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第49話 鈴の音が消えた日

 新宿の街に、黄昏が滲んでいく。西の空はオレンジ色に染まり、ビルの影が長く路上に落ちている。


賑やかな人の波が交差し、ネオンの明かりがぼんやりと点り始める頃、僕はただひたすらに走っていた。


息が切れそうになる。人込みをかき分けながら、行き交う人々の隙間を縫うように駆け抜ける。

ぶつかりそうになった何人かが僕を睨みつけたが、気にしている暇はない。

とにかく、一秒でも早く辿り着かなければ。


カラオケ店。


それだけが今の手掛かりだった。しかし、新宿のカラオケ店なんて数え切れないほどある。一人で探し出すには限界がある。そう思いながら、僕はポケットから携帯を取り出した。


アドレス帳をスクロールする。しかし──ない。

登録されている番号の少なさに、思わず絶句する。


学生時代のほとんどを小説に費やしてきた。その結果がこれか。


困った時に頼れる人が、ほとんどいない。

こんな時ばかりは、自分のコミュ障が恨めしい。


それでも今は、誰かの力を借りなければならない。


迷うことなく携帯を取り出し、すぐに発信ボタンを押した。

呼び出し音が一度鳴ったかと思うと、すぐに相手が電話に出た。


「どうした、啓!」


響姉の声。そのいつも通りの豪快な口調に、僕は少しだけホッとした。


「ありがとう、響姉、すぐに出てくれて」


「弟の電話にはワンコールで出る、こんなの常識だぞ? それで、どうした? 何か用があるんじゃないか?」


いや、それは常識じゃないだろうと心の中でツッコみつつ、今はその非常識さをありがたく思うことにする。


「う、うん! そうなんだ、ちょっと大変なんだよ! 葵から連絡があって──」


僕は先ほど起こった出来事を必死に説明した。焦りで息が詰まり、何度か言葉をのみ込みながらも、できるだけ順を追って話していく。そして、僕の言葉が完全に途切れると、響姉が低く唸った。


「なるほど……あの泥棒猫の一匹が……」


「ちょ、物騒なこと言わないで!? 葵だよ、葵!」


「はいはい、分かってるよ。で、何? 探すの手伝ってほしいって?」


「うん、新宿のカラオケ店なんて一人じゃ探しきれないし……正直、今頼れる人が響姉しか思い浮かばなくて……」


「心配するな啓。 ちょうど今家に帰る途中だったし、このままそっちに向かって、お姉ちゃんも一緒に探してやる」


その言葉に心底安堵し、僕は深く息を吐いた。


「ありがとう! ありがとう響──あれ? 響姉? 響姉!?」


返事がない。慌てて携帯を見ると、画面は真っ暗になっていた。


 「嘘……充電切れ!?」


携帯を持つ手がわなわなと震えた。まさかこのタイミングで……!


「くそっ!!」


思わず携帯を地面に投げつけそうになったが、寸前で踏みとどまる。


周囲の通行人たちの視線がチラチラとこちらに向けられているのに気づいた。何か妙なものを見るような目つきだ。

背筋に冷たいものが走り、急に気恥ずかしくなった。


携帯をポケットに押し込み、肩をすくめながら何事もなかったように歩き出そうとした、その時。


「あれれ~? 啓先輩?」


鈴の音のように可愛らしい声が僕の名を呼ぶ。


僕は顔を上げ、声の主を探す。そして、視線の先にいたのは──


「小夏ちゃん……?」


バスケ部の葵の後輩、小夏ちゃん。

いつも雅たちと親しそうにしている少女が、僕を見上げて微笑んでいた。


すると、次の瞬間、葵の言葉が脳裏に蘇る。


──だから小夏にも無理やり迫ったり……


ハッとして小夏を見つめた。


何の目的であんなことを葵に言ったのか分からない。しかし、今はこの子を警戒するべきだと、本能が告げている。


張り詰めた空気の中、僕はぎこちなく口を開く。


「こ、小夏ちゃん……だったよね? 僕に何か用かな?」


すると、小夏はケラケラと笑い出した。


「いやだ~、道のど真ん中で変な声出してる人がいるな~って思ったら、先輩だったんですよ~! ビックリしちゃいました~!」


その笑顔が、どこか歪んで見えた。


「悪いけど、時間がないんだ。用がないなら、これで──」


僕は一瞥し、そのまま通り過ぎようとする。しかしその直後、耳元で小夏ちゃんが囁いた。


「早く行かなきゃ、雅先輩たち、大変な目にあっちゃいますもんね……?」


血の気が引いた。


「何……?」


目を見開いて小夏ちゃんを見る。

彼女はニヤリと笑い、まるで僕の反応を楽しむかのような目を向けてきた。


「どうしたんですか~? 行かなくていいんですか~? 大切な幼馴染ちゃんが大変なんですよね~?」


彼女の挑発的な言葉に、僕は唇を噛み締めた。


「……二人の居場所を知ってるの?」


小夏ちゃんは一度目を細め、何かを考えるような素振りを見せた後、ふっと口元を歪めて微笑んだ。


「どうしようかなぁ。別に教える義理はないんだけど……」


そう言いながら、楽しげな光が彼女の瞳に宿る。


「う~ん……まあいっか。じゃあ、クイズです。正解できたら、教えてあげなくもないですよ?」


「クイズ……?」


「ええ、答えは一回だけ。一度でも間違えたら、雅先輩たち共々、地獄に落ちちゃってくださいね~?」


僕は戸惑いながらも、小夏ちゃんの瞳に宿る悪戯めいた光を見逃さなかった。


心臓が嫌な音を立てて鳴る。


「……分かった」


僕がそう言うと、小夏ちゃんはゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、問題です──私は、誰でしょう?」


