アニメ化の報せを伝えにきた緋崎さんが、唖然としたまま固まっている僕に向かって、鞄から資料を取り出し、そっと手渡してきた。
「これがプロジェクトの資料ね。時間がある時にでも目を通してもらえると助かるわ」
彼女は落ち着いた声でそう言いながら、僕の手に厚めのファイルを押しつける。
僕はそれをぎこちなく受け取りながら、未だに信じられないという思いを抱えたまま、曖昧に頷いた。
「は、はい」
自分の声がわずかに上ずっていた。そんな僕の反応を見て、緋崎さんが微かに笑みを浮かべる。しかし、そのまま続けた彼女の表情は、少し困ったようなものへと変わっていた。
「でね、ここからがちょっと問題なのよ」
眉間に皺を寄せながら言う緋崎さん。その様子に、嫌な予感が胸をよぎる。
「……というと?」
僕が恐る恐る聞き返すと、緋崎さんは小さく息を吐いた。
「実はね、アニメ化にあたって監督さんから打診があって……ほら、『二人と一人』って原作者の実話をもとにした作品ってことで、世間でも注目されてるでしょ? それで、その監督さんが、できれば一度、モデルとなった幼馴染に会ってみたいって言い出したのよ。できれば忠実に再現したいとかで……」
「えっ?」
僕は困惑のあまり、言葉を失った。
「もちろん、無理は承知よ。そんなことをすれば、はじめ先生の事とかバレちゃうし、それに、その幼馴染さんたちがいい返事をくれるかどうかも分からないし……」
緋崎さんが慎重に言葉を選んでいるのがわかる。だが、彼女がそこまで言いかけたところで、雅が不意に口を開いた。
「私なら全然かまいませんけど?」
「私も」
続けて、葵までもがあっさりと同意する。
一瞬、緋崎さんの動きが止まる。彼女は呆気に取られたまま、困惑した表情で雅と葵を交互に見つめた。
「この子たち……何言ってるの?」
信じられない、という顔をしている。その反応に、僕は思わず苦笑いを浮かべた。
「えーっと……その幼馴染さんたちのことです」
「ええええっ!!?」
緋崎さんの大きな声が響く。彼女は慌てて雅と葵のほうへ振り返ると、まくしたてるように言った。
「ちょ、ちょっと待って。つまり、あなたたちが……? 本物のモデルってこと!?」
「そういうことになりますね」
雅が落ち着いた声で答えた。
緋崎さんはしばらく呆然としていたが、やがて目を輝かせると、興奮した様子で手を差し出した。
「すごい! 一ファンとして本当にモデルのお二人に会えるなんて嬉しいわ! 握手してもらってもいい?」」
やや圧倒された様子の雅と葵が、おずおずと手を出すと、緋崎さんは彼女たちの手をしっかりと握りしめた。その熱量に気圧されながらも、雅と葵は苦笑いしながら応じる。
すると、雅がふと僕のほうを振り返る。
「啓は、私たちがその監督さんに会ったら、嬉しい?」
「え?」
僕は思わず聞き返した。嬉しい……? 今ひとつピンとこず、小首を傾げる。
すると、葵がキラキラした目で僕にぐっと顔を近づけてくる。
「その監督に会ったら、啓の役に立てるのかなって話だよ」
「……な、なるほど」
葵の言葉を聞いて、雅が小さくため息をつく。少し頬を膨らませながら、控えめに言った。
「葵、ちょっと近すぎるわ……」
そう言って、雅が葵の両肩を掴み、そっと引き離す。葵はムッとした顔をしながらも、大人しく雅に従っていた。
彼女たちの言いたいことが、なんとなく伝わってきた。僕は微笑みながら答える。
「うーん……まあ、嬉しいかな。なんて、ははは」
ぎこちないながらもそう答えると、雅と葵は目を輝かせてお互いの手を取り、喜び合った。そして、すぐさま緋崎さんのほうへ向き直る。
「ぜひ!」
「お受けします!」
