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第16:玄米おじさん登場

荒尾は、たっぷりとグラタンを楽しんだ。アツアツのグラタン皿を、まるで、抱え込むかのように必死になって、しっかり食べる姿は、まるで少年のようだ。誰かに自分のそれを盗られるかもしれない、と言わんばかりの様子だ。

「アツアツで美味いな~、チーズもトロトロで美味い!」

「安いチーズですけどね」

「安くてもこんなに美味くできるなら、素晴らしい腕だ」

褒められた。純粋に褒められた、と思った純子はとても嬉しくなる。この人に褒められるなんて、会社だったら滅多にない現象なのである。むしろ、営業成績では彼がトップなので、絶対に抜くことはできない。だから、褒められる機会となれば限られる。

営業部の皆さん、私はあなたたちよりも褒められちゃいましたよ、と思って純子はニヤニヤしてしまった。

「あ、そうだ、荒尾さん」

「なんだ?」

「明日は、部屋を掃除します」

「う」

「あの、うちのペンションの一室なので、さすがに掃除はさせていただかないと困るかなって」

「……そうだな。わかった」

渋々という表情はあるものの、荒尾は割と素直に受け入れてくれたと思う。

2人はグラタンをしっかりと食べ、ニャーの顔を眺めていると夜が更けていく―――


翌朝、荒尾は早めに起きた。もともと早起きするのは苦ではないタイプだ。ビジネスマンは早起きが当たり前。起きて、ベッドから出る。そして着替えを済ませてから、部屋を見渡した。昨日は顧客の整理をしていたから、古い紙書類が散らばっている。その中に、多分だがさまざまな書類があるはず。まずはとにかく集めて、片付けよう。

自宅にいた時、荒尾はこんなことはなかった。むしろ、自宅にはあまり仕事のことを持ち込まなかったので、ここまで大変な状況になることはなかったのだ。会社は常に人の目があるから、気にしてしまうし、仕事というスイッチが簡単に入る。スイッチが入れば、そのまま仕事をすればいいから、特に問題は起きないのだ。しかしそのスイッチが切れると、たちまち年齢相応の駄目な男になる。

駄目と言っても、全部が駄目なわけではないし、いいところだってちゃんとあるはず。そういう地道な前向きさが、結局は彼がいい成績を出せるのだ。彼はそういう男、そういうもの。そんなタイプなのである。

だから、それが知られる前に、片付けてしまおう。そう目論んだのだ。


もうすぐこのペンションのオーナーである、自分の元後輩がやってくる。その前に『そこそこの部屋』に仕上げておきたい。荒尾はそう思って、書類を片っ端から片付けていく。これはいる、これもいる。いるものばかりなら、最初から片付けておけばよかった。

こんなだらしない姿を、元とはいえ、後輩には見られたくないものだ。


とりあえず片付けが済んだので、洗面を済ませて、少し外に出てみることにした。昨日ニャーが見ていた外を、自分も見たくなったから。とりあえず外に出てみると、清々しい朝の空気が荒尾の肺に入ってくる。すると、急に声をかけられた。まさかこんなところで誰かに声をかけられるとは思ってもみなかったので、飛び上がりそうになる。

「兄ちゃん、ペンションに泊まってる和弘さんだろー!」

振り返ると、そこにはまずまず長身の眼鏡をかけた、作業着の男性がいた。彼の向こう側に、軽トラックが停まっていた。荒尾が起きるよりも早く来ていたのか、と驚く。

「あ、はい……」

「いやぁ、ちょっと早く出てきちゃってねぇ」

「えっと、あ、米ですか?」

「そ、純子ちゃんに頼まれたんだけど、まだ寝てるよなぁ」

あっはっは!と彼は笑い出す。快活な笑顔は、年齢を感じさせないというやつだろうか。しかし純子の言っていた『玄米おじさん』の正確な年齢を荒尾は知らなかった。

「この前はうちのがすまんね、車乗せてもらっちゃってさ」

「いえ、荷物も多かったですし」

「助かったーって喜んでてな。うちのはなかなかこっちに来てくれんから、嬉しかったんだよなぁ」

彼の言ううちの、とは子どものことだろう。そんなニュアンスを荒尾は感じ取っていた。玄米おじさんは、ニコニコしながら軽トラックに乗せた米をペンションの中に運び出す。手伝った荒尾だったが、この米袋が、重い。

