「和ちゃんはお祖父ちゃんと喫茶店に行くのが好きねぇ」
そんなことを言いながら、いつも喫茶店に連れて行ってくれるのは祖母の方だった。喫茶店はいつもコーヒーの香りに包まれていて、たまに甘く素敵な香りもする。
「お祖母ちゃん、あの甘い香りはなに?」
「今日は何かしら。ワッフルかしら、パンケーキかしら」
「ワッフル?パンケーキ?」
幼い少年は、祖母の口からこぼれるそれらの横文字を詳しく知らない。教えてもらえると嬉しいな、と思いながら、皺のよった手を握りしめる。
「和ちゃんの好きなプリンアラモードとは別のものなの」
「お祖母ちゃんが作ってくれるホットケーキとは違うの?」
「そうねぇ、ちょっと違うかしら」
困ったように笑う祖母。困らせたつもりはなかったのだけれど、どうして、と思った時に和弘は目が覚めた。
「荒尾さん、こんなところで寝ていると風邪を引きますよ」
「ニャーは風邪を引いてないだろ」
そんなことを言って、しっかりと周囲を見れば、そこは暖炉の前だった。暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えていて、彼にとっては寒さなど感じない場所。しかし世間一般的に考えれば、居眠りすると風邪を引くという。
「ニャーは最前列ですから」
「コンサートでもないのに」
「お上品ですね、コンサートなんて」
若い人ならライブと言いそうなものなのに、と純子は思う。この荒尾和弘は、ちょっと謎多き男でもある。会社では営業成績1位の好青年なのだが、プライベートはほぼ謎。誰かと一緒に飲みに行くことはあっても、二次会、三次会には行かないという徹底ぶり。だから純子も彼のことをよく知らなかった。
このペンションへやってきて、彼がとにかくよく食べる人であることは理解できた。よく食べて、よく動く。もともと営業マンだから足で稼ぐという人と言っても本当に過言ではない。そんなタイプだ。好き嫌いもあまりなく、最初こそ朝食を食べないと言っていたが、それは最初だけで今は食べるようになった。
「コンサートに行ったことがないのか?」
「うーん、あんまり音楽は好みじゃなくて」
「そうか」
「はい」
はい、という純子の返事で止まった。あれ、こういう場合、恋愛ドラマや恋愛物語では『じゃあ連れて行ってやる』と誘われるのが常ではないのか?と思ったが、それはやはり妄想の世界。荒尾はそうか、という返事でストップだ。むしろ今からパン屋に行こうと言った方が、目を輝かせて行くに違いない。
無駄な妄想をしてしまったな、と純子は思いながら、おやつのマフィンを持ってきた。カフェで出している紅茶を煮出して作った、紅茶のマフィン。母が残してくれたレシピの中で『ダントツに簡単なレシピ』である。純子の母は、料理が上手だったし、昔からおやつも手作りしてくれることが多かった。子どもには、安全で美味しいものを食べさせたい、と願うのが母親の思いである。そのとおりに、母は熱心に純子のために料理をしてくれて、おやつも作ってくれた。
しかし、実際に純子が母のレシピを探し当て、作ってみると―――これが『とっても手抜きレシピ』だったのである。もちろん体に悪いことはない。むしろいい素材を使ってくれて、とても美味しいものばかりだ。だが、昔イメージしていた『コトコト煮込んで手間のかかった母の味』ではなかったのである。
「おやつ、マフィンですけど」
「ああ、いただこう」
「コーヒー淹れますね」
「そうだな」
荒尾は席に座り、純子がコーヒーを淹れる。それが普通になってきた。その間にある母特製レシピのマフィン。甘い香りに綺麗な色をしたマフィンが、皿の上に鎮座しておられる。
「中野瀬」
「はい?」
「今日は紅茶にしないか」
「いいですけど、マフィンも紅茶ですよ?」
「ああ、いいんだ」
