こんな時間に誰?何者だ?と純子は首を傾げる。営業時間はすでに過ぎているし、今日はペンションに泊まり客もいない。この建物の中には自分とニャーしかいないのだ。つまり、時間外の来客に対応すべきかどうか、選択しなければいけないのか?と考えた時に、ふと考えたのは、きっとこれは近所のおばちゃんだ、と楽観的に思うこと。
おばちゃんの用事は何かな、と思いながら玄関に向かって行く。せっかくのシチューが冷めてしまわないように、手早く来客の対応を済ませてしまおう、と思う。足取りは重かったが、とにかく早くご飯にしたい。シチューが待っているのに。
玄関の方からは、まだドンドンとドアを叩く音が続いている。その音を聞きながら、純子はこれは近所のおばちゃん、近所のおばちゃん、と自分に言い聞かせる。この先に誰がいたとしても、今は分からない。シュレディンガーの猫状態。いやいや、ニャーは今でも暖炉の前でゴロゴロしている。ゴロゴロしながら、来客のことなんか気にもしていないのだ。だから、自分だけが怯えたって何にもならない。
ドアを開いた時、そこにいたのは懐かしい顔だった。営業部の荒尾和弘の顔が、そこにある。どうして、と思ったが言葉は出て来なかった。荒尾は純子を見ると、すぐに口を開く。
「営業時間は終わっているのか……」
「あ、はい、でもまあ、どうぞ」
「すまない」
すまない、と初めて彼から言われた。今まで営業部の中では鬼のように怒っていることしかなかったのに、こんな田舎の、こんな夜更けにすまない。何が起こったのか純子は理解できなかったが、彼を招いてしまったのだから仕方がない。とりあえずこの寒い中来てくれたのだから、温まってから帰ってもらおう。対応は他のお客様と同じだ。
「あの、何か」
「何があるんだ?」
カフェの席に座って、荒尾は純子に尋ねてきた。彼は少し頬を赤くしていて、外の寒さが伝わってくる。寒さ、どころの話ではない。彼はスーツに薄手のコート、ビジネスバッグだ。まるで出張にでも出たかのような、通常のビジネスマンスタイル。きっと近くに出張に来たから足を延ばしただけだ―――と純子は自分に言い聞かせて、納得させた。彼がどうしてここに来たのかなんて、純子には理解できないから、そんなことを考えるくらいならコーヒー1杯飲んでもらえればいいだろう。
「コーヒーなら」
「では、それで」
「はい」
それ以上の会話がない。会話が続かない。かつて会社で働いていた時と同じだ。彼に何か言うことで、また難しいことを考えるのが嫌だな、と思ってしまった。温かいコーヒーを飲んでもらえたら、それで帰ってもらおう。そもそも営業時間は過ぎている。それを強めに主張して、帰ってもらったら、自分のシチューを温め直して食べるのだ。
慣れた手つきで純子は1杯のコーヒーを淹れる。両親が気に入っていた豆を、純子はそのまま仕入れていた。だから詳しいことなんて知らないし、どう淹れたって大して変化はないと思ったのだ。湯気の立ちのぼるコーヒーを見て、荒尾はすぐに口に運んだ。そして。
「……せっかくの豆が台無しだな」
「へ!?」
「コーヒーの美味い淹れ方を知らないのか?」
「えっと、その、私、コーヒーはあまり得意ではなくて」
「……お前、会社でも同じことを言っていたな」
そんなこと言ったことがあっただろうか。純子はそう言われて、記憶をたどるが何も思い出せない。そこにあるのは、厳しく指導されたり、作ったり集めた資料にダメ出しされたことばかり。
「コーヒーも生き物だぞ。美味い淹れ方をしてやれば、至高の1杯になる」
「至高の1杯」
なんだそれ。純子はきっとそんな顔をしていたのだろう。荒尾の目が彼女をジロリと見ている。至高の1杯なんて分かるわけがないじゃないか、と純子は思う。コーヒーは豆を挽いたって、インスタントで手軽に淹れたって、変わらない。そう思う。