「お、重いんですけど」

「んー、30キロだよ、まだまだ!昔はもっと重かったからなぁ!」

笑う玄米おじさんの後を、ゆっくりと歩いていく。とりあえず、落とさないように持っていくのが精いっぱいだ。

「純子ちゃんにはやっぱり重いからなぁ、いつも俺が持って行ってあげるんだよ」

「そ、そうですね。こりゃ重い」

2人で運んで、汗をかいたのは荒尾だけ。玄米おじさんは涼しい顔をしていた。

「よーし、いいかな」

「あ、コーヒー飲んで行きませんか?」

「え、純子ちゃんいるの?」

「いえ、俺が淹れます」

「えー、いいのかい!?」

玄米おじさんは、喜んで食卓の席に着いた。本来は、勝手にペンションのものを使ってはいけないのだろうが、せっかく来てくれたこのおじさんに、少しでもお礼がしたかった。

荒尾はなれた手順で、コーヒーを淹れていく。喫茶店が好きで、割と本格的なコーヒーを淹れるのが趣味だ。自分の持っているものではないけれど、ちょっと借りていいコーヒーを飲むくらい、いいんじゃないか。

しばらくしてトポトポとコーヒーの音と香りが響いてくる。とりあえずミルクと砂糖は準備したが、本当は入れない方が美味いんだがな、と思いながら、荒尾は玄米おじさんの前にコーヒーを持ってきた。

「うわ、いい香りだな!」

「ありがとうございます。ミルクと砂糖は?」

「いや、そんなの淹れたらせっかくの香りが台無しだよ!」

笑顔でそう言ってくれる玄米おじさん、できる男だな、と荒尾は思った。コーヒーを知っている人が飲んでくれると、淹れた方も嬉しくなる。

男2人、面と向かって座って、美味しいコーヒーを飲む。妙な空間ではあるのだが、美味いものは美味い。

「あー、美味しかったよ。また君のコーヒーを飲みに来るよ」

「いや、俺は」

「純子ちゃんも大変だからさ、たまには手伝ってやってくれよ。ご両親亡くしてまだ日が浅いしね」

そう言って、玄米おじさんは帰っていった。


荒尾は、そうだった、と大事なことを思い出す。このペンションのオーナーになった元後輩は、もう両親がいないのだ。荒尾にはまだ離れていると言っても、両親が健在だ。しかし彼女にはいない。帰るべき家はここだけで、家族もニャーくらい。されがどれくらい寂しくて、苦しいことか。

ただペンションに泊まっているだけで、そんなことを考えてやれなかった。美味い飯が出てきて、のんびりコーヒーを飲めて、ニャーがいる。必要な仕事は部屋でこなしていたし、買い出しの手伝いくらいはしていた。

本当は、もっと話したいことがあったんじゃないか。両親を失うなんて、今の自分にはまだ考えられない現実。会社を辞めて、ここを守ると決めた純子の気持ちは。

「クッソ……」

コーヒーカップを片付けながら、荒尾は自分が情けないな、と思った。本当はもっと気遣ってやっていいはずなのに、それができない。これが仕事だったら、もっとスムーズにできるのに。


「あれ、荒尾さん。もう起きていたんですか?」

ニャーを抱きかかえてやってきたのは、純子だ。

「ああ、すまない。外に出たら、あの、玄米おじさんが」

「あ、お米ですね!」

「中に運んでおいた。なかなか重かったぞ」

「重いですよねー!」

純子はニコニコしながら、そんなことを言っている。そうか、彼女は普段1人だからあんなに重いものも、1人で解決しているのだ。


「……なんか、手伝うぞ」

「え?はい、ありがとうございます!」

純子は朝からも、いつもの笑顔だった。


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