荒尾の脳裏には、自分のことを優しく「和ちゃん」と呼んでくれていた祖母の顔と、祖母が好きだったティーカップ、紅茶の香りが蘇っていた。祖母はお茶ならなんでも好きだったが、紅茶を飲むために喫茶店へ足を運ぶことも多かった。祖父が行くついで、と称しては荒尾のいないところで2人きり、デートのようにしていく姿もあった。それを思い出すと、なんだか不思議な気分だ。
あの頃は、そうやって喫茶店へ行くことが普通だと思っていたが、実際に自分が行く年齢になると、コーヒーばかりを飲んでしまう。仕事の支障にならないように、ブラックコーヒーばかり。喫茶店は嫌いじゃないが、甘いものを食べに行くということも、すっかり忘れていた。
このペンションに来て、荒尾は思った以上に多くの収穫があったと思う。自分が好きだった祖母の味、喫茶店のこと、パンのこと、多くを思い出せた。忙しい毎日の中で、薄れていくばかりだった大切な思い出が、今はこんなに鮮やかに思い出せる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「紅茶のマフィンに紅茶だなんて、今日は珍しい日ですね」
そんなことを言う純子の笑顔が、かつて喫茶店に足を運んでいた祖母と重なった。こんなにいい顔をする女性だったのか、と荒尾は思う。
「どうしました?」
「いや。紅茶の温度が熱すぎないか?」
「お年寄りじゃないんですから、自分で冷まして飲んでください」
サービス精神は欠けているけれど、悪くないものを提供してくれる―――荒尾はそんな純子を見ながら、紅茶のマフィンを口に運んだ。外はさっくりとしていて、中はふんわり。重たくない、軽いマフィンだな、と思うともっと食べたくなってくる。
「もうないのか?」
「ありますけど、明日近所のおばちゃんが来るので、明日の分は残しておいてくださいね」
「明日来るのか……」
「はい、明日お米を持ってきてもらいます」
「米!!」
炭水化物に反応してしまうのは、日本人の性なのか。それとも空腹を満たしたいと思う男の願望か。どちらにせよ、荒尾の頭の中には米のことばかりになってくる。美味い米を腹いっぱい食べたい。年貢を納める時代に生まれなくてよかった、とまで思うほどに、今は米が恋しくなる。
「好きですねぇ、パンもお米も」
「そうだな。男ならみんな好きなんじゃないのか?」
「そうですか?でも、今日の夜はグラタンにしようかなって」
「グラタン!!」
毎回単語を大声で繰り返す男を目の前に、純子は面食らった。おいおい、イケメンなのに腹ペコか、と。
「マカロニを入れるつもりでしたけれど、どうしましょう?ドリアの方がいいですか?」
「うーん、悩ましいな」
「え、そんなに悩ましいものですか?」
「なんでも腹いっぱい食いたいじゃないか」
「食べ物に感謝している、と勝手に解釈しますね」
感謝していないわけではないぞ、と荒尾は言ったが、すでに頭の中はマカロニグラタンかドリアの大戦争だ。どちらも美味しい。どちらも、味はほぼ同じだが、ちょっと違ってくる。なんなら、間を取ってパングラタンとでも行くべきか?とまで思う。
「パンはなしですよ」
「な、なんだと!?」
「荒尾さんの考えそうなことだなって思って。今回はマカロニかドリアの二択です」
厳しい二択だ、と荒尾の額から汗が落ちた。どんなに厳しい営業先に行っても、笑顔で行って帰って来れる自信はあるのに。その方が得意なのに。今はマカロニと米を選べず、渋い顔をしてしまう。
「ちなみに、中身はブロッコリーに玉ねぎ、鶏肉、あ、ジャガイモも入れようかな?まあそんな感じです」
一般的な食材を並べられて、さらに荒尾は悩む。悩んでしまうのだ、さらに。どちらを選ぶことが、あのクリーミーなホワイトソースに合い、自分の腹を満たしてくれるのか。
「……夕食はパスタで、朝食はドリアではどうだろうか?」
悩んで悩んで、最後はどちらも得るつもりか。
日本のことわざを知らないのか?と純子は呆れ顔になるのだった。