お目当てのパン屋は、駐車場に砂利を敷いている。車が来ると、砂利の音がよく聞こえるのだ。
「あ、この時間なら何か焼きたてかもしれませんね」
「そうか!」
純子は喜んで車を降りていく荒尾の後を追った。彼は少年のように颯爽と歩き出し、そのまま店のドアを開けに行く。純子の存在が消えてゆく瞬間。なんで、と思う。なんでペンションのオーナーは自分なのに、この人が前に行くのか。
しかしパン屋に入れば、それを忘れてしまうくらいに素敵な香りが充満していた。焼きたてのパンの香り、甘いシュガーの香り。カレーパンだろうか、スパイシーな香りもした。
「荒尾さん、パンは……ってそんなにたくさん買わないでください!」
見れば、そこにはトレイにパンを次々載せた荒尾がいた。個人店のパンはそこそこの値段がするのだが、彼は特に値段など気にしないようである。男だからか。パン好きだからか。
「お前は買わないのか、中野瀬」
「私は……そうですねぇ」
「食パンを買え!明日の朝用だ!」
「勝手にメニュー決めないでください~」
純子は困った。こんなお客、本当に今までいなかったから。食パンは幾つか種類があるので、それを眺めながら純子は明日の朝を考える。それよりも、今日の夕食も考えなきゃいけないのに。考える時間もないくらいに、荒尾に振り回されている。
「あ、このミルクパン、ニャーが好きなんですよ」
「それも買おう!ニャーには世話になっているからな」
そう言って、荒尾はミルクパンをトレイに載せた。何言ってるんだ、この人。純子はそう思って、荒尾を見たが、彼は楽しそうで気づかない。
「食パンはこれにして……あ、バケットもあるなぁ。バケット食べますか、荒尾さん」
「サンドイッチか?」
「なんでも挟めばいいと思って……。スープにも合いますし、グラタンもいいですね」
「グラタン!!」
「あの、お店の中であんまり大きな声、出さないでください!」
このあたりで若い男女は珍しい。すぐに近辺の噂になってしまう。お客さんだと言えばいいのだが、普通、ペンションのオーナーがお客様とパン屋に行ったりしないだろう。怪しまれてしまう、と純子が思っていると、レジに立っているパン屋の奥さんがニコニコ微笑んでいた。
駄目だ、もう勘違いされている、と思った。きっともう何を言っても、信じてもらえないなぁ、と純子はガックリした。荒尾が笑顔でレジにパンを持っていき、両手いっぱいにパンを持って出て行く。純子は続いてレジに立った。
「純子ちゃん、あの人、素敵ねぇ」
「辞めた会社の知り合いなんですよ、あはは」
「あら、純子ちゃんどこの会社にいたんだっけ?でもそんな人がここまで来てくれるなんてねぇ」
「違いますって、なんにもありませんよ!」
笑い合いながら、探り合い。田舎の奥様はウワサ好き。でも、純子にとっては、都会の会社に比べればマシだった。
「また2人で来てね」
「はい」
「おまけね」
「あ、ありがとうございます!」
バターロールを2つおまけでくれた奥様は、最後まで笑顔で純子を見送ってくれた。
車にいた荒尾は、早速気になるパンを口に入れている。お行儀の悪い、と思いつつ、営業だと忙しいから食べられる時に食べるのか。それもそうだなぁ、と思ってしまう。
「美味いぞ、このカレーパン」
「ご主人がカレーを煮込んでいるそうですよ」
「なんだと!?作り方を聞かねば」
「パン屋さんにカレーの作り方聞かないでください!」
パン屋に聞くなら、パンのことを聞け!と純子は思う。しかし荒尾は真剣にカレーのことを考えているようだった。食べることばっかり気にして、仕事の話はしない。有給休暇の消化を満喫している、というのは、こういうことか。
「中野瀬、次はアイスクリームを買いに行くぞ」
「はーい」
「返事は、はい、だろ」
