この客は、もとから知り合いだったせいか、とても口うるさい客だなぁ、と純子は思ってしまった。長期でペンションに泊まってくれることはとても嬉しいのだが、食事に関してちょこちょこと感想のような、なんとも言えない意見を言ってくる。どんなものでも食べてくれるので、そういう点では困っていないが、ポロッとこぼれる言葉が耳につく。
「ポテトサラダは残ってないのか」
「え、残ってますけど」
「なら、サンドイッチだな」
考えていたことが同じでちょっと気になる。ときめきなんて明るいものではなくて、頭の上に?マークが浮かんで、首を傾げてしまうような感じだ。しかもペンションの食事は、基本的にオーナーである純子の提案や食材の在庫状態で決めてきたのに、荒尾は堂々と注文をしてくる。お客だから悪くはないのだが、なんだかちょっと違うような、と感じてしまう節がある。
「サンドイッチ、好きなんですか?」
「まあ、パンが手軽でいいだろう?」
「……まあ、簡単ではありますけど」
「なんだ、ここは客の意見も聞かないのか?」
聞かないのか、と言われてそうではない、と純子は思う。しかしここでの料理は純子の楽しみの1つだった。そんなことでお客を取っていること自体おかしかったのだが、ここでの生活は、純子にとって楽しみでなければならない。
楽しくない、と思ってしまえば、祖父母や両親との思い出が、壊れていくような気持になる。寂しさと哀しさ、苦しさ、そんなものばかりになって欲しくない。だから、どうしても、楽しみを優先してしまう。
「どうした?」
「いえ、その……」
「そうだ、俺がコーヒーを淹れてやろう」
「え?」
「嫌なのか?」
「い、いえ!お客さんにそこまでさせては……」
お客さん、と聞いて荒尾は思い出したかのような顔をした。忘れていたのか、なんなのか。はっきりとは言わないが、彼も何か感じ取ったようである。
「そうだな」
「やっぱり、お客さんに……」
「時給がいるか」
彼の頭の中を知っている。それは、かつて一緒に働いていたからだ。ビジネスマンとして、まさに完璧という言葉が似合う男。彼にとって、自分の動きは労働であり、そこには金銭が発生する。しかし純子はその言葉を聞いて、かつての記憶だけでなく、このペンションの稼ぎを考えてしまった。
「は、払えません!」
この男の時給なんて、想像したくない。どれだけ高い時給を払えばいいのか、想像ができないくらいに恐ろしい。しかし荒尾は慌てる純子の顔を見て、少しだけ笑った。
「冗談だ」
「へ、変な冗談言わないでください!」
「そんなに変な冗談じゃなかっただろう?」
それは、彼が自分の時給がいくらなのか、考えていないからだ。純子は顔を真っ赤にさせて、椅子に座り込む。荒尾はそんな純子を見ながら、楽しそうだ。こんな顔もするんだな、と思いながら、こんなことで冗談を言わないでほしい、とも思う。
会社で見てきた荒尾の顔とはまったく違う、まるで少年のような姿。こんなことを言う人なんだな、と初めて知った。会社ではこんなことを言うような暇なく、自分も彼も働きづめだったのだ。
「変な冗談でしたよ……」
「そうか?まあ、コーヒーは好きだからな。そのうち淹れてやるよ」
ちょっと上から目線で話をするのは、まだ自分が上司だった、という気分が抜けないからだろうか。でも昔のように悪い感じはしない。優しさが含まれているというか、好きなものの話だからか。仕事という区切りがないから、彼も気軽に口にできているのかもしれない。
「でも、ここは白米も美味かったからな。おにぎりでもいいか」
「えー!?今度はなんですか!?」
「いい米を使っていると思ったんだ。美味かった。あれでおにぎりを作ったら、なかなかいいだろう?」
「た、確かに、お米は農家さんから買っているので美味しいんですけど……」
近所のおじさん―――通称、玄米おじさん。野菜も作っているが、本業は米。おばちゃんは野菜の方が好きなようだが、旦那さんである玄米おじさんは、米を愛してやまない人なのだ。特に玄米を食べる食習慣をずっと続けているらしい。美味しい米を作ることに人生の最期をかけるのだ!と意気込んでいる。
そんな人が作った米を美味しいに決まっているし、それに気づいた荒尾は割と舌がいいのかもしれない。最近の人は、米のよさがなかなかわからない人も多いのである。たくさんではないが、今まで来てくれたお客様の、特に若い人はあまり米のよさは分かっていない様子だった。
「おにぎりなら俺でもできるな」
「だから!お客様には!」
「自分の分くらいは、自分でするからいいじゃないか」
営業で好成績を残してきた自信なのか―――ほうれん草の量も分かっていなかったのに、おにぎりは握れると言い出す。本当か?グチャグチャになるんじゃないか?純子は何をすればいいのか、困ってしまう。
「でもやっぱりポテトサラダのサンドイッチも捨てがたいな。パンをトーストして挟むと美味いだろ?」
「美味しいですけど!」
「どこかの喫茶店で食べたことがあるんだ。トーストサンド。アレはいい」
「サンドイッチがいいんですか!おにぎりがいいんですか!」
純子が必死になって尋ねると、荒尾はうーん、と悩み出す。本気で悩んでいるの?と純子は思ってしまった。
結局、テーブルに並んだのはサンドイッチだった。きれいにトーストされたパンにたっぷりのポテトサラダが挟まれている。ポテトサラダには茹で卵を追加して、少し味付けをプラスした。
「サンドイッチだ」
「ポテトサラダを食べてしまいたかったので、サンドイッチを優先しました」
「美味そうだ」
「パンはちょっと遠いんですけど、個人店で焼いているパンですよ」
「なに!じゃあ今度はそこに買い出しに行くぞ」
「なんで!?」
なんなの、この人。会社では営業の鬼で、クールで、女子社員に人気だった荒尾。営業部の後輩たちは、厳しい彼の指導にどれほど苦労していたか。しかし成績トップの彼からの指導は、厳しくて辛くて苦しいけれど、本物だった。そんな人だと思っていたのに―――まるで今は、食いしん坊状態だ。純子も食べるのは大好きだけれど、荒尾はその上を行きそうな鱗片を見せている。
「いいじゃないか、パン屋は面白い」
「面白いって……」
「俺はコンビニのパンは好きじゃないんだ」
「そうなんですか?コンビニのパン、美味しいじゃないですか」
「そうか?」
そう言う荒尾は、すでに席についていて食べる準備万端だ。スープとサラダを持ってきた純子は、食べるに素直なだけで、中身は微妙だな……と思ってしまった。
「出張に行くと、駅とかにパン屋があるじゃないか。ああいうパン屋に寄るのが好きでな。出張先に行くと、色々な店があるし」
「そういう感覚で出張に行っていたんですか?」
「腹は減る。出張だろうとな」
ポテトサラダのサンドイッチは、荒尾の口に消えていく。一度は食べたはずのポテトサラダが、きれいに消えていくのは気分がいい。残り物が消費されるのは、純子にとってとても都合のいい節約なのだ。美味しくて、お腹いっぱいになれる。いいことづくめ。
「美味いな、このパンは。やっぱりパン屋に行こう」
「分かりました。週末に行きましょう」
「それまでパンの在庫はあるのか?」
「私、パンは作れるので……」
その言葉を聞いた瞬間、荒尾は目を丸くする。人間の目がこんなに丸くなるなんて、純子は見たことがなかった。
「パンを作れるだと!?なんでそれを早く言わないんだ!」
どういうこと?と純子は困ったように首を傾げるのだった。