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第50話 決着

 暗い路地裏に足を踏み入れると、湿った空気が鼻をつく。


街灯の光がほとんど届かず、壁には古びたポスターが無造作に貼られ、どれも色褪せている。

ゴミ袋が散乱し、異臭が漂う。ふと足元を見ると、割れたガラス片が散らばり、どこかで猫が低く鳴いた。


僕はその場の空気に息を詰まらせながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。


すると、メモ用紙に書きなぐられた名前のカラオケ店と、同じ名前の店が目の前に現れた。


ぼんやりとしたネオンがちらつく暗がりで、その光はまるで店の生気が失われたかのように弱々しい。


喉がひりつくような乾いた緊張感が全身を覆い、僕は無意識に息を呑んだ。


間違いなくここだと確信した瞬間、階段を上がってくる男の影が見えた。


思わず反射的に身を屈め、入口の看板に素早く身を潜める。


男は無造作に鼻をすすりながら通り過ぎていった。


男が去るのを確認し、僕は店の中へと足を進める。


地下へと続く階段を降りると、湿った空気が一層濃くなった。


壁にはカビのような黒ずみが広がり、足元に転がるゴミがカサリと音を立てる。


自動ドアをくぐると、そこにはくたびれたカウンターがあった。

埃っぽい空気の中、誰もいないカウンターの向こうには、古びたスツールが倒れたまま放置されている。


他にも人影はなく、唯一の音はスピーカーから流れる最新ヒットチャートの音楽だけ。


奥へと続く廊下を見つけ、ゆっくりと進む。


壁には無数の落書きが刻まれ、薄暗い照明が不気味に明滅している。


この中のどこかにいるのだろうか?


胸が焦燥感で締め付けられる。ドアの小窓からそっと中を覗き込む。


古びたカラオケルームの中には、使い古されたソファと乱雑に散らばる酒瓶が見えた。


一つ、また一つと確認するが、雅の姿はない。


さらに奥へと進むと、やがて一番奥の部屋の前にたどり着いた。


その時だった。


奥の右の部屋から、くぐもった悲鳴が響いた。


血の気が引き、心臓が跳ねる。


一瞬、体が硬直する。しかし、すぐに息を呑み、小窓に駆け寄った。


ぶ厚いガラス窓を覗くと、そこには悪夢が広がっていた。


雅と葵、それぞれを押さえつける伍代と鷹松。


頭が真っ白になる。耳鳴りがし、全身の力が抜けそうになる。


ドアノブを捻る。しかし、冷たい金属は微動だにしない。鍵がかかっている。探している時間はない。焦燥が胸を締めつけ、手が震える。


「開けろ……開けろ!!」


苛立ちと怒りがせめぎ合い、喉が焼けるように乾く。


僕は数歩下がり、勢いをつけて扉に体当たりした。


鈍い衝撃が肩に響き、骨まで痺れるような痛みが駆け巡る。


扉の向こうからくぐもった笑い声が漏れた。突然の衝撃に気づき、伍代たちがゆっくりと扉の近くまで寄ってくる。


「お、来た来た。必死すぎんだろ?」


ドア越しに聞こえる不快な声を無視し、僕は数歩後退して息を整える。次の瞬間、全身の力を込めて再び体を扉に叩きつけた。


衝撃が肩を直撃し、激痛が全身を駆け巡る。

呼吸が乱れ、視界が揺らぐ。それでも踏みとどまり、再び力を込めた。


伍代と鷹松が顔を見合わせ、ニヤリと笑いながらゆっくりと扉へと歩み寄る。


僕は構わず、もう一度数歩下がって勢いをつけ、渾身の力で扉にぶつかった。しかし、鈍い音が響くだけで扉は微動だにしない。


中では伍代と鷹松が僕を指さして笑っている。その声が微かに僕の耳元にも響く。


伍代たちの顔を睨めつけながら再び体当たりをする。僕の肩口にうっすらと血が滲んでいく。


それでも体当たりをやめなかった。


伍代は倒れている雅の髪を乱暴に掴み、そのまま扉の近くまで引きずった。

雅の体は抵抗しようとしたのか、微かに揺れるが、力が入らないのか倒れ込むように崩れる。彼女の肩は震え、指先が僅かに動く。しかし、無理やり引き起こされ、立つことすらままならない。


「お前はそこで見てるしかねぇんだよ。大事なもんが壊される瞬間をな」


わざとゆっくりとした口調で、僕の心をえぐるように言い放つ。


鼓動が荒くなる。頭が熱くなり、視界が揺らぐ。


雅の目が僕を見つめる。恐怖と痛みに耐えながらも、その瞳は何かに悔いるかのようだった。


わずかに震える唇が動き、形作られた言葉がかすかに読める。


――ごめんなさい。


頭の中が真っ白になり、熱が一気に込み上げる。冷静でいようとする理性など跡形もなく吹き飛び、身体が勝手に動いた。


瞬間、僕はドアに向かって拳を叩きつけた。


拳を振り下ろすたび、鈍い衝撃が骨まで響く。皮膚が裂け、赤い筋が扉に滲む。痛みは確かにあるのに、まるで遠くの出来事のように感じた。ただひたすらに拳を叩きつけ続けた。


涙が滲むが、なおも扉を睨みつけ拳を振り上げた。その瞬間——。


温かい手がそっと僕の拳を包んだ。


「よく頑張ったな、弟……」


聞き覚えのある声が背後から聞こえた。


驚きと安堵が入り混じる中、力が抜け、拳が震える。


ハッとして我に返る。


その瞬間、風を切る音が耳を裂いた。


視界の端を何かが駆け抜ける。そして——轟音。


衝撃が部屋全体を揺るがし、分厚い扉が軋むような音を立てた瞬間、弾けるように吹き飛んだ。破片と木片が舞い散り、鋭い破片が伍代と鷹松の肩や腕に当たる。二人は反射的に身をすくめながら後退し、思わず呻き声を漏らす。


雅と葵が息をのんで身を縮める。その視線の先、粉塵の向こうに堂々と立つ影があった。


蹴りを放った体勢のまま、一歩も動かず佇むその姿は……。


——響姉。


煙が晴れる中、彼女は静かに微笑んだ。


「だから言っただろ?心配するなって」


不敵な笑みを浮かべつつ、足元の破片を無造作に払い落とす。


「な、なんで……ここに?」


驚きに声が震える。


その問いに、響姉は軽く肩をすくめ、まるで当たり前のことのように言う。


「可愛い弟のためなら、私物にGPSくらい仕込むのは常識だぞ」


その言葉に、呆れと安堵が同時に押し寄せる。


鼓動が少しずつ落ち着き、張り詰めていた心がゆるむ。


「……なんだよ、それ……」


力なく笑いかけると、響姉は無言で僕の頭をポンと撫でた。子どもの頃と同じ、優しくてどこか乱暴な仕草。


それだけで、張り詰めていたものが崩れ落ちる。


次第に視界が霞み、意識が深い闇へと沈んでいく。


最後に見えたのは、泣きながら僕のもとへ駆け寄る雅と葵の姿だった。


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