「それで」
純子はコーヒーカップを洗ってから、荒尾を見た。どう見ても、お腹いっぱい。そうだろうな、と思いながら、純子は彼の出方を見ている。
「どうした」
「お腹いっぱいでしょう」
「ああ。満足した」
「メロンクリームソーダは明日ですね」
「さすがにそうだな」
「でも、夕食は明日には回せません」
そうだった、と荒尾の表情が困ったようになっていく。
「そこで、提案なのですが」
提案、と聞いて荒尾の顔が真面目になる。さすがビジネスマン、営業の鬼。そういう言い方をされれば、話を聞かねばならなくなってくる。だからこそ、純子はそれを理解していて、口にしたのだ。
「なんだ」
「実は、庭の手入れをしたくて。でもちょっと大変なので、夕方まで手伝っていただけませんか?」
「それくらいでいいのか?」
それくらい、と言われてガックリと来る純子。彼にとってはそれくらいの世界観なのだろうなーと思ってしまう。
「木の枝や、落ち葉なんかを集めていただきたいんですよねー」
「それくらいなら」
「荒尾さんにはそれくらいなんですけど、私にとってはちょっとそれくらいじゃなくって」
身長の低い純子にしてみれば、なかなかに大変な作業なのだ。だから、純子は手伝ってもらえるなら、助かる。それでお腹も空いてもらえれば、もっと助かるのだ。食事の準備は手を抜きたくないし、しっかり食べたい。荒尾はパンをたくさん食べたけれど、純子はそうでもないのだから。
荒尾は動きやすい格好で庭に出た。軍手と箒を手にして、純子の指示に従う。落ち葉は、庭と呼ばれる広場中に広がっていて、それを集めていく。ここにおいてください、と指示された場所を見れば、すでにいくらか落ち葉が集まっていた。
「何かするのか、ここで」
「もう少ししたら、落ち葉を肥料にするんですよ。多すぎる時は、焼き芋でもしましょうか!」
「焼き芋か!」
食べ物の話になると、彼は少年のように笑顔になる。食べることが好きなんだろうな、と純子は思いながら、会社にいた時は気づかなかったことだと思う。
「私はペンションの中を掃除してきますので、こちらをお願いします」
「わかった。終わったら報告する」
「はーい」
報告する、とまさに会社のままではないか、と純子は思った。このペンションにきて、そういう感覚を忘れてしまったので、とても懐かしく思ってしまう。家族がいなくなって、自分とニャーだけのこのペンション。誰かに何かを報告するなんてこと、特別にはなかった。だから、彼がいてくれるだけでも、気持ちが変化してくる。
純子は、ペンションの中を掃除しながら、窓の外にいる荒尾を見た。熱心に掃除をしてくれている姿を見て、なんでも真面目にする人なんだな、と思う。確かに、営業成績がいいのは彼の努力の賜物だ。彼が努力をしていたこと、彼がとても厳しくなんでもしていたことは、よく知っている。小さなミスでも許さないし、取引先への心遣いも忘れることはない。資料作りも、考え方も、彼は常にしっかりしていた。
「って、そんな人に庭の掃除させてる私って……?」
営業マンである以前に、お客様だ。お客様に掃除をさせているなんて、と思った後に、そんなことばかり考えても無駄だな、と考えを改める。だってこんなに小さなペンションとカフェでも、純子1人ではなかなか管理できないのだ。手伝ってくれる人がいる時に、手伝ってもらう。そのお礼をちゃんとすればいい、感謝していこう。
会社にいた頃は、何もかもが切羽詰まっていた。仕事をすることも、人間関係も、食べることだって、なんだかうまくできない。なんとなく違う、と感じてしまうことばかりだったのだ。そこから解き放たれたかと思えば、今度は家族を失った。大好きな両親がいなくなって、寂しいペンションとカフェとニャーが残っているだけ。ニャーは、今でも両親が大好きだった暖炉の前にいる。あの場所で、両親は本を読んだりコーヒーを飲むのが好きだった。ニャーはきっとそれを、忘れないのだろう。
