荒尾は一番端の部屋を選んだ。仕事をすることもあるから、という理由で選んだらしい。純子にしてみれば、一番遠い部屋を選んでもらえたのでよかった、と思ったところである。
純子の作ったシチューを文句も言わずに食べた荒尾は、それこそ男らしいいい食べっぷりだった。しっかりとした量を準備していたのだが、これでは明日の朝で終わりだな、と純子が感じたくらいである。致し方ない、お客様だ。料金もいただいたのだから、食事を出さないわけにはいかなかった。しかし急なお客様だから、食材の限界も見えている。どうしようか、と思っていたが、今回ばかりは本当にあり合わせで申し訳ないが、出さないよりマシというものを選ぶ。
朝になって、純子はシチューに水と牛乳を追加して、味を調えた。昨晩食べた時よりもサラッとした様子になったところで、焦げないようにしっかりと混ぜる。ここで焦げてしまうと、食べるに支障はないのだが見た目が悪い。真っ白なシチューの表面に、焦げが浮いて来てしまうからだ。そうならないように、ここは慎重な作業となる。
その後、トーストを焼いた。純子はトースターを持っていない。あれば便利だと分かっているが、母が愛用していたオーブンとレンジがあるので、トースターの置き場がないわけなのである。こうなると、トーストはどうやって食べるのか?と純子は母に疑問を投げかけたことがあった。どこのカフェに行っても、トースターとレンジがあると便利そうだ、と都会に住んでいた頃は思っていたのである。
しかし母は笑って、フライパンがあるじゃない、と言った。フライパン、とその時は首を傾げたが、これを知ってからのトーストは今まで食べていたトーストとは段違いに美味しくなっている。
「えーっと、トーストを焼いて」
純子はトーストを焼く前にバターをフライパンに落とした。いい具合に溶けたところで、普通に食パンを入れる。時々様子を見て、焦げないように確認。そろそろ、というところで一度皿に引き上げて、今度はフライパンにチーズを置いた。昨晩も登場したフィルムに挟まれたスライスチーズ。フライパンに投下されたチーズは、ゆっくりと溶け、その頃合いで食パンの焼けていない面を落とす。
ここであまり触ったり、動かしたりするとチーズがはがれてしまうので、しばしの我慢。純子は慎重にパンの様子をうかがい、丁寧に確認するとチーズはパンにしっかりと張り付いて、いい色に焼けていた。
このトーストを教えてくれたのは母である。母はパンが大好きで、よく食べていたし、時々作ることもあった。そんな母のおすすめのトーストがこれだったのである。初めて食べた時の感動は、忘れられない。
そこへ、簡単なスクランブルエッグと焼いたソーセージを添える。シチュースープを出してしまうのは申し訳ないが、急な来客だから仕方ない。
テーブルに朝食を並べた頃、荒尾は部屋から出てきた。すると開口一番、彼は純子を見て言った。
「コーヒーはあるか?」
「ありますけど、朝食は」
「朝は食べない」
「え!三食付きって言ったじゃないですか!」
「料金は取ってくれ。朝を食べると、仕事に支障が出るんだ」
「元気が出ませんよ」
「いや、俺は眠くなるんだよ」
そんなに食べるのか?と純子は思う。確かに荒尾の食事量は、昨晩見ていてもなかなか多かった。その調子で三食食べていれば、眠くなるどころではないだろう。今のところ太っている様子もないので、自分で調整しているのか。
確か、飲みの誘いも基本的には上司から誘われない限りは行かないクールなタイプ、と聞いていた。あまりアルコールも強くないのかな、と純子は勝手な想像をしながら、コーヒーを差し出す。
「あの」
「なんだ」
「私は食べていいですか?」
「ああ」
「あの」
「なんだ」
「食べにくいんですけど……」
「ん、ああ、悪い。コーヒーを飲んだら……チーズトーストなのか?」
