荒尾が運転する車で、純子と近所のおばちゃんは買い出しに出ることになった。おばちゃん断ってくれないかなぁ、と甘い考えを持っていた純子だが、おばちゃんは逆に大喜びだ。若い男性が手伝ってくれる、となれば誰でも嬉しくなるものだろう。
「でもね、今日は主人が出かけてて。3人でもいいかしら?」
近所のおじちゃんがいないからなし、という考えはないのだろう。純子は仕方なく、おばちゃんと一緒に並んで車の後部座席に座る。座っていると、おばちゃんは持ち前のコミュニケーション能力の高さで、次々に荒尾へ話しかけていた。
「荒尾さんって下の名前はなんとおっしゃるの?」
「
「あら~お仕事が得意そうなお名前ね」
「ありがとうございます」
「それで、こちらにはどんな用事でいらしたの?」
「有給休暇を消化しに来ました」
ビックリするくらいの営業スマイル。純子は荒尾のどこまでも続く営業スマイルに驚いた。1ミリも崩れることのない、驚くくらいにしっかりと固められた営業スマイルは、純子でさえ見たことがないくらいに完璧だ。こうやって営業成績を伸ばし続けてきたのだろうな、と感心さえしてしまっている。
「このあたりは若い人が少ないから、純子ちゃんみたいに誰かが来てくれるのは嬉しいのよね」
「そうですか……このあたりは人口が少ないようですが、色々とお困りでは?」
「そうねぇ、都会みたいにすぐに何でも手には入らないけど、ホラ、ドラマみたいに救急車が到着できないってことまではないし」
「病院は遠いんですか?」
「遠い、と言っても行けないわけじゃないわ。むしろ都会でも何件か病院回ったり、何かしたりすればかかる時間と同じくらいよ」
実のところ、おばちゃんたちご夫婦は、ご主人の実家がこちらであっただけで、ずっとここに住んでいたわけではない。若い頃は都会で住んでいて、子どもたちも成人したから、第二の人生としてここでの生活を楽しんでいる。
「雪が多くて困ることもある、夏の暑さが厳しいことも。でもそんなのを全部人生で経験できれば、もう悔いはないわよねって、夫と話をしたところだったのよ」
「ご主人は今は、お仕事は何を?」
「あら、ただの農家よ。玄米が好きでね。いつの間にか自分で育てていたわ」
「米農家なんですか」
「うーん、でもそこまでたくさんは出荷してないから、何かしらね、あの人って」
車の中で、おばちゃんは楽しそうに笑っていた。純子が両親から聞いていた話では、この玄米おじさん―――かつては大企業のトップ営業マンだったの、なんの、と。とにかく今は暮らしに困らないほどにお金を持っているか、都会に会社を残してきた、だのそんな話だ。今ではすっかり玄米おじさんと呼ばれるほどになっているが、その姿からは見えない過去がある。
しかし純子はそれをあえて言わなかった。過去の話を勝手に言うのはマナー違反だろうし、荒尾が営業のことを玄米おじさんに聞きたいと思っても、当人が語ってくれることはないだろう。それくらいに今は、玄米と健康に惚れ込んでいる。
「あら、もう着いちゃったわ。荒尾さん、話が上手だから!」
おばちゃんはそう言って微笑み、車から降りた。
いつも買い物している野菜の直売場は、今日もなかなかの賑わいだった。最近野菜が高いので、こういう場所へ都会からの買い物客も増えてきた。都会よりも少しは安いし、量も多い。あえて足を延ばしても、悪くはないのだろう。
「純子ちゃん、見て、このニンジンたくさん入っているわ」
「本当ですね!ニンジンは彩にいるもんなぁ~」
どんな料理にも欠かせない野菜というものが存在する。そしてそれには好き嫌いもあるだろう。純子は特に嫌いなことはなかったが、子どもたちの話がネットから流れてくると、アレコレ嫌いな野菜の名前が登場する。純子にとっては普通でも、更に若い世代には受け入れがたい物は多いのだ。
「あ、この白菜は大きいな~」