僕は息をのんだ。


小夏ちゃんは肩をすくめ、悪戯っぽく笑みを浮かべる。


「さっきも言ったでしょ? クイズですよ。ほら、考えてください。簡単に答えが出るものじゃありませんけどね?」


その目は、どこか試すように細められていた。


あまりに唐突な問いかけに、僕は思わず言葉を失った。


誰? どういうことだ? 小夏ちゃんが何を意図しているのか、全く理解できない。


小夏ちゃんは小夏ちゃんだ。以前、笹原とも呼ばれていた。


笹原小夏、それが彼女のフルネーム……。


だけど、こんな単純な答えを求めているわけじゃないのは明らかだった。


僕の思考が深く沈んでいく。


何かが引っかかる感覚があった。いや、ずっと前から心の奥底でくすぶっていた違和感だ。


初めて教室で小夏ちゃんを見かけたとき、言葉にできない懐かしさを覚えた。


どこか昔知っていた人物に似ている気がしたけれど、確信が持てず、それ以上考えないようにしていた。


「あはは、先輩ったら考えすぎてフリーズしちゃいました~?」


小夏ちゃんは僕の前で両手をひらひらと振る。


「分かるわけないか~。幼馴染ちゃんのことで頭がいっぱいですもんね?」


からかうようなその口調の裏に、ほんのわずかな違和感を覚えた。

何かが引っかかる──ずっと前から胸の奥でくすぶっていたものが、ゆっくりと形を成していく。


そして、気づけば僕の口から、その名前が零れていた。


「――鈴……ちゃん?」


「え……?」


小夏ちゃんの表情が、一瞬にして揺らいだ。


まるで思いもよらない言葉を浴びせられたように、瞳が揺れ、息を呑んだような顔になる。それは驚きとも困惑ともつかない、複雑な感情が入り混じった表情だった。


「初めて教室で小夏ちゃんを見かけた時に思ったんだ……小学生の頃、よく一緒に遊んでた鈴ちゃんに似てるなって。でも、名前が違うし、別人なのかなって……」


僕がそこまで言いかけたときだった。


「その名前で呼ぶな!!」


まるで弾かれたように、小夏ちゃんが叫んだ。


声は鋭く、張り詰めた怒気がにじんでいた。周囲の雑踏が一瞬静まり、人々が驚いたように振り向く。


僕は息を呑んだ。


小夏ちゃんは拳を握り締め、爪が食い込むほど力を込めていた。その肩は震え、うつむいた顔からは表情が読み取れない。


しかし、彼女の全身から発せられる感情は痛いほど伝わってきた。


それは怒りなのか、悲しみなのか、それとも──恐れなのか。


「なんで……なんで覚えてんのよ……」


彼女が小さな声で、搾り出すように呟いた。


「え?」


僕は戸惑いながらも、小夏ちゃんを見つめた。


しかし、小夏ちゃんは何も答えず、鞄からメモ帳を取り出すと、乱暴にページをめくり、勢いよくペンを走らせた。


筆圧が強すぎて紙がわずかに破けそうになるほどだった。その様子に声をかけるべきか迷ったが、ただ黙って見守ることしかできない。


やがて、小夏ちゃんは無造作にページを破り取り、放り投げるように僕に差し出した。


受け取った紙には、カラオケ店への道筋が書かれていた。


「ありがとう……」


その言葉を紡ぎかけた僕よりも先に、小夏ちゃんが俯いたまま口を開いた。


「今後、雅先輩たちに私と関わらないように言っといてください……ウザいんで……」


その声はいつもの軽やかさとは違い、どこか硬く、震えているようにも聞こえた。


言葉を置くと同時に、小夏ちゃんは踵を返し、迷いのない足取りで歩き出した。その歩幅は大きく、まるでここから一刻も早く離れたがっているかのようだった。


僕はその背中をじっと見つめた。


心の奥に、何かが引っかかる。


言葉にしがたい感情が込み上げる。


「ありがとう、鈴ちゃん!!」


衝動的に叫んだ。


遠くで、小夏ちゃんの肩が小さく震える。

ほんの一瞬だけ、その足が止まった。


けれど、彼女は振り返らなかった。


再び足を踏み出し、新宿の雑踏へと紛れ込んでいく。


人々の波の中に、彼女の姿は、ゆっくりと溶けていった。

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