西日が差し込む体育館は、試合後の熱気に包まれていた。
冬の冷たい空気が、開け放たれた扉から流れ込んでくる。それでも、ここに充満する熱は未だ冷めることなく、歓声と拍手の余韻が残っていた。
試合を終えた神楽が、汗を拭きながら観客席に向かって手を振っている。
生徒たちは興奮冷めやらぬ様子で、彼女たちに惜しみない称賛を送っていた。
「すごかったですね……!」
隣でそう呟く真凛の横顔を見ながら、僕は無意識のうちに頷いていた。
「……うん、本当にすごかった」
葵はバスケ部のエースとして、その名に恥じない実力を発揮し、神楽も負けじと素早い動きで点を決めていった。
その姿は、まるで光と影の競演のようだった。
僕たちは彼女たちの着替えが終わるのを待つため、体育館を後にする。
外に出ると、夕焼けが冬の空を染め上げ、冷たい風が頬を撫でてくる。
太陽は地平線へと沈みだし、校舎の影が長く伸びていた。
葵たちのいるはずの方向へ向かおうとしたとき、ふと違和感を覚えた。
耳に届いたのは、低く切羽詰まった声。
無意識のうちに足が止まり、声のする方へ視線を向ける。
気づけば、体育館の裏手に差し掛かっていた。
視線を向けると、そこに立っていたのは——
「……伍代?」
そして、その前には——雅。
思わず足が止まる。無意識に手を握りしめる。
真凛が僕の変化に気づいたのか、心配そうに顔を覗き込んだ。
「啓君、大丈夫ですか?」
「……ごめん、ちょっと行ってくる」
言い終わると同時に、僕は二人の後を追っていた。
体育館の裏手は、人気がなく静かだった。
夕陽が長い影を落とし、落ち葉が風に舞っている。
伍代が雅の前に立ち、深々と頭を下げていた。
「この前の公園でのことは、雅ちゃんの誤解なんだ。だからもう一度……俺にチャンスをくれないか!?」
必死な声。
雅は困惑した表情を浮かべつつも、どこか決意したような眼差しで伍代を見つめていた。
彼女の唇が開きかけたが、その瞳には静かな決意が宿っていた。迷いはない。ただ、言葉を紡ぐ前の一瞬の間が、彼女の中の何かを整理しているように見えた。
その感情が何なのかは分からない……だけど、僕は知っている。
伍代が雅を騙していたことを。
「まだそんな人と付き合ってるの!?」
思わず、叫んでいた。
驚いたように振り返る伍代と雅。
伍代は明らかに狼狽し、何で僕がここに、というような表情を浮かべる。
「啓……!?」
雅の目が見開かれた。
伍代の顔は狼狽に歪んでいる。
「何で……お前がここに……」
その表情を見て、僕は思った。
伍代の顔は明らかに動揺していた。
僕の存在が彼にとって都合が悪いのは明白だった。
その証拠に、伍代は焦った表情のまま雅の方をちらりと見て、何かを言おうとしている。
すると、深刻な顔をしていた僕を、真凛が心配そうに見つめながら寄り添い、腕を絡ませてきた。
雅の表情がわずかにこわばり、目を見開いたまま一瞬動きを止めた。
そして、僕の隣にいる真凛の姿を見て、無意識に拳を握りしめ視線を逸らした。
「は、啓には関係ないでしょ!」
その言葉にすかさず言い返す。
「関係あるよ!雅が誰と一緒にいるかは自由だけど……それが本当に雅のためになるなら、何も言わない。でも、伍代は違う!君を騙そうとしたんだ!」」
雅の表情が揺れ、唇がわずかに震える。
「な、なんで啓にそんなこと言われなきゃいけないわけ!? 私が誰と付き合おうが、啓には関係ないでしょ!」
声が強張っていた。まるで自分に言い聞かせるように、必死で強がっているようにも見える。
——その言葉が、胸に深く突き刺さる。
冷たい風が吹き抜け、僕の背筋が凍るような感覚が広がる。
「なら……もう……勝手にすればいい」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
雅の瞳が一瞬揺らぐ。
その直後、彼女の目がカッと見開かれた。
「何それ? 自分はもう新しいお相手を二人も見つけたから、そっちは勝手にやってろってこと? ずいぶん偉くなったのね、啓!」
雅の声は怒りで震えていた。すると、それまで黙っていた真凛が雅に向かって一歩踏み出し、強い視線をぶつける。
「何で……何ではじめ先――啓君にそんな酷い事言えるんですか?」
雅は真凛を睨み返し、勢いよく口を開いた。
「何あなた?女優か何か知らないけど、この人がどんな人か知らないでそうやってくっついてるわけ?だったら教えてあげる!啓は約束も守れない口先だけの人なの!私や葵をずっと裏切ってきたんだから!」
そこまで言い切った雅は肩で息をし、荒い呼吸を整えるように拳を握る。
負けじと真凛も言い返した。
「啓君はそんな事しません!絶対にしません!とても優しくて思いやりのある人だから、だから私も神楽も、啓君と一緒に居るの、ただそれだけです!あなたこそ何も分かってないだけです!啓君はちゃんと――」
真凛の言葉が熱を帯びていくのを感じ、僕は静かに片手をあげて制した。彼女の顔を見つめながら、穏やかに言葉を紡ぐ。
「ありがとう……真凛……」
僕に名前を呼ばれた真凛は、一瞬驚いたように目を見開いた。それから、頬がじわじわと赤く染まり、視線を落とす。
それを見ていた雅は、更に顔に悔しさをにじませる。
そして、唖然と立ち尽くしていた伍代の手を強く握り締める。
「行きましょう伍代先輩!」
雅は僕の横を通り過ぎようとしながら、強い口調で言い放った。
伍代は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに口元を緩め、まるで面白がるかのように「……あ、ああ」と頷いた。その軽い態度が余計に苛立たしく映る。
雅の足音が僕の横を通り過ぎる。そんな瞬間、無意識に僕の手が握りしめられる。
指先を蝕む震えがぴたりと止まった。ハッとして俯いていた顔を上げると、胸の奥から絞り出すように言葉が漏れた。
「……幸せにね、雅。そして——さようなら」
自分でも驚くほど静かな声だった。
それなのに、妙に遠くまで響いていく気がした。
雅の足が止まる。まるで時間が凍りついたように、彼女はその場で振り返った。
「えっ……?」
夕陽に照らされたその表情は、驚きと戸惑いに揺れていた。
唇がわずかに震え、何かを言いたげに口を開きかけるが、言葉にはならない。
胸がチクリと痛んだが、以前ほどじゃない。それに、もう迷わない。
そっと僕の手を引く、小さな手の感触。
真凛だった。
彼女のぬくもりが、凍り付きそうになった心の、唯一の救いとなった。
雅はその場に立ち尽くし、呆然と僕を見つめている。
夕陽が彼女の顔を照らし、その瞳の奥には戸惑いと迷いが揺れていた。
伍代が横で小さく笑いながら「行こうぜ」と促すが、雅はすぐには動けなかった。
僕は静かに目を閉じ、長く息を吐いた。
「……行こう、真凛」
そう呟くと、僕はゆっくりと歩き出した。
冬の風が頬を撫で、影が長く伸びていく中、僕たちは前へ進んでいった。