買い物を済ませて、2人は車に乗り込んだ。しかししばらくすると、急に荒尾の顔色が変わってくる。気分が悪いとかそういうことではなく、ただ単に満腹になったということらしい。
「あんなにパンを食べるから!」
「カレーパンを食べたのが腹にたまっている」
「もー、美味しいカレーパンなのに!」
純子は、車を運転している荒尾の横顔に叫んだ。
車はしばらく特に何もない道を走り続けた。新緑の季節か、夏にでもなれば景色はいいのだが、あいにく今はまだその前。きれいといえばそうなのだが、何があると言われると、何もない。純子にとってはその方が心地よいが、隣で車を運転している男はどうだろうか。はっきりとはわからない。
営業の仕事だから、きっと自分よりもたくさんの景色を見てきたことだろう。特に、街から街へと行けば、さまざまな建物から、人から、なんでも見てきたに違いない。そんな仕事を純子はよく知らないので、想像することくらいしかできないが、彼はそれが楽しいのだろうか。会社にいる頃は、機嫌がよければイケメンで、悪ければ鬼。鬼上司と若手から言われることは多かった。
でも、仕事ができて、成績優秀。荒尾だから、と契約を決めてくれる顧客も多く、信頼に値する人。純子には見せない一面のどこかに、顧客の心をつかむ何か、を隠しているのかもしれなかった。
「腹はいっぱいだが、あのカレーパンはまた食べたいな」
「作りませんよ」
「なんでだ?」
パンは手間がかかると言ったじゃないか!と純子は思う。営業ができて、頭がいいはずなのに、どうしてわからない。
「揚げるの面倒じゃないですか」
「焼きカレーパン」
「カレーパンは揚げでしょ!?」
「焼いたのも美味いぞ」
車の中で勃発したのは、カレーパン論争。揚げか焼きか、些細な違いに思えるが、どちらも味わい深いもの。だから、どうしても論争になってくる。
「揚げパン好きか」
荒尾の視線は、純子に『そんなハイカロリーなパンが好きな女はモテないぞ』と言いたげだった。いや、これは完全に純子の妄想なのだが。妄想の中で、そう言われた気がした。
「きなこ揚げパンとか、食べたことないんですか……?」
「きなこ揚げパン?」
「な、ないんだ!?」
「ないな」
あんなに美味しいきなこ揚げパンを知らないなんて!純子はパンの神様がいるのなら、謝りたいくらいだと思った。きなこ揚げパンの美味しさを知らない男をペンションに泊めてしまって、ごめんなさい!と。
「ただの揚げパンだろ?」
「違います!揚げたコッペパンにたっぷりきなこをまぶして食べるんです!美味しいんですよ!」
「そうか」
わかったか!と純子の鼻が鳴りそうになった時、荒尾は言った。
「じゃあ、作ってくれ」
純子は、本日のメニューを大幅変更して、急きょきなこ揚げパンを作ることになってしまった。コッペパンがないので、もらったロールパンと食パンをカットして作る。たっぷりの油にパンを入れて、色が変わったら、準備していたきなこをつける。工程はとても簡単なのだが、きなこの甘さなど、好みが分かれるという細かいところも楽しみの1つだ。
純子の場合は、祖母が作ってくれていたきなこの味を再現。砂糖を多めに入れた甘いきなこを、たっぷりとつける。最終的にきなこはこぼれてしまうのだけど、この、汚しながら食べるのもまたいいのだ。
「小学校の給食とかで出ませんでした?」
「出なかったな。まあものがあるのは知っていたが、きなこがあまり好きではなくて」
「きなこは砂糖の分量で違いますからね~。うちのお祖母ちゃんは甘党で」
「うちの祖母は、あまりきなこを出してくれることはなかったな。土地柄だろうか?」
「それはあるかもしれません。でもきなこは体にもいいし、お団子にも、ヨーグルトとかにも美味しいですよ。オススメです」
