病院の廊下は白く静まり返っていた。無機質な蛍光灯が薄く光を落とし、足元を照らしている。自動販売機の前に立つ響子は、小さな音を立てて缶コーヒーを取り出し、指先で冷たさを確かめた後、静かにプルタブを引いた。
一口、苦味のある液体を喉に流し込む。ほのかに漂う微糖の甘さが、乾いた気持ちをわずかに癒してくれる気がした。
その時、遠くから足音が響く。淡々とした歩調。白衣の衣擦れが静寂の中に微かに混じる。
ふと顔を上げると、向こうから歩いてくる男が目に入った。研修医のプレートを胸に下げた天音瑞樹。
——雅に紹介された男。
響子はゆっくりと彼に視線を向けた。
瑞樹もまた、こちらの視線に気付いたのか、数歩手前で立ち止まる。そして、僅かに目を細め、微笑を浮かべた。
「どうも、瑞樹さん……でしたっけ?」
響子の声は低く、どこか探るような響きを帯びていた。
「……僕のことをご存じ……」
瑞樹は言いかけ、何かに気づいたように口元を緩めた。
「ああ、以前雅ちゃんをタクシーで送ってくれた方ですね?」
にこやかに言う瑞樹。しかし、その微笑みの奥に漂う違和感を、響子は逃さなかった。
「相沢啓の姉の響子です……弟がお世話になっています」
形式的に頭を下げる響子。その仕草は礼儀正しくも、どこか冷ややかだった。
「お世話だなんて、とんでもない。良かったですね、啓くん、今日退院が決まって」
「ええ、おかげさまで……それより、先生……」
「そんな、先生だなんて。僕はただの研修医ですよ」
瑞樹が軽く肩を竦める。しかし、響子の表情は変わらない。視線は鋭く、静かな圧を孕んでいた。
「失礼ですが……雅さんの家でお会いする以前に、どこかでお会いしませんでしたか?」
その問いに、瑞樹の眉が微かに動いた。ほんの一瞬。だが、それは響子にとって十分すぎるほどの反応だった。
「ああ……啓くんとは何度か雅ちゃんの家で会ったことがありますよ。たまに挨拶を交わす程度でしたけどね。もしかして、お姉さんが啓くんと一緒にいた時に、顔を合わせたことがあったのかもしれませんね」
瑞樹は軽く笑いながら言う。その態度はごく自然で、取り繕う素振りもない。しかし、響子の目は彼を捉えたまま、微動だにしなかった。
「いえ……よく、あの辺りをうろついていませんでしたか?」
静かに問いかける。その声はどこか冷たく、疑念が滲んでいた。
瑞樹の笑顔が、一瞬だけ僅かに揺らぐ。
「さあ、どうでしょう……そんなに頻繁に雅ちゃんの家に行ってはいませんでしたし、失礼ですが、誰かと勘違いされているのでは?」
瑞樹は問い返す。しかし、その目は相変わらず柔らかい光を湛えたままだ。
響子は息をひとつ吐くと、静かに言った。
「記憶力はいい方なんですよ……私」
二人の間に張り詰めた空気が広がる。
白い病院の廊下が、まるで別の空間のように感じられた。音が遠のき、時間の流れが遅くなったような錯覚に陥る。
均衡を破ったのは瑞樹だった。
「あ、いけない。先生に呼ばれているんだった。遅れると嫌味が凄いんですようちの先生」
そう言うと、少し慌てたように時計を見やる。
「すみません、啓くんのお姉さん。お話はまた今度、時間があるときにでも。それでは失礼します」
最後まで表情を崩さず、にこやかなままの瑞樹。
彼は響子に一瞥をくれると、悠然とした足取りで去っていった。
その背中を響子はじっと見つめた。
そして、手に持っていた缶コーヒーを片手で握りつぶし、ゴミ箱へ投げ入れる。
小さな音を立てて、缶が中に沈んだ。
響子は踵を返し、低く呟いた。
「啓と一緒に雅の家なんて、行ったことないんだけどな……」
しかし、すぐに首を振る。
「……まさか」
その言葉が、寒々しく病院の空気に溶けていった。
確証がない言葉に蓋をするように、響子は沈黙のまま、啓の病室へと歩き出した——。