美術室での事件で先に帰った倉田はともかく、その後に戻った摩耶は当然ながら学生寮の寮監からきついお叱りを受けた。
「すみません……次から門限には気をつけます」
「……本当に頼むわね比良坂さん。次破ったら寮から閉め出すから。じゃ、おやすみなさい」
寮監はそう言うと自室に足早に去っていった。廊下に残された摩耶も寮監が見えなくなると自室に向かった。
「……ただいま」
「あ、おかえりなさい。どうでした病葉先生」
同室の倉田がいつものように摩耶を出迎えた。
「うん、甘崎先生が手当してくれてるから大丈夫だと思う、けど……」
「けど?それに手当って、病葉先生どうかしたんですか」
「と…………溶けちゃったの。私の目の前で」
「え?」
ふるふると小刻みに噛みしめた摩耶の唇が震え、両目から涙があふれだす。倉田は疑問の表情のままどう声をかけようか迷う。
「比良坂さん……その、大丈夫ですよ。甘崎先生ならきっと治せますって」
「ムリだよ……だって、あんなにドロドロに溶けて、骨だけになったら……もう治らない、無理だよう」
子どものように泣く摩耶の様子からただならぬものを感じた倉田は黙るしかなかった。先に帰るなどとあの時言わずに一緒にいてあげればよかったと今になって後悔した。
*
「……お待たせ。とりあえずこのくらいあれば足りるかな」
香森が両手に瓶で一杯になった袋を下げて戻ってきた。バスタブに先に入っていたローブを脱いだ病葉を見つけるとどさり、と床に袋を置く。細身の彼が持つにはかなりの重量だ。
『こんな数の瓶、1人でよく持ってこれましたね。
「やだなあ、吸血鬼なんて呼び方。そりゃ確かに人間より力はずっと強いけどさ。本当にそれだけだよ?」
香森は一瞬身をかたくしたが何事もなかったかのように袋から血液を集めた瓶を次々に取り出し、病葉がない膝をかかえて座っているバスタブの中へ中身を開けてゆく。
血液の鉄臭い匂いが嫌でも鼻に届くが、こうなれば多少は我慢するしかない。
「ひとまずこのくらいの量でやってみようか。甘崎先生は呼んであるんだろう?」
病葉の膝上くらいまで満たされたバスタブの中の血液を見ながら香森が聞いてくる。
『ご心配なく。すぐに来てくれるそうです』
病葉が次の言葉を続けようとしたタイミングで学園長室の奥の部屋のドアが勢いよく開いた。
「……来たわよ。まさか今夜やるなんて思わなかったわ。こういうのって準備に時間かかるから前もって伝えてくださると助かるんだけど病葉先生」
元の姿になった甘崎は明らかにいらついた様子で、歩みよったバスタブ内の病葉を鋭く睨んでいる。そばにしゃがんでいる香森のことはまったく目に入ってないらしい。
「あのう……甘崎先生。今夜決行しようって言い出したのは病葉先生じゃなくて私なんですが……」
「すみません学園長はちょっと黙っててくださいます?私は病葉先生に聞いてるので」
甘崎に厳しい口調で話をさえぎられてしまった香森はみるみるうちにしゅん……とした様子になり、バスタブの陰に小さくちぢこまる。病葉はその様子を見て『甘崎先生ったら、ほら学園長怯えてますよ』と言うと甘崎は「あらそう」と不機嫌な態度を隠さないまま話を続ける。
「それで、このバスタブの中の血液だけで溶けた肉体を再生させようなんて本気なの?これ、成人男性にしては少ないと思うんだけど」
『だから先生をお呼びしたんですよ。学園長が集めた大切な血液ストックを全部使い切るわけにはいきませんから』
病葉がそう返すと甘崎は「病葉先生、またなんですか」と呆れた。
「私を頼らないでなんとかすることを覚えてくださると、こちらとしても大変助かるんですけど……。はあ。学園長、これあとどのくらい残ってるんですか」
「ええっとね。今出してきたので半分くらいかな。今週はあまり血が集まらなくってね」
甘崎に尋ねられた香森は頭の中で部屋の貯蔵庫の中の瓶の数を数えてみる。たまに飲むくらいなら足りる量だろう。
「でしたら……今あるこれを増やしたほうが良さそうですね。じゃあ病葉先生、動かないでじっとしててくださいね」
『ええ、お願いします』
甘崎はバスタブの中に入った血液に白衣の胸ポケットから取り出した緑色の小瓶を開け、中身のラベンダー色の粉をふりかける。しばらく待つとあきらかに量が増えだした。