「お前、本当にカフェをやれているのか?」
「え、あ、はい、まあ……そこそこは」
「そうか。まあそれならいいんだが」
何がいいんだ?もう会社を離れてしまった間柄だというのに、どうして彼はこんな風に自分に話しかけるのか。そもそも、何が目的でここにやってきたというのか。純子の頭の中は混乱している。
「ちなみに」
はい、と返事をする前に荒尾は話を続けてしまった。まさに間髪入れず、とはこのことか。
「長期滞在はできるのか、今日からだ」
「え!?」
「前金か、それとも日数に合わせて後払いか……」
「え!?」
「有休を消化しにきたんだ。たまには田舎で過ごすのもいいと思ってな。有休の消化を会社から指示されたから、いっそのこと長期休暇を申請した」
長期宿泊のお客様。この閑古鳥とまではいかないけれど、寂しいペンションに長期で泊まってくれるお客様なんて、滅多にいない。だから荒尾の提案はとても嬉しいものだ。ぜひともお願いしたい、と思ったが純子は考えた。本当に有休消化だけのために、ここに来たのか?本当は退職した会社のスパイなんじゃないのか?色々と考えたが、答えは出ない。シュレディンガーの猫はまだここに健在だ。
「なんだ、長期宿泊は難しいのか?」
「い、いえ、その、長期とはどれほどの期間でしょうか……」
「そうだな。まずは2週間程度を」
「2週間!?」
そんなのお得意様でもなかなか泊ってくれない期間じゃないか!純子はこのペンションの経営を考えれば、荒尾は逃せないお客様だと思う。理由はあるかもしれないし、目的も何かあるのかも。でも泊まってくれるなら、いいのでは?支払いの話もしてくれているし、払わない、払えない、ということはなさそうだ。
「そ、そんなに長く……いいんですか?」
「いい、というか、有休消化だからな。気になる仕事は持ってきたが、それは一部だけにしている」
「うわ、仕事の鬼……」
「なんだ?」
ジロリ、と睨まれる。有休消化中は仕事をしてはいけないのでは?と純子は思ったが、荒尾の仕事量やスピードは普通じゃない。あれは仕事をしていないと心臓が止まってしまうように産まれてきたに違いない、と思っていた。だから今でもそうなのだろう。
「Wi-Fiはありますけど」
「持ってきた」
「うわ、さすが……」
「出先に迷惑はかけられないからな」
それくらいで迷惑と思うようなことはないけれど、と純子は思ったのだが、荒尾は自分のするべきことをスムーズにこなすために必要なものはすべて準備してきているようだった。
「それで、2週間泊まれるのか?」
「あ、はい……」
「はっきりしない声だな」
「はい、大丈夫です!こちらにご住所とご署名をいただけますか?」
もう同じ職場じゃないのに。でもないからこそ、お客様相手にはっきりとした返事はしなければいけないな、と純子は思う。そういう彼の姿勢は見習う部分だ。純子は宿泊台帳を広げ、荒尾が書いている横で、宿泊費の計算をした。
「お支払いは」
「可能ならば先払いで2週間分を頼む」
「分かりました」
荒尾はおつりもなく、しっかりと現金で支払いを済ませた。荷物は少ないが、男性の泊りとはそんなものなのだろうか。ある程度の準備はあるが、何事もないといいな、と純子は思う。彼に怒られるのは嫌だったし、それがお客様となれば、ペンションの信用にも関わる。そんなことを考えていた時、純子の腹が鳴った。腹が減って、仕方がない。まだシチューを食べていなかったからだ。荒尾にもその音はしっかり聞こえていたようで、苦笑される。
「あの、本日のディナーは野菜たっぷりシチューなのですが」
「そうか。いただこう」
「……承知しました」
まさか、彼に自分の手料理を振舞う日がくるなんて。
純子は少しだけ気恥ずかしいような気持ちを感じつつ、シチューの鍋を温め直した。