体によさそうなことは、荒尾でも理解していた。大豆製品だし、粉だから混ぜればなんでもいけるだろう、という感覚である。しかしそこまで手が出せないのが男性というもの。
「でも、食べれます?カレーパンでお腹いっぱいなのでは?」
「まあ、これくらいなら」
「無理しないでくださいね」
差し出された皿には、きなこがたっぷりまぶしてあるパンたちが並んだ。油の匂いと重なって、きなこの香りがふんわりとしてくる。
「コーヒー淹れます」
「頼む」
純子がコーヒーを淹れている間に、荒尾は食パンのきなこ揚げパンを口に入れた。まだ温かい。サクサクで、ジュワっと油が広がって、きなこの香ばしさと甘さが広がる一品。
「美味い」
「美味しいでしょ~」
コーヒーを持って純子はやってきた。甘いきなこ揚げパンに、コーヒーがよく合う。どうして今まで、こんなに美味しいものを食べてこなかったのだろうか、と荒尾は思うほどに、美味しいのだ。
「いっぱい食べたい……」
「荒尾さん、パンが好きですよね」
「いや、これは特別美味い。こんなに美味かったなんて。きなこもいいな」
「そうでしょ?ココア味も美味しいんですよ」
そう言った瞬間、純子はしまった、と思う。しまった、どうしてそんなことを言ってしまったのだろう。荒尾の視線が純子を見る。
「ココア味はないのか」
「ないです」
「ココアがないのか!」
「買ってくるのを忘れました!また今度にしましょう!」
こうして、仕方なく荒尾は我慢するしかなかった。きなこもいいが、ココアも食べてみたい。それ以外にも何かあるのか?と首を傾げながら、スマホを検索していく。
「シュガーに抹茶……いろいろある!」
「最近人気みたいですもんねー。でも手作りだと、きなこたくさんかけられるから、私はそっちの方が好きですよ」
あとちょっとかけたいな、という時にかけられるのが、手作りのよさ。純子はそんなことを考えながら、祖母の作ってくれた田舎ならではのおやつを思い出す。ふかし芋から始まり、簡単な団子、ぜんざい、お餅を焼いただけ、などさまざまだった。素朴なものばかりだったが、どれもとても美味しかったのを覚えている。ぜんざいはとても美味しくて、寒い時期が来ると楽しみで仕方がなかった。
食べ物と家族の思い出。それを今、1人きりになってよく思い出す。あの頃はまだニャーもいなくて、純子は大事な孫、大事な娘として愛されていた。懐かしさと寂しさ。あたたかな思い出と、それをもう味わうことができないという、寂しさ。どちらも大事なものとして、純子の中には残っている。
「ドーナツに似たものかと思ったが、そうでもないんだな。ちゃんとパンだ」
「ドーナツはお菓子ですからね。使っている粉が違いますし。ドーナツ好きなんですか?」
「ドーナツが嫌いな人間がいるのか?」
なんて極論。純子はそう思いながら、たまにはいますよ、と言うしかなかった。
「こういうドーナツがあるじゃないか」
指で丸を作って、荒尾は純子に見せてくる。
「それは穴という意味ですか、それとも丸い、という意味ですか?」
「穴を抜いた残りだ」
「昔は真ん中が残るからそれを揚げて売っていたみたいですけど、今はわざわざ丸く作るところもあるんです」
「なんだ、残り物じゃないのか」
ひどい言いようだなぁ、と思いながら、料理をしない人にとってはそんなものなのだ。しかしあの丸いところ、なかなかに美味しいのだから不思議なものだ。生地は一緒で、同じように味付けされているはずなのに。むしろ、チョコレートやシュガーをつければ、量が減っているとも言えるのに。
「視覚効果?」
「どうした?」
「いえ。でもドーナツは作りませんよ。時間がかかるんです」
「お前はそればっかりだな」
だって、料理は時間がかかるものなんです。
純子はそれをいつ荒尾に体験してもらおうか?と機会をうかがうのであった。