暗い路地裏に足を踏み入れると、湿った空気が鼻をつく。
街灯の光がほとんど届かず、壁には古びたポスターが無造作に貼られ、どれも色褪せている。
ゴミ袋が散乱し、異臭が漂う。ふと足元を見ると、割れたガラス片が散らばり、どこかで猫が低く鳴いた。
僕はその場の空気に息を詰まらせながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。
すると、メモ用紙に書きなぐられた名前のカラオケ店と、同じ名前の店が目の前に現れた。
ぼんやりとしたネオンがちらつく暗がりで、その光はまるで店の生気が失われたかのように弱々しい。
喉がひりつくような乾いた緊張感が全身を覆い、僕は無意識に息を呑んだ。
間違いなくここだと確信した瞬間、階段を上がってくる男の影が見えた。
思わず反射的に身を屈め、入口の看板に素早く身を潜める。
男は無造作に鼻をすすりながら通り過ぎていった。
男が去るのを確認し、僕は店の中へと足を進める。
地下へと続く階段を降りると、湿った空気が一層濃くなった。
壁にはカビのような黒ずみが広がり、足元に転がるゴミがカサリと音を立てる。
自動ドアをくぐると、そこにはくたびれたカウンターがあった。
埃っぽい空気の中、誰もいないカウンターの向こうには、古びたスツールが倒れたまま放置されている。
他にも人影はなく、唯一の音はスピーカーから流れる最新ヒットチャートの音楽だけ。
奥へと続く廊下を見つけ、ゆっくりと進む。
壁には無数の落書きが刻まれ、薄暗い照明が不気味に明滅している。
この中のどこかにいるのだろうか?
胸が焦燥感で締め付けられる。ドアの小窓からそっと中を覗き込む。
古びたカラオケルームの中には、使い古されたソファと乱雑に散らばる酒瓶が見えた。
一つ、また一つと確認するが、雅の姿はない。
さらに奥へと進むと、やがて一番奥の部屋の前にたどり着いた。
その時だった。
奥の右の部屋から、くぐもった悲鳴が響いた。
血の気が引き、心臓が跳ねる。
一瞬、体が硬直する。しかし、すぐに息を呑み、小窓に駆け寄った。
ぶ厚いガラス窓を覗くと、そこには悪夢が広がっていた。
雅と葵、それぞれを押さえつける伍代と鷹松。
頭が真っ白になる。耳鳴りがし、全身の力が抜けそうになる。
ドアノブを捻る。しかし、冷たい金属は微動だにしない。鍵がかかっている。探している時間はない。焦燥が胸を締めつけ、手が震える。
「開けろ……開けろ!!」
苛立ちと怒りがせめぎ合い、喉が焼けるように乾く。
僕は数歩下がり、勢いをつけて扉に体当たりした。
鈍い衝撃が肩に響き、骨まで痺れるような痛みが駆け巡る。
扉の向こうからくぐもった笑い声が漏れた。突然の衝撃に気づき、伍代たちがゆっくりと扉の近くまで寄ってくる。
「お、来た来た。必死すぎんだろ?」
ドア越しに聞こえる不快な声を無視し、僕は数歩後退して息を整える。次の瞬間、全身の力を込めて再び体を扉に叩きつけた。
衝撃が肩を直撃し、激痛が全身を駆け巡る。
呼吸が乱れ、視界が揺らぐ。それでも踏みとどまり、再び力を込めた。
伍代と鷹松が顔を見合わせ、ニヤリと笑いながらゆっくりと扉へと歩み寄る。
僕は構わず、もう一度数歩下がって勢いをつけ、渾身の力で扉にぶつかった。しかし、鈍い音が響くだけで扉は微動だにしない。
中では伍代と鷹松が僕を指さして笑っている。その声が微かに僕の耳元にも響く。
伍代たちの顔を睨めつけながら再び体当たりをする。僕の肩口にうっすらと血が滲んでいく。
それでも体当たりをやめなかった。
伍代は倒れている雅の髪を乱暴に掴み、そのまま扉の近くまで引きずった。
雅の体は抵抗しようとしたのか、微かに揺れるが、力が入らないのか倒れ込むように崩れる。彼女の肩は震え、指先が僅かに動く。しかし、無理やり引き起こされ、立つことすらままならない。
「お前はそこで見てるしかねぇんだよ。大事なもんが壊される瞬間をな」
わざとゆっくりとした口調で、僕の心をえぐるように言い放つ。
鼓動が荒くなる。頭が熱くなり、視界が揺らぐ。
雅の目が僕を見つめる。恐怖と痛みに耐えながらも、その瞳は何かに悔いるかのようだった。
わずかに震える唇が動き、形作られた言葉がかすかに読める。
――ごめんなさい。
頭の中が真っ白になり、熱が一気に込み上げる。冷静でいようとする理性など跡形もなく吹き飛び、身体が勝手に動いた。
瞬間、僕はドアに向かって拳を叩きつけた。
拳を振り下ろすたび、鈍い衝撃が骨まで響く。皮膚が裂け、赤い筋が扉に滲む。痛みは確かにあるのに、まるで遠くの出来事のように感じた。ただひたすらに拳を叩きつけ続けた。
涙が滲むが、なおも扉を睨みつけ拳を振り上げた。その瞬間——。
温かい手がそっと僕の拳を包んだ。
「よく頑張ったな、弟……」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
驚きと安堵が入り混じる中、力が抜け、拳が震える。
ハッとして我に返る。
その瞬間、風を切る音が耳を裂いた。
視界の端を何かが駆け抜ける。そして——轟音。
衝撃が部屋全体を揺るがし、分厚い扉が軋むような音を立てた瞬間、弾けるように吹き飛んだ。破片と木片が舞い散り、鋭い破片が伍代と鷹松の肩や腕に当たる。二人は反射的に身をすくめながら後退し、思わず呻き声を漏らす。
雅と葵が息をのんで身を縮める。その視線の先、粉塵の向こうに堂々と立つ影があった。
蹴りを放った体勢のまま、一歩も動かず佇むその姿は……。
——響姉。
煙が晴れる中、彼女は静かに微笑んだ。
「だから言っただろ?心配するなって」
不敵な笑みを浮かべつつ、足元の破片を無造作に払い落とす。
「な、なんで……ここに?」
驚きに声が震える。
その問いに、響姉は軽く肩をすくめ、まるで当たり前のことのように言う。
「可愛い弟のためなら、私物にGPSくらい仕込むのは常識だぞ」
その言葉に、呆れと安堵が同時に押し寄せる。
鼓動が少しずつ落ち着き、張り詰めていた心がゆるむ。
「……なんだよ、それ……」
力なく笑いかけると、響姉は無言で僕の頭をポンと撫でた。子どもの頃と同じ、優しくてどこか乱暴な仕草。
それだけで、張り詰めていたものが崩れ落ちる。
次第に視界が霞み、意識が深い闇へと沈んでいく。
最後に見えたのは、泣きながら僕のもとへ駆け寄る雅と葵の姿だった。