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第6食:ほうれん草のおひたしを山盛りで②

ほうれん草のおひたしはメインにはならない。純子はそのために何を作ろうか、と頭を悩ませた。この時期なら、温かいものがいいのだけれど、シチューはもう作ってしまったし、せっかくなら和食がいいかも、と思う。

少しいい鶏肉が手に入って、レンコン、ニンジン、こんにゃくを買った。サトイモを近所のおばちゃんからもらったから、筑前煮にしようか。他には味噌汁と、小鉢がもう一品あればいいかな、と純子は思う。ナスはなかった、ジャガイモはある。ポテトサラダは洋風だけれど、和食も馴染む、いい味だ。多めに作れば、リメイク方法はたくさんある。


これでいいな、とメニューを決めた純子は、買って来た野菜類を丁寧に眺め、ゆっくりと水洗いを始めた。もらったばかりのサトイモは、まだ泥のついた部分もあるし、皮を丁寧に向いて、食べやすい大きさへ切る。ニンジン、レンコンも切って、こんにゃくは食べやすい大きさに切ったら一度茹でる。こんにゃくの独特の臭みを消すために、一度茹でるといい。気にならない人もいると聞くが、純子は茹でる方が好きだった。

食材たちはそれぞれに、いい状態でそこに並んでくれている―――都会では知ることのなかった、生産者側のことも見えるようになって、純子は自分の中で何かが変わっているのがよく感じ取れた。ただ、その何かを言葉にするのは難しい。でも会社にいるわけでもないので、別にいいか、と気楽に考えた。


鶏肉を切って、炒める。それから固い野菜の順番で入れていき、最後にサトイモ。しばらく煮込んで、火が通るのを待つのみ。サトイモを入れると灰汁が出るから、それは時々すくいとる。その合間に、ほうれん草を洗って茹でた。茹でたらすぐに冷水に浸け、色が変わらないようにする。食べやすい大きさに切ったら、純子の好きだ出汁、砂糖と混ぜて、おひたしは完成だ。、難しい色々なことは要らないから、簡単で美味しく、また食べたくなるように料理したい。

次にジャガイモを茹でる。キュウリがなかったので、今日はジャガイモ、スライスしたハムだけのシンプルなポテトサラダの予定。

「あ、そうだ」

純子は思い出したように冷蔵庫を開けた。卵ならある。茹で卵を作って、混ぜよう。簡単、簡単、と呪文のように唱えながら、純子は手を動かしていった。店や家庭によっては、キュウリや玉ねぎなどさまざまなものを入れて、綺麗に仕上げるだろう。今日はキュウリがない。なら、なし。玉ねぎは入れたくない。なら、なし。それだけのこと。好きなように作れるから、自炊はおススメだと純子は思う。

「茹で卵は固めで~」

茹で卵の茹で方も色々だ。水から入れる人もいれば、沸騰してから入れる人もいる。節約のために火を止めるとか、色々あるけれど、純子はシンプルに水に塩を入れて、そこへ卵を2個投入。そして、火にかける。最初は10分、その後5分。それだけを守って、卵を茹でていく。その前に茹で上がったジャガイモの皮を剥いて、潰す。ゴロゴロしていた方が好きなので、ちょっと粗目に潰しておくのが、純子のポテトサラダだ。

筑前煮の灰汁を取りながら、火の通りを確認。もう少しかな、と思いながら、今度は茹で卵の様子を見る。我ながらによく働く、と感心しながら純子は作業を続けていった。


筑前煮は火が通り、味付けも済んだ。可能なら、味を染み込ませたいので、もうしばらくこのままにしておきたい。でも温かい筑前煮と白米は最高だ。ほうれん草のおひたしもしっかりできたし、ポテトサラダもよし。味噌汁は近所のおばちゃんからもらった味噌で作っている。豆腐とわかめだけのシンプルイズベスト。

「売れそう」

「売りものじゃないのか?」

キッチンに顔を出したのは、荒尾だった。一仕事でも終えたのだろうか、落ち着いた様子でこちらを見ている。いつもはビジネススーツ姿しか見たことがなかったのだが、今はラフなセーターとジーンズ。こんな格好もするんだな、と純子は少しだけ新鮮に感じてしまったりもした。