皿に乗ったチーズトーストを見て、荒尾の目が一瞬輝いた。まるで子どものような一面を見て、純子はどうしたのか、と思う。庶民的なトーストの種類だとでも思ったのだろうか。まあそれは仕方ない。実際、チーズもパンも美味しいけれど、安価なものを選んでいる。
「嫌いですか?」
「いや」
「じゃあ、どうぞ」
「そうだな……懐かしくて」
「懐かしい?」
「実家の母がチーズトーストをよく作っていたんだ。すぐにできるからな」
時短レシピいいじゃないか。純子はそう思いながら、荒尾の過去を少しだけ聞くことができて、ホッとできた。何もしゃべらないのも恐いし、会社の頃のように鬼上司だったらもっと恐い。それなら、昔の話でも聞けた方が、心は穏やかになれる。
荒尾がチーズトーストに手を伸ばし、食パンを半分に割って食べた。サクッと音がして、純子は安心する。トーストはサクサクだから美味しい。焼きたてだから美味しいのだ。それを味わってほしかった。
「美味い」
「よかった」
「よかった?か」
「はい、美味しいものを美味しいと感じられるのって、幸せじゃないですか!」
純子はニコニコ笑って、荒尾を見る。彼はそうだな、と少しだけ表情を緩めてくれた。こんな顔もできるんだな、と思うと、やっぱり安心できる。今まで彼に対して緊張することばかりだった。そんな思い出しかなかった。だから、それを考えると今はこれくらいのことでも、安心できる。
「すみません、スープはシチューのリメイクで」
「いや、昨日も美味かったからな」
「残しちゃうと勿体ないので。このあたりは、買い物に出るのもちょっと時間がかかっちゃいますし」
「お前が1人で買い出しに出ているのか?」
「ニャーは連れていけませんから」
ポンッと音がするような軽快さで純子は返す。そして空いた間。その間を感じ取って、自分の返事がおかしかったことに気づく。
「猫の話はしてないぞ」
「え、あーえーっと、基本は1人で、たまに近所のおばちゃんと行きます」
「親戚なのか?」
「いえいえ、お世話になっているってだけです。ご夫婦なので、たまに3人ってことも」
「業者に頼むことはできないのか?」
ビジネスマンの言葉に、純子は苦笑する。この地域は配送外地域なのだ。もちろん郵便やネット通販などは届くのだが、食材を卸してくれるような業者は来ない。そうは言っても、自分で見て買い物をしたいタイプの純子は週に何度か、近所のおばちゃんを誘って買い出しに出るのも楽しみだった。
「えーっと、業者さんは来れない地域でして」
「ああ、そうか。それなら厳しいな」
「いえ、でも、私は自分で食材を見たいと言いますか……安い野菜とかは、直に買った方がいいので」
道の駅などに顔を出すと、スーパーよりも安い値段をよく見かける。同じ値段でも、サイズが違ったりするのでやはりお得なのだ。そして生産者も分かっているので安心できる。
「考えているんだな」
「いや~、教えていただいたって感じです。私もここの生活にはまだまだ慣れていませんし、近所のおばちゃんやおじちゃんが親切なので、やっていけていると言いますか」
「そうか」
都会では想像できない生活だろうな、と思う。会社に毎日通って、残業も営業も当たり前。小さなミスを怒鳴られたり、商談が失敗すれば反省会。荒尾の資料作りを手伝っていた過去から、都会のビジネスマンの厳しさは分かっているつもりだ。
「なら、今日は俺がついて行こう」
え?と純子は目を丸くした。今、自分は都会の厳しさを思い出している回想シーンだったはず。それなのに、目の前の男はまったく違う返事をしてきた。
「俺がいれば、多少は重たい物も買い溜めできるだろう。近所のおばさんとやらに、連絡してこい」
連絡してこいって……。
でも、確かに男手が増えるのは嬉しいなーと現金なことを思ってしまう純子もいるのだった。