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第58話 新章・予感——甘く危うい境界線

 雅と葵は、啓の病室を後にし、一度家に戻った。

両親の許可をもらい、準備を整えた二人は、啓の担当編集者である緋崎美紗に連れられ、アニメ監督の待つ制作会社へと向かうことになった。


『先生の作品をアニメにするにあたって、幼馴染のモデルになったお二人の話を聞きたい』


そう説明した緋崎の言葉に、雅と葵は快く応じた。啓の役に少しでも立てるなら、それは嬉しいことだった。






 制作会社に到着すると、受付を通り、事前に取られていたアポイントを確認してもらう。

案内されたのは、落ち着いた雰囲気の応接間だった。


「監督と少し話があるので、お二人はここで待っていてください」


緋崎がそう言い残し、監督とともに別室へ向かう。

雅と葵は応接間に残され、静かに待つことになった。


二人が応接間で待っていると、扉が開いた。

ゆったりとした足取りで、背の高い男が入ってくる。


「すみません、ここを使う予定があると聞いたんですが……あれ?」


男は立ち止まり、雅と葵に視線を向ける。

端正な顔立ちに整えられた金髪。洗練された雰囲気をまとったその男は、どこかで見たことのある人物だった。


「……いや、驚いたな。こんなところでこんな綺麗な子たちに会えるとは思わなかったよ」


彼は穏やかな笑みを浮かべながら、落ち着いた声で言った。


雅は少し身構えながら、その男を見つめた。「あなたは……?」


「幸田昴。俳優をやっているよ」


葵の目が大きく見開かれ、驚きと興味が入り混じった表情を浮かべる。


「テレビで見たことあります! すごい……本物だ……」


幸田は穏やかに微笑み、余裕のある仕草で軽く頷いた。


「それは光栄だな。直接こうして会うのは初めてだけど、実際の俺はどう? 画面と違うかな?」


葵は少し照れくさそうに笑う。


「いや、思ったより……落ち着いてるかも」


雅はそんなやり取りを冷静に見つめながら、簡潔に答えた。


「私たちも監督に呼ばれました」


「へえ……じゃあ、制作に関わってる?」


「いえ、そういうわけではありません」


葵が続ける。


「私たちは……啓先生の知り合いなんです」


幸田の笑みがわずかに固まる。


「啓先生……?」


雅はその微妙な変化を見逃さなかった。


「なるほど、先生の知り合いってわけか。親しいの?」


「……まあ、それなりに」


雅は短く答えた。


「小さい頃からの幼馴染なんです」


葵がそう言うと、幸田は興味深そうに目を細めた。


「幼馴染か……」


彼の目が一瞬だけ、何かを測るように細まったが、すぐに穏やかな笑みに戻った。


雅の視線が鋭くなる。だが、幸田は何も気づかないふりをし、軽く話題を変えた。


「そういえば、先生の作品に出てくる幼馴染の女の子の一人って、バスケ部のエースだったよね?」


「……そうですね」


雅が短く答える。


「それって、もしかして君?」


幸田は葵を見つめた。


「あ……まあ、そんな感じです」


「へえ……」幸田の目がわずかに細まり、葵の反応をじっと観察する。


葵の頬が少し赤く染まるのを見て、幸田は確信した。


――狙うなら、こっちだ。


「バスケ、強いんでしょ?小説でも小説でも書かれてたけど、啓先生の周りは凄い子ばっかりだな」


「……い、一応エースですから。でも……」


「でも?」


葵は口ごもる。


「……啓先生の周りって、みんな綺麗で可愛くて……バスケだけが取り柄の私なんて、ちょっと浮くかなって」


幸田は少し顎に手を添え、考えるふりをした後、ゆっくりと視線を葵に戻した。


「そんなこと、全然ないよ」


葵の目が大きく見開かれた。思いがけない言葉に、一瞬、息を詰まらせる。


「君は、君のままで十分魅力的だと思うけどな」


彼の声は穏やかで、まるで葵だけに向けられたもののようだった。


「俺も昔から役者をやってるけどさ、華やかな世界にいると、周りと比べられることが多くてさ。正直、プレッシャーはあるよ。でも、どこかで信じてくれる人がいれば、それだけで救われるんだ」


その言葉は、まっすぐに葵の心に届いた。


「君には君の良さがある。それを理解してくれる人は、きっと現れるよ」


葵の胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。自分をこんなふうに肯定してくれる言葉を聞いたのは、いつぶりだろう。


「あ……ありがとう……ございます」


声が少し震えてしまうのが分かった。


雅はそんな葵の横顔をじっと見つめていた。微かに眉を寄せながら、静かに幸田の表情を探る。


幸田は微笑みを保ったまま、ふと葵の視線をじっくりと見つめる。その目には、どこか計算されたような光が宿っていた。


雅の指先がわずかに強ばる。胸の奥に広がる違和感が、静かに警鐘を鳴らしていた。


あどけなく笑う葵の姿に、かつて自分が味わった、出口の見えない迷路のような不安が重なる。


どうしようもなく絡みつくような、あの息苦しさを思い出していた。

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