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第59話 新章・彼女の微熱は偶然に

 タクシーの車内には、緋崎さんの穏やかな声が響いていた。


 僕は後部座席に座り、窓の外に広がる夜の街をぼんやりと眺めていた。車内は暖房が効いていて心地よい。その一方で、窓の外に広がる冬の夜は凍えるほど冷たく、ビルの窓からこぼれる灯りが、どこか暖かく見える。街灯に照らされた道路を、車が行き交う。ヘッドライトが流れるように過ぎていき、まるで都市の血管を流れる光のようだった。


 隣に座る緋崎さんが、穏やかな声で話し始めた。


 「驚くかもしれないけど、アニメ監督がね、雅さんと葵さんの声をすごく気に入ったのよ。それで、声優として出演してみないかって打診があったの」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


 戸惑いながら、僕は問い返した。


 「え……声優として?」


 「主役とはいかないまでも、何かしらの役で。声もいいし、話題性もあるし、悪くないって」


 雅と葵が声優。想像もしなかったが、二人の声は確かにいい。同級生たちがカラオケで彼女たちの歌声を褒めていたのを思い出し、なるほどと思った。


 「それにね、たまたまその場に幸田昴さんもいて、彼が強く後押ししたのよ」


 幸田昴。


 その名前を聞いた途端、僕の心に微かな警戒心が生まれた。彼は人気俳優で、今回の『二人と一人』の映画にも出演する予定だ。けれど、以前の記者会見で真凛と神楽が、幸田の事務所から圧力をかけられているという話をしていた。そんな彼が、この件に関わっていることが、どうにも引っかかる。


 考え込んでいるうちに、タクシーが目的地に到着した。


 「はじめ先生、着いたわよ」


 緋崎さんの声に、僕はハッとして車を降りた。


 目の前には、高層マンションがそびえ立っていた。


夜空を背にした建物は冷たく、暗いガラスが静かに光を反射している。入口には照明が灯り、モダンなデザインのロビーが見えた。僕たちは自動ドアをくぐり、フロントを横切ってエレベーターへ向かう。


 ボタンを押すと、金属製の扉が静かに開いた。エレベーターの内装は落ち着いたウッド調で、壁面にはフロア表示のデジタルパネルが淡い光を放っていた。緋崎さんが十階のボタンを押しながら、僕はゆっくりと中に入る。扉が閉まり、静かな機械音とともにエレベーターが上昇し始めた。


 「レイランさんとスタッフはもう現場に着いてるって。あとは、先生の入りを待つだけらしいわ」


 緋崎さんの言葉を聞きながら、僕はわずかに緊張した。


 今回、僕がここに来たのは『二人と一人』のキービジュアルを担当するイラストレーター、レイランさんとのコラボ配信のためだ。本当は断るつもりだったけれど、雅や葵が頑張っているのに自分だけ何もしないのもどうかと思い、僕はこの話を受けることにした。


 エレベーターが静かに停止し、扉が開く。  僕たちは廊下を進み、予めレイランさん側で用意されていた、レンタルルームの前に立った。


 「レイランさんにはじめ先生の顔を見せても問題ないわよ。ちゃんとそのための契約書も別途巻いてあるから安心して」


 そう言って、緋崎さんは隣の部屋へ向かおうとする。


 僕は足を止め、緋崎さんの横顔を見ながら尋ねた。


 「一緒に入らないんですか?」


 緋崎さんは軽く息をつき、肩をすくめる。


 「レイランさんの意向なの。スタッフがいると気が散るから、別室で待機してほしいんですって」


 緋崎さんの説明に、僕は納得し、静かに息をついた。


 部屋のドアを開け、「おじゃまします」と挨拶しながら中へ入る。


 すると、奥の方から明るい声が弾けた。


 「はじめ先生ですか!?」


 続いて、どたばたと走る音が響く。

 配線を踏みそうになったのか、「わっ、危ない!」と慌てる声が聞こえた。


 大丈夫かな……。


 気になって暗がりの廊下を進もうとした、そのとき。


 バンッと勢いよくリビングの扉が開いた。


 突如、大きな丸縁眼鏡をかけた女の子が、猛スピードで飛び込んできた。


 「わっ……!」


 避ける間もなく衝突し、僕は尻もちをついてしまった。


 彼女は僕に抱きつく形で倒れ込み、顔を真っ赤にして慌てて起き上がる。


 「ご、ごめんなさい! ずっと……ずっと会いたくて! まさか本当に会えるなんて……!あ~、ヤバっどうしよ~!」


 女の子は息を整えようとするものの、感情が高ぶっているのか、言葉が途切れがちだった。


 目の前の彼女が息を切らしながら僕を見つめ、まるで夢を見ているかのような表情を浮かべていた。その瞳には強い感情が宿っていて、必死に言葉を探しているのが伝わってくる。


 ここまで感情を剥き出しにする姿に、僕は戸惑った。


 同時に、なぜだか分からないが、僕の胸の奥がざわつく感じがした。


 やがて、彼女は震える指で眼鏡を外し、信じられないものを見るように、かすれた声で呟いた。


 「うそ……はじめ先生って、あの啓なの?」


 僕は一瞬、彼女がなぜ僕のことを知っているのか考えた。けれど、すぐに思い出した。


 喫茶店で出会った、あのパパ活少女の名前と顔が鮮明に蘇る。


 「ら、蘭子さん……?」


 驚きと戸惑いの中でその名を呼ぶと、彼女の瞳が潤んだように揺れた。


 部屋の静寂の中、遠くでかすかに夜の風が窓を揺らす音がした。偶然とは思えないこの再会に、胸の奥が静かに波打つのを感じた。

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