「売り物では」

「まあ、客は俺だけだしな」

「そ、そうですね!」

今日は買い出しのためにカフェも休みにしていた。だからお客は目の前の、荒尾だけ。彼だけがお客だなんて、と思ったが仕方がない。そんなものだ。

「飯にしよう」

「お客様から言うなんて」

「お客様は神様だろう」

「古い」

「まあ、台詞は古いが、昔のお客さんは本当にいい客ばっかりだったんだよ。クレーマーなんてほとんどいないし、こちらが頑張れば、それに応えてくれるほどさ」

何の話だ、と思いながら、純子がポカンとしていると、荒尾はすぐに話題を変えた。

「飯にしよう」

「は、はい」


純子は白米を茶碗についだ。味噌汁も準備して、母がお気に入りだったトレイに一式を載せる。このトレイ可愛いでしょ、と若い女の子のように笑っていた母の姿が思い出される。こうやってトレイに一式載せれば便利だし、可愛いし、映えるわよ!と笑っていたのが母だった。母にとって、このトレイ1つでも、本当に楽しい時間の演出だったのである。

懐かしいな、と思いながらあんなにここでの生活を楽しんでいた人は、もういない。もっと一緒に過ごせばよかった、もっと一緒にここで時間を共有すればよかった、と純子は何度も思ってしまう。

「どうした?持って行こうか?」

不意に荒尾に声をかけられて、純子は驚く。そうだ、もう1人じゃなかった―――少しの安心感。荒尾が来てくれたことの安心感を、純子は感じていたのだ。

「えっと、それなら、自分の分をお願いします」

「分かった」

「トレイに全部載せましたので!」

「ああ、ありがとう」

純子は荒尾にそれを渡し、微笑んだ。哀しんでいたり、寂しがったりしたって、何にもならない。前を向いて生きていかなければ、何の解決にもならないのだ。それに、すでにお客様は目の前にいる。しっかりしなくては。

荒尾は自分のトレイを持って、席に着いた。少し社食の雰囲気、と思ったがそれを言うと相手が何を言い出すか分からないので、やめておく。純子がやってきて、目の前に座った。

「では、いただきましょう!」

パン、と手を合わせた純子の目の前で、荒尾は止まっている。なんだ、と純子が首を傾げると、荒尾は言った。

「少ない」

「はあ!?」

「ほうれん草が少ない。あんなにたくさん買ったのに」

「え……?」

まさか。純子は嫌な予感がした。この男、まさか自炊を知らないのでは?調理という工程を知らない、のか?

「あんなにたくさんあったのに、これだけになることはないだろう」

「まあ、あの、あと2皿分くらいはありますけど」

「それしかないのか?」

嫌な予感がするなぁ、と純子は口に出しそうになった。男の人、というよりも、料理をしない人は分からないことが多いのだ。葉物野菜は茹でると小さくなる。量が減ってしまう。逆に乾物は、水を含んで多くなる。

「あの……つかぬことをお尋ねしますが、荒尾さんは、お料理は」

「自炊はするぞ。1人だしな」

「そ、そうですかぁ」

「でも、まあ、ここまで手の込んだものはできないな」

「はあ……えっとですね、葉物の野菜は茹でるとこんな風になるんです」

こんな風。視線が小鉢に移る。すると荒尾は更に困ったような、悩んだような顔になる。

「祖母ちゃんは、いつも山盛りだった」

「え、じゃあそれってすごく大変だったんじゃ……」

そう言ってしまってから、純子は口を閉じる。しまった、プライベートに入り込みすぎた。荒尾はプライベートな話は嫌いだったはず、と思って、チラリと彼を見る。しかし彼は神妙な顔をしていた。

「そうだったのか……」

彼の脳裏には、ほうれん草のおひたしを山盛りで出してくれる祖母の笑顔しかない。孫のためを思って、せっせと準備してくれたのだろう。それを知らなかった自分。荒尾は、静かに手を合わせて言った。


「いただきます」

その声が、純子は凄く澄んでいていい声だなぁ、と思うのだった。


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