「あ、凄い。あっという間に半分くらい増えてる。甘崎先生それ、凄いですね……!」
バスタブの中をのぞきこんだ香森がひどく感心したように言うと甘崎は「こんなの大したことありませんよ」と少し照れくさそうに返した。血液は今、病葉の首のあたりまで来ていた。ちょっと頭を下げれば全身が浸かるだろう。
「そろそろいいんじゃないですか病葉先生」
『ええ。これで上手くいくといいんですけど……』
病葉は甘崎の声にうなずきじゃぼっ、と音をたてて増えた分の血液の中に潜る。そこへ再び甘崎が違う色の小瓶を出して白い粉をふりかけた。
「後は……病葉先生次第ですね」
「溶けてしまった肉体が戻るまでどのくらいかかるんですか?」
「戻すものによりますけど、大体1週間くらいかかります。でも病葉先生は状況が特殊ですからおそらく……もっとかかるでしょうし、皮膚や筋肉はともかく内臓の再生は無理だと思います」
甘崎がそう言うと香森は「ああ、人間の内臓って構造が複雑ですからねえ」と納得してうなずいた。
「……それじゃ、私は保健室のほうの仕事に戻ります。あとはよろしくお願いしますね学園長。何かあれば連絡してください」
「分かりました。今夜はここで一晩様子を見ながら過ごすつもりです。ありがとうございました甘崎先生」
香森が頭を下げると甘崎は学園長室に戻りかけて何か思い出したように「学園長、まだ残ってるのでよかったら使ってください」と白衣からさっきバスタブの中へふりかけていたラベンダー色の粉が入った緑色の小瓶を香森に手渡した。
「ほんのちょっとふりかけるだけで効きますから。ただ、かけすぎには注意してください」
「え、いいんですか。これ貴重な魔法薬でしょう」
「今夜のお手伝いをしてくださった私からのお礼です。受け取ってください」
甘崎は背の高い香森を見上げ、そう言った後にじっと香森の両目を見つめた。
「…………綺麗な赤」
「え?」
香森が甘崎のぽつりとしたつぶやきに困惑する。色白の両手で顔を包みこまれ、甘崎が顔をよせてくる。ショートカットにした銀髪が香森の頬に触れる。
「か……甘崎先生。顔が、顔が近いです……」
「あ、ああ。すみません私ったらつい。学園長の瞳の色があんまりにも綺麗だったので。それ生まれつきなんですか」
はっと我に帰った甘崎は香森からあわてて離れる。突然のことに香森はしばらく放心していたが「ええ」とだけ答えた。
「私の目の色を綺麗だと言ってくださったのは甘崎先生が生まれて初めてですよ……。小さい頃から気味悪がられてばかりでしたから」
「気持ち悪いだなんて、そんな。赤い色の虹彩は自然界じゃ、特に人間にはめったにない珍しい色なんですよ。それに赤は魔除けとしても使いますし」
「ええ。そうですね。ありがとうございます……お休みなさい」
香森は甘崎から小瓶を受け取ると軽く頭を下げる。甘崎は微笑むとひらひらと手をふり、学園長室から出ていった。香森は甘崎が出ていってしまうと病葉が沈んでいるバスタブの前にしゃがみこんで、中をなみなみと満たしている血液を眺める。
(……少しだけなら、いいか)
香森は自分の中の血への渇望、もとい吸血鬼としての本能に従うように水面に顔を近づけて舌で舐める。舌の上に血の味が広がった時にはもう遅かった。両手や着ている服が赤く汚れるのもかまわずに、夢中で口の中へ流しこむ。
「あ……し、しまった!」
だいぶ経ってから香森は我に帰り、バスタブの中を見た。中身が半分ほどに減っている。大きく深呼吸をして乱れた息を整えるが、香森の心臓は「まだ血が足りない」というように胸の中でばくばくと暴れていた。
「わ、病葉先生……すっ、すみません。今すぐに魔法薬を足しますから」
香森は鼓動を少しでも落ち着かせるために胸のあたりを押さえながらバスタブの中に座っている身動きひとつしないローブをまとった病葉に声をかける。
「病葉先生………?だ、大丈夫ですか」
『学園長……見ちゃいましたよ。今の』
病葉が振り返り、ローブのフードをずらす。作りかけて放置した人体標本の彫刻のような筋肉と皮膚がうっすらとだが黒い体中の骨の上に戻ってきていた。顔にも一部が戻ってきていてにやり……と香森のほうを見て怪しく笑った。