あたたかいシチューを食べたい夜もある。
別にシチューが冷たい、というわけではないのだけれど。言葉として、まあ、あたたかいシチューと言うと美味しそうな響きだと誰も感じると言ったところ。きれいな色をしたニンジンやブロッコリーなどが浮かんでいて、トロリとしたスープはパンでご飯でもどちらでも美味しくイケる。薄すぎず、濃すぎず、そのちょうどいい好みのところをいけば、本当に美味しくできるのだ。
大学卒業をきっかけに、純子は都会のまずまず悪くない会社へ就職した。世にいうオフィスレディである。最初こそオフィス街を颯爽と歩く、キャリアウーマンを想像していたが、実際はまったく違っていた。頼まれる仕事はパソコンの入力か、資料集めか。女子がお茶を淹れるとセクハラ、という風潮があったのでお茶淹れ係は免れたが、何かと女子力が低いと嫌味を言われる。特につらいのはお局からの、ボディーブロー並みの嫌味だ。ちょっと有休でも取ろうものなら、なんで休むの、どこに行くの、誰となの―――挙句の果てにはお土産をご指定だ。なんてヤツ!と何度も思ったが、言い返せるほど純子は強くなかったのである。
純子は大学を卒業すると同時に、管理栄養士の資格を取得していた。周囲は病院や介護施設、中には企業の大きな社員食堂、いい会社の管理栄養部などに就職を決めていくが、純子はなかなか決まらない。だから、藁をもすがる気持ちでやっと見つけた会社に入社。でも半年でガタガタだった。 お局を中心とする女性陣の嫌味や、地味な嫌がらせ、陰口。営業部の男性陣はいつも慌ただしくて、資料がそろっていないと怒鳴ってくる。同期は彼氏を作ってさっさと寿退社。最後まで会議の資料1つまともにコピーできない子だった。変な話だが、仕事のできない人から先に結婚していくのはなんでだろうか、と思う。
そんな純子は、両親の他界をきっかけにこのペンション兼カフェを引き継ぐことになった。
祖父母の代で、ここに土地を買って建物を建てている。普通に建ててはつまらない、という祖父のわがままから、ペンション風に建てられた住まい。祖父母が亡くなり、両親も定年を迎えたので本格的にペンションをしてみようか、となったのが流れである。特にペンションとカフェを併設させ、カフェだけのお客もアリにしよう、と言い出したのは母だった。コーヒーや紅茶が大好きな母は、もともとそういった関係の仕事をしていたが、定年してからはのんびりおばさんだった。仕事をしていたせいで、純子を産んだのは高齢出産。生きるか死ぬかを、産まれた時から純子は味わっていたのだが、記憶にないので知らないことにした。 父は父で、料理を出すだの、山に行くだの、さまざまな夢を持っていた。わずかではあったが貯金もあって、無理をしなければなんとかやっていける―――それを自慢していた矢先、両親は事故に遭って他界。純子に残されたのは、この田舎にあるペンション兼カフェと、愛猫のニャーだった。
両親を失ったことはとてつもないショックだったし、残されたのがこのペンション兼カフェとニャーだったことにもショックだった。
ただの田舎の、素人が作ったペンション。こんなところが流行るはずもない。そう思って純子はどうすべきか迷いに迷ったが、ふと我に返る。この場所を手放してしまったら、祖父母だけでなく、両親との思い出もなくなってしまうのだ。何もかもを失ってしまう―――それは都会の荒波に揉まれて、毎日の生活に追われていた純子にとって、とても哀しいことだった。
だから、やれるだけやってみよう、と一念発起する。会社を退職し、その足でこのペンションへ移り住んだ。両親の思い出が色濃く残るこの場所で、純子は再出発を切ったのである―――しかし。
世の中そんなに甘くはなくて、なかなかお客はやってこない。閑古鳥はまだ鳴いていないけれど、もう少し連泊してもらえたら、もう少し人数が増えていただけたら、と思ってしまうのも事実だ。寒い季節に入ると、雪など天候に左右されて客足は遠のく。カフェの方はまずまずの繁盛で、若い女性でもこういった田舎のカフェが好きな人がよく来てくれた。でも、泊りとなればなかなかの結果だ。
一度雪が降ったり、吹雪になってしまえば、移動が難しくなる。そんな場所に泊まって、のんびりできるような人は、今の日本にはなかなかいないのだろう。稀にそれが好きだから、と長期で休みを取ってやってくる人もいるが、多くはない。中には定年退職した夫婦が記念に、とやってきてくれることもあったが、多くはいなかった。
でも、そんなことを嘆いてばかりはいられない。マイペースに、でも確実に前に進もう。暖炉の前でゴロゴロしているニャーに向かって、純子は意気込みを毎日伝えているのだった。
そして今日も、話し相手が少ないのでニャーに向かって話をする。
「今日はシチューにしようね、ニャー」
返事はないが、猫の目がジロリと純子を見た。純子はそんなニャーに笑いかける。
「ニャーはいつものごはんでーす」
それにも返事はなかったが、猫の視線は遠くへ去った。
夏場ならば庭にたくさんの野菜が実るので、その中から選んで食べていくことができたが、今は寒い。寒い季節は買い物に出るのも億劫だし、多めにシチューを作って、保存しておこうかとまで、純子は思っている。明日も明後日もシチューでいいな、とちょっとズボラな性格が見えてしまうけれど、それでもいいのだ。食べられるなら。
都会に住んでいた頃は、食べると言えばコンビニや外食ばかり。朝は忙しいからコンビニのサンドイッチにインスタントコーヒーが定番で、それがたまにおにぎりに変わったり、パンに変わったりするだけ。美味しいは美味しいのだけれど、物足りなく感じてしまうのも事実。気づけば今度は昼になって、外食に出たり、コンビニのお弁当だったり、カップラーメンだったり。管理栄養士の知識や資格はどこへやら。気づけば毎日そんな生活だった。
だから、体調も悪いし、出るものも出ない。そこへアルコールも入れば、甘い物も大量に入ってくる。そんな都会の生活は、何もかもが滅茶苦茶だったのかもしれない、と田舎での生活に慣れ始めた純子は思う。
毎日、朝はしっかりと起きれるようになったし、夜も特別な理由がなければグッスリ眠れる。ニャーと散歩と称して、庭の手入れから畑の手入れもしていた。山に入ると危険だから、と言われているのでそちらは除いて、周辺を軽く散歩するのも楽しかった。
そして、何よりも料理。
管理栄養士の腕が鳴る―――と言っても、最初はミスばかり。久しぶりの調理は、火加減から調味料の合わせ、配分など、失敗続きでガッカリすることもあった。しかし母の残してくれたレシピを見たり、今は便利なスマホ様がいる。
分からないことはすぐに調べて、すぐに解決だ。学生時代のように、怯えながら先生に質問することもない。だから、とても楽で楽しくて、失敗したって次が上手にできればいいかーと、明るく思えた。
「よーし、今日のシチューにはとっておきを入れるぞ!」
純子はそう言って、冷蔵庫の下段、冷凍庫を開け始めた。