二人の勢いに、緋崎さんは少し戸惑いながらも頷いた。
「そ、そう。こちらとしては助かるわ。ただ、お二人のご両親の許可も取ってからね。そして、啓先生のことは内密に進める方向で……」
「はい!」
二人は息を揃えて答えた。
緋崎さんは安心したように息をつくと、少し言いにくそうに言葉を続ける。
「実は、もう一つ、啓先生にしかお願いできない問題が残ってるんだけど……」
「えっ? ま、まだあるんですか?」
僕が驚いて聞き返すと、緋崎さんは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「実はね、キービジュアルを担当するイラストレーターのレイランって人が、先生に会いたがってるのよ……」
その言葉を聞いた途端、神楽が勢いよく手を上げた。
「はい!」
「な、何神楽?」
僕が戸惑いながら尋ねると、神楽はじとっとした視線で緋崎さんを見つめ、少し間を置いてから言った。
「そのイラストレーターさんって、女性……?」
言葉を区切るように問いかける神楽。その隣で、真凛も腕を組みながら同じような視線を緋崎さんに向けている。
何かを問い詰めるような二人の様子に、緋崎さんは視線を泳がせ、しばらく考え込んだ。そして少ししてから僕に視線を戻し、小声でこそこそと話しかけてくる。
「先生、どう答えた方がいいですか……?」
まるで助けを求めるような緋崎さんの態度に、僕がどう返そうか迷っていると——。
「あ、もう充分です。分かりました」
と、すっぱり言い切った神楽の目つきが鋭く変わる。その様子を察した真凛、雅、葵も、同じように警戒心をあらわにする。
神楽が雅に向かって言った。
「監督さんに会う時、その人がいたらよく調べておいて」
「まかせて頂戴」
雅も真剣な面持ちで応じた。
何やら神楽と雅が、すさまじい連携を見せている——。
すると、緋崎さんが割り込むように言った。
「あの、何か盛り上がってるとこ悪いんだけど、会うことには会うんだけど、ちょっと特殊なのよね……」
言いにくそうに視線を逸らす緋崎さん。
「特殊?」
僕が聞き返すと、緋崎さんはためらいながらも続けた。
「ええ……レイランさんって動画配信者なのよ。それで、その、配信に出てくれって……」
申し訳なさそうに言う緋崎さん。
理解が追い付かず、僕は呆然とする。そしてゆっくりと自分を指さし、またもや聞き返した。
「僕が……?」
僕の問いに、緋崎さんは再び申し訳なさそうに頷いた。
「まあ、そういうことになるわね……?」
なんとも歯切れの悪い返答に、僕は思わず天を仰いだ。
「いやいや、どう考えても場違いでしょ、僕が配信に出るなんて。何を話せばいいんですか? 書斎のこだわりとか?」
「うーん、そこはレイランさんがうまく進行してくれると思うけど……」
「いやいや、そんな人任せな話あります!? 僕、トークスキル皆無ですよ!? どもり倒して放送事故ですよ!?」
「まあまあ、そんなに気負わなくても」
緋崎さんが苦笑する横で、真凛と神楽がひそひそと話していた。
「啓君が配信で喋るとこ、ちょっと見たいかも」
「確かに。多分テンパって意味不明な事言い出すよきっと」
「ふふ、それ絶対面白いやつ」
「聞こえてるからね?」
思わず突っ込む僕だったが、すでに雅と真葵まで興味津々な顔でこちらを見ている。
……なんだこの流れ。まさか、全員ノリ気なんじゃないだろうな?
「ちょっと待って、本当に出るなんて決まってないからね!? ちゃんと考えるからね!」
そう叫ぶ僕をよそに、緋崎さんは「まあ、先生の判断にお任せするわ」と言いつつも、どこか期待のこもった目をしていた。
僕は肩を落とし、深くため息をついた。