1人で消費するのは大変だが、今は荒尾という宿泊客が連泊してくれている。大量に購入しても、消費できる可能性が高いので、それなら買っておく方がいいだろうと判断した。カゴに入れて重たそうにしていると、荒尾が無言でカゴを取ってくれた。
「すみません……」
「そのつもりできているから、気にするな」
「はい……」
なんだか気まずい。お客さんなのに、元上司で。お客さんなのに、荷物持ちをしてもらって。これっていいのかな、とちょっと思ってしまったりもするのだ。助かるけれど、お客さんにさせてしまっていいのか、と。純子は真面目に野菜を眺めている荒尾の横顔を見ていた。
すると、不意に荒尾が言う。
「ほうれん草だ」
ほうれん草の束を握って、彼は考え込んでいた。ほうれん草は青々としていて、少し茎は細めだが、茹でればちょうどよくいただけそうな様子である。
「これを買おう」
「買おうって、何にするんですか?」
「ほうれん草はメニューに出ないのか?」
「いえ、出ないってわけじゃないですけど」
「鉄分も摂取できて、いい野菜だ」
「そ、そうですけど!」
だから何なんだ。そんなことを考えながら、純子は荒尾が言いたいことを理解するのに戸惑う。なんだ、ほうれん草が食べたいだけなのか?と無理矢理結論づけて、彼の顔を見る。
「なんでも美味しい野菜ですよ。ファミレスでもソテーでよく出てくるし」
「もっと和風がいい」
「え!?じゃあ、お味噌汁に入れたり、白和えに入れたり、おひたしにしたり」
「ほうれん草のおひたしか」
そうつぶやいた荒尾の様子は、とても穏やかだった。都会の営業マンの顔ではなく、もっと穏やかで何かを懐かしんでいるような、思い出深い表情なのだ。
「食べたいんですか?」
「そうだな」
「そうだなって……」
「できないのか?」
「で、できますけど!」
「じゃあ、頼む」
その言い方は、荒尾が相手に対して期待している時。それを純子は思い出した。会社にいた時、資料集めや細々したことを手伝う時、彼はいつもそう言っていたのだ。でも、それは誰にでもではない。何人かの、本当に期待している人にだけ。期待している時だけ。だから、その後の結果が悪いと荒尾のお怒りは絶好調になる。
かつてのことを思い出しながら、純子はほうれん草がカゴに入っていくのを見た。ほうれん草のおひたしなんて、茹でてちょっと味をつければいいだけのこと。簡単な作業であるはずなのに、荒尾にとっては難しいことなのか。だが男性だから、そういうことには疎いのかもしれない。色々なことを考えながら、純子は荒尾と一緒にレジに並んだ。
帰りの車の中も、行きと同じようにおばちゃんがよく話をしてくれた。実質、純子が口を開いたのは相槌を打った時くらいで、他には特に何も言っていない。でも、荒尾はおばちゃんとの会話を続けていたし、おばちゃんも楽しそうだ。確か、都会に息子さんがいるっていう話もしていたので、そういう意味でも荒尾との関係は作りやすかったのかもしれなかった。荒尾はおばちゃんの荷物まで運ぶ紳士さを発揮させ、まさに営業マンの鑑。こんな人から営業をされたら、即日契約してしまいたくなる気持ちも分からなくはない。
おばちゃんが帰宅し、純子と2人きりになった荒尾は、純子に向かって話をした。
「母は専業主婦で」
「は、はあ……」
「俺が小学生くらいの時に、仕事に出始めたんだ。理由はよく分からなかったが、今思えば家計のためではなく、自分のためだったんじゃないかと思うことがある。父も営業マンで、家も建てていたし、多くを苦労するような感じではなかったんだ」
「えっと……」
「すまない、変な話をしたな。その時、俺の面倒をよく見てくれたのが祖母だった。母方の祖母だったから、母も言いやすかったんだろう。俺は祖母に初めて食べさせられたのが、ほうれん草のおひたしだったんだ」
彼にも幼い頃があったのか―――純子はそんな当たり前さえ忘れてしまうくらい、荒尾のことを知らなかった。