掃除が済んだ純子は、キッチンへ向かい、今日は何を夕食に出そうか、と考える。荒尾は一日中パンばかりを食べているが、純子はどうしようかな、と思う。冷蔵庫を開けて、何があるのかを眺めてみた。野菜はあるし、少しなら豚肉もある。今日は冷えるから、野菜と豚肉を煮込もうか。野菜はたっぷり入れて、お腹に優しくて、最後にはそのスープで雑炊を作る。そうしよう、と決めて純子は野菜を準備し始めた。
鍋が温まり、野菜を入れていい具合に火が通った。純子は、それを眺めるとうんうん、とうなづく。美味しそうだな、と思って鍋のふたを閉めた。そろそろ庭の片付けも終わったんじゃないか、と思って外へ行ってみる。すると、荒尾がきれいになった庭に立っていた。空を眺める彼の横顔は、今まで見たことがないくらいに済んでいた。格好いい、という思いもあるが、こんなにすっきりしていたっけ、とも思う。もともとイケメンだとは知っていたけれど、自然の中だともっといいじゃないか。
「どうした、中の掃除は終わったのか」
「あ、はい」
先に声をかけてきたのは荒尾の方だ。彼は少し微笑んで、純子の方へ歩いてくる。
「掃除も終わったぞ」
「ありがとうございます」
「広くていい庭だな。犬とか走らせたらいいんじゃないのか?」
「ドッグランのこと言ってますか?ニャーに怒られますよ」
その時、2人が見たのは窓辺で外を見てるニャーだ。いや、外を見ているのではないこちらを見ているのだ。
「怒ってます」
「怒ってるな」
2人で見たニャーは、ジロリと2人をにらんでいた。きっと、ここにドッグランでも作った日には、犬たちを追い回すニャーになるだろう。なかなかに強い猫であるニャーは、昔から両親の側にいる猫だった。純子もニャーの性格は知っているが、まるで家のボスのようにしている。
「ニャーは外に出ないのか?」
「出ますよ。気が向けば。今度誘ってみてください」
「わかった」
「基本的に寒い時は出ませんけど。出したらめちゃくちゃ怒ります」
「む……それは」
嫌だなぁ、と純子と荒尾の気持ちが重なった瞬間だった。
2人はペンションの中へ戻り、本格的に夕食の準備を始める。テーブルにカセットコンロを持ってきて、鍋を置いた。ふたを開ければ、湯気と一緒に野菜が登場する。そこへ豚肉を投入した。すぐに食べごろになったそれを、荒尾は本当に喜んだ顔で出迎えてくれた。柔らかく煮込まれた野菜と豚肉。そこへポン酢を垂らせば最高に美味しい鍋ができる。
「ゆずの香りがするポン酢だな」
「近所のおばちゃんに作り方を教えてもらって、手作りしたんです」
「ゆずができるのか?」
「おばちゃん仲間にゆずの木を持っている人がいて」
「自家製ゆずポン酢か!香りがいいな」
刻んだ玉ねぎと醤油、酢、ゆずの果汁を混ぜて作ったゆずポン酢。純子はここ最近の手作りで一番美味しかった、と思っている。このゆずポン酢、サラダにも合うし、なんと寿司にかけてもなかなかいける。今度それを荒尾に教えてやろう、と思うと純子はニヤニヤしてしまった。
「ん、ニャーが来たぞ」
「あれ、どうしたんだろ」
ニャーは荒尾の隣に来ると、彼をジッと見つめている。見つめ合う2人を見る純子。なんだこれは。なんの意味があるというのか、と思った時に、純子は立ち上がって暖炉を見た。火が小さくなっている。
「ニャー、ごめんね、寒かった?」
その問いかけに、ニャーは静かに返事をして元の位置へ帰っていった。純子が薪を追加したので、また火が戻ったのである。
「自己申告制か」
「そ、そうですね……けっこう厳しめの」
「そうだな」
ゆずポン酢の香りに包まれながら、純子は苦笑するしかなかった。