちなのだろうか。
「ニャー、お前さ」
猫は、その小さな足で上手に歩いていく。都会の荒波で歩いてきたから、平気なつもりだったのに、荒尾はとても苦しくなってくる。そんなに歩くとは思わなかった、というのが本音だ。
「ニャー、どこまで行くんだ」
どこまで行く、と言われても、この先に何があるというのか。木々の間にはたくさんの落ち葉。踏みしめる地面は、柔らかい。コンクリートとは違う、その感覚は気持ちいいものだ。ニャーからの返事がないので、仕方なく前に進んでいく。まだ少し冷たい風は、彼の肺を冷たくさせるのだが、悪くないと思ってしまうのは、都会の汚い空気を知っているからだろうか。
しばらく猫の背中を見ながら歩いて行くと、小さな池に出た。整えられた池でもなく、ただ水が溜まっているだけのような場所。荒尾はそれを見ながら、今の季節だけでなく、これから先の季節もここに来てみたいな、とふと思った。もしかしたら、夏には蛍が見れたりするのかな、とふと思ったのだ。
「ニャー、もう帰ろうか」
足元の猫に声をかけると、猫はジロリと荒尾を見上げた。
「なんだよ」
返事などあるわけがない。でも、ニャーは何かを悟ったように、歩き出した。来た道を戻るのか、と思えばそうでもない。さらに先へ進んでいくので、荒尾は不安になって何度もニャーを止めた。しかしニャーはまったく話を聞いてくれない。どんどん歩いて行く猫は、まるで荒尾などいないかのように、進んでいく。
しばらく歩き続けると、ついに林を抜けて、広い場所へ出た。
なんだここは、と思ってみれば、どうも家庭菜園の近くに出たらしい。近くに民家も見えた。他人の敷地に勝手に入ってしまったのか、と荒尾が慌てていると、聞いたことのある声がした。
「あら、和弘さん?」
「え、その声は」
「あらあら、和弘さんだわ。ニャーったら、またお客さんを勝手に連れてきたのね」
そこにいたのは、玄米おじさんの奥さんだ。この前会った時とは違い、割烹着を着ていた。自宅の何かをしていたのだろう、と簡単に想像できる格好である。ニャーは荒尾だど気にせず、おばさんの足元に寄って行った。
「和弘さん、ニャーに気に入られたのね」
「え?」
「ニャーは気に入った人をここに連れてくるんですよ。まあ、今まで連れてきたのは……純子ちゃんだけだけど」
そう言って、彼女はニャーを抱き上げた。お腹や足についた木の葉を腹ってやり、抱っこしたまま連れていく。
「和弘さんもどうぞ、簡単だけどお昼にしようと思って。あの人は今日は米を出しに行っているから、夕方まで帰らないんですよ」
「朝、ペンションに」
「そうそう。純子ちゃんのところを一番にするって決めているみたいで、あんな早くに。迷惑でしょって言うんですけど」
「いえ、とても助かるんじゃないでしょうか……重いものですし」
「あら、和弘さん、手伝ったの?」
「少しですけど。重いですね、米って」
そうね、と言っておばさんは笑った。
おばさんは、昼食用にと茹でていた蕎麦を和弘の前に持ってきた。温めたつゆの中に、蕎麦が入って、卵でとじた野菜が見える。ふんわりとした卵の中に、いくつかの野菜は美味しそうだ。
「畑で採れた野菜をね、やっぱり年だから柔らかく炊いて食べちゃうのよね」
「いえ、美味そうです」
「かきたま蕎麦なら、お野菜も食べられるし、お腹にもたまるのよ」
そう言って説明してくれるおばさんは、とても笑顔だった。美味しいものを食べる時、人はこんなに笑顔になれるものなんだな、と荒尾は嬉しくなる。
「そうだわ、和弘さんが嫌じゃなかったら、縁側でいただかない?それならニャーも庭で遊べるから!」
「いいんですか?」
「うふふ、ちょっとお行儀が悪いけど、たまにはいいでしょ。天気もいいし」
こうして、2人と1匹は縁側にいた。縁側から見えるのは、きれいな家庭菜園と向こうに広がる木々だ。家庭菜園は時期のせいか、あまり彩のいいものはできていないようだ。ネギや白菜など、そのあたりだろうか。ニャーは畑を見て回ったかと思えば、おばさんの横で丸くなって寝始めた。
「美味いですね、蕎麦」
「うふふ。お蕎麦美味しいけど、育てるのは大変だから」
「蕎麦も育ててるんですか?」
「知り合いがね。蕎麦は大変よ~時期もあるけど」
「へぇ……いろいろあるんですね、農家さんも」
「私は実家も農家だったから、あの人と一緒になってもそんなに違和感がなかったけど、子どもたちにしてみたらね」
時代の流れや生活環境の変化。それらがあって、この家を離れていった子ばかりだという。確かに今は都会に出れば、さまざまな仕事がある。荒尾も営業職ではあるが、会社には営業以外にもたくさん部署があった。そのどこかで働くこともできるだろう。
「純子ちゃんが初めてうちに来た日も、こんな時だったわね……」
おばさんは、懐かしそうにきれいな青空を見上げていた。