午後の授業の終了を告げるチャイムが鳴ると、教室内にほっとした空気が流れた。
「やっと終わった」
「今日の授業長かったな」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
生徒たちは一斉に立ち上がり、友達同士で談笑しながら帰り支度を始める。
窓の外には夕方の光が差し込み、机の影を長く伸ばしていた。
私は机の上に広げていたノートを閉じ、筆箱と教科書を鞄にしまった。
何気なく横を向き、隣に座る雅に話しかけようとした。
けれど——そこに雅の姿はなかった。
「……雅?」
思わず呼びかけながら、私は周囲を見回した。しかし、教室のどこにも雅の姿は見当たらない。
胸の奥で、嫌な予感がした。 その瞬間、今朝の出来事が脳裏に鮮明に浮かぶ。
「今日一日だけでいい」
伍代がそう言ったときの雅の硬い表情。
私の目の前で、彼女は何も言い返せずにただ拳を握りしめていた。
「——っ!」
私は勢いよく立ち上がり、鞄を掴むと一気に教室を飛び出した。
雅がどこにいるのか、確信はない。けれど、おそらくエントランスの方に向かっているのは間違いないはず。
廊下を駆け抜ける。
行き交う生徒とぶつかりそうになり、「危ない!」という声が飛ぶが、気にしていられない。
雅……お願い、間に合って……!
足を止めずに階段を駆け下り、一階へ。
教師の怒声が後ろから聞こえたけれど、そんなものに構っている暇はない。
息を切らせながらエントランスに飛び込むと——そこに、予想通りの光景があった。
伍代と鷹松、そして雅——。
私は反射的に叫ぶ。
「雅!」
三人が足を止めた。 伍代と鷹松が、ゆっくりと振り返る。そして、私を見るなりニヤリと笑った。
「おやおや、来ちゃったのか」
伍代が気楽そうに言う。その横で、鷹松が薄く笑いながら私を値踏みするように見ている。
けれど、そんなことよりも——雅。
彼女はうつむいたまま、何も言わない。
普段なら私の呼びかけにすぐに反応するのに、今はただ俯いてじっとしているだけだった。
私は駆け寄り、雅の肩を掴んだ。
「雅、ダメだよ! ついて行っちゃダメ!」
力いっぱい揺さぶると、雅の体がかすかに揺れる。
「もしも何かあったら——!」
言いかけた瞬間、背後から嘲るような声が響いた。
「おいおい、"何か"って何だよ。失礼だな、葵ちゃんは」
鷹松の軽薄な声。私は振り返りもせず、低く言い放つ。
「黙ってて」
そして、再び雅に向き直る。
「自己犠牲のつもり!? そんなの、啓が喜ぶわけないって、雅にもわかってるはずでしょ!」
その言葉に、雅の肩がわずかに震えた。 そして、ゆっくりと顔を上げる。
青白い顔。揺れる瞳。
「……そんなの、わかってる……」
「だったら……!」
「私ね……もう、これからのことなんか望んでないの」
雅の声はかすれていた。
「え……?」
その言葉に私は一瞬声を失った。
「だって、そんな資格、私にはないのよ。あの人の隣に立つことも、一緒に歩んでいくことも……本当は許されないことなのに……」
彼女の目に、深い後悔と迷いが滲んでいるのがわかった。
「啓は、きっと"そんなことない"って言ってくれる。でも、今の私には……その優しさが、余計につらいの……」
私は息を呑む。
「雅……」
「本当はね、啓にはもっと……私を責めてほしかった。"バカな女だ"って笑ってほしかった……でも、啓はそんなこと、できる人じゃないもの……」
雅はうつむき、震える声で続けた。
「でも、どうしても自分が許せないの……だから、ごめん葵。行かせてちょうだい」
私は絶句する。
雅の瞳は、強い決意を宿していた。
「大丈夫。万が一のことも考えて、ちゃんと準備はしてるから……」
囁くような声。だが、それは私の不安を払拭するには足りなかった。
「け、警察に相談するとか——!」
「……昼間のあれじゃ、脅迫にはならないわ」
静かに首を振る雅。
「葵だって、それくらいわかるでしょ?」
その言葉に、私は何も言えなくなる。
「……ほら、周りの人たちが心配して見てるわ」
視線を巡らせると、周りの生徒たちが不安げな表情でこちらを見ていた。
雅は、気丈に微笑んだ。
「……啓に、このこと……」
私が言いかけた瞬間——
「それだけは絶対にやめて!!」
雅が突然、葵の肩を強く掴み、鋭い声で叫んだ。
「お願いだからこれ以上……彼を巻き込まないで……」
その瞳には、涙が滲んでいた。
「私が消えればいいの。彼の前から。それで——すべてに決着がつくはずだから……」
「雅……」
葵の胸が締めつけられる。
「じゃあな、葵ちゃん」
伍代が薄く笑い、雅の肩を引く。
「大丈夫、カラオケに行くだけだからさ。行こうぜ、雅ちゃん」
「……じゃあね、葵。啓のこと……よろしくね」
そう言い残し、雅は伍代たちと共に去っていった。
私は——ただ、雅の背中を見送ることしかできなかった。