「はい……」
「よし。店はどこに行く?」
「少し離れていますけど、スーパーに行きましょう」
「よし!」
楽しそうだなぁ、と純子は思う。しかし、荒尾は運転する傍らで次々とパンを食べていく。クリームたっぷりなカスタードクリームパンを食べ、お店で大人気の明太子フランスをかじり始めた時は、純子が目を丸くした。
「食べすぎです!」
「ん?そうか?」
「食べ過ぎですって!もう3個食べてます!」
「まだあるぞ?」
買い物袋には、まだパンがいた。ギリギリ生存しているパンたちが、純子に荒尾を止めるように訴えかけてきているようだ。
「か、帰ったら、夕食ですから!」
「まだ時間があるだろ?」
「あ、ありますけど!」
「なら」
なら、と言って生存者であるパンに手を伸ばす荒尾。純子は必死になって止める。
「メロンクリームソーダが飲めなくなっちゃいます!」
「あ、そうだったな!」
「そうです!」
「コーヒーフロートもいいな!」
「そうですね!?」
また別のものが出てきた!と純子は思ったが、彼からパンを守るためには、肯定するしかなかった。
しばらく車は走り、純子と荒尾はスーパーに到着した。冷凍食品など、業務用の食材を置いている大型スーパーだ。揚げるだけで一品になる冷凍食品や、冷凍野菜もたくさん並んでいる。
「す、すごいな!」
並んだ食材を見て、荒尾は本気で驚いていた。きっとこんなスーパーを見たことがなかったのだろう。彼にとって、スーパーとは一般的な、なんでも適量を売ってあり、冷凍食品はお弁当サイズ、といったものだったのだ。
「おい、中野瀬!これ、飲み屋で……」
「荒尾さん、言っちゃダメです。次からお酒が美味しく飲めなくなりますよ」
「む、そうだな。早くアイスクリームを探そう!」
子どものように、荒尾はそそくさと歩いていく。酒は美味く飲みたいらしい。純子は色々と見ながら、少し冷凍野菜をストックしておこうかな、と考えたりする。美味しくて、簡単で、できるだけ安く済ませたい。それが純子の考えなのだが、荒尾はまだまだ考えが浅い。アイスクリームのコーナーに辿り着くまでに、冷凍のケーキやスイーツを見て、声を上げている。
世の中、便利になった。そして悪くないのだ。むしろ、いいくらい。食べ物があふれて、日本は本当に裕福な国になったなぁ、と純子は思う。コンビニは高いと思うけど、安定的な美味しさと品揃えは、普通はできないわけなのだ。それをペンションのオーナーになって、やっと気づいた。
パンはあるので、先ほど話していたグラタンもいいな。シチューで作ると、シチュー風味のグラタンになってしまうから、ホワイトソースから作りたい。お客様がいないなら、ガーリックトーストも考えるのだが、これは人がいるとちょっと気になってしまうから、却下だ。卵と牛乳を買っておいて、フレンチトーストもいいな。グラタンにも牛乳がいるから、牛乳と卵は必須。
ちょっと洋食に偏ってしまっているから、和食か、簡単な中華も入れたいところ。中華なら麻婆豆腐もいい。あまり辛くせず、ひき肉を多めにすれば、ご飯によく合うおかずになってくれる。和食なら、そろそろ魚も考えたい。
純子が色々なことを考えていると、荒尾がアイスクリームを手に取っていた。普通の箱入り4カップ入りのアイスクリーム。それを見て、純子は走り寄った。
「アイス、嫌いなんですか!」
「いや、たくさん載せるつもりだ」
「じゃあ!!」
並んだアイスクリームの列、その一番端から、純子は大きな塊を荒尾に手渡した。ずっしりとしたその重たくて、大きな塊。
「これにしてください!」
業務用1キロのアイスクリームの登場だ。荒尾は、自分が握っているものを手放し、この大きなアイスクリームを握り締めた。
「これだ!」
その喜ぶ顔は、純子も同じであった。