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第34話 凍える心臓、小さな手のひら

 西日が差し込む体育館は、試合後の熱気に包まれていた。


冬の冷たい空気が、開け放たれた扉から流れ込んでくる。それでも、ここに充満する熱は未だ冷めることなく、歓声と拍手の余韻が残っていた。


試合を終えた神楽が、汗を拭きながら観客席に向かって手を振っている。


生徒たちは興奮冷めやらぬ様子で、彼女たちに惜しみない称賛を送っていた。


「すごかったですね……!」


隣でそう呟く真凛の横顔を見ながら、僕は無意識のうちに頷いていた。


「……うん、本当にすごかった」


葵はバスケ部のエースとして、その名に恥じない実力を発揮し、神楽も負けじと素早い動きで点を決めていった。


その姿は、まるで光と影の競演のようだった。


僕たちは彼女たちの着替えが終わるのを待つため、体育館を後にする。


外に出ると、夕焼けが冬の空を染め上げ、冷たい風が頬を撫でてくる。


太陽は地平線へと沈みだし、校舎の影が長く伸びていた。


葵たちのいるはずの方向へ向かおうとしたとき、ふと違和感を覚えた。


耳に届いたのは、低く切羽詰まった声。


無意識のうちに足が止まり、声のする方へ視線を向ける。


気づけば、体育館の裏手に差し掛かっていた。


視線を向けると、そこに立っていたのは——


「……伍代?」


そして、その前には——雅。


思わず足が止まる。無意識に手を握りしめる。


真凛が僕の変化に気づいたのか、心配そうに顔を覗き込んだ。


「啓君、大丈夫ですか?」


「……ごめん、ちょっと行ってくる」


言い終わると同時に、僕は二人の後を追っていた。


体育館の裏手は、人気がなく静かだった。


夕陽が長い影を落とし、落ち葉が風に舞っている。


伍代が雅の前に立ち、深々と頭を下げていた。


「この前の公園でのことは、雅ちゃんの誤解なんだ。だからもう一度……俺にチャンスをくれないか!?」


必死な声。


雅は困惑した表情を浮かべつつも、どこか決意したような眼差しで伍代を見つめていた。


彼女の唇が開きかけたが、その瞳には静かな決意が宿っていた。迷いはない。ただ、言葉を紡ぐ前の一瞬の間が、彼女の中の何かを整理しているように見えた。


その感情が何なのかは分からない……だけど、僕は知っている。


伍代が雅を騙していたことを。


「まだそんな人と付き合ってるの!?」


思わず、叫んでいた。


驚いたように振り返る伍代と雅。


伍代は明らかに狼狽し、何で僕がここに、というような表情を浮かべる。


「啓……!?」


雅の目が見開かれた。


伍代の顔は狼狽に歪んでいる。


「何で……お前がここに……」


その表情を見て、僕は思った。


伍代の顔は明らかに動揺していた。


僕の存在が彼にとって都合が悪いのは明白だった。


その証拠に、伍代は焦った表情のまま雅の方をちらりと見て、何かを言おうとしている。


すると、深刻な顔をしていた僕を、真凛が心配そうに見つめながら寄り添い、腕を絡ませてきた。


雅の表情がわずかにこわばり、目を見開いたまま一瞬動きを止めた。


そして、僕の隣にいる真凛の姿を見て、無意識に拳を握りしめ視線を逸らした。


「は、啓には関係ないでしょ!」


その言葉にすかさず言い返す。


「関係あるよ!雅が誰と一緒にいるかは自由だけど……それが本当に雅のためになるなら、何も言わない。でも、伍代は違う!君を騙そうとしたんだ!」」


雅の表情が揺れ、唇がわずかに震える。


「な、なんで啓にそんなこと言われなきゃいけないわけ!? 私が誰と付き合おうが、啓には関係ないでしょ!」


声が強張っていた。まるで自分に言い聞かせるように、必死で強がっているようにも見える。


——その言葉が、胸に深く突き刺さる。


冷たい風が吹き抜け、僕の背筋が凍るような感覚が広がる。


「なら……もう……勝手にすればいい」


思わず呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。


雅の瞳が一瞬揺らぐ。


その直後、彼女の目がカッと見開かれた。


「何それ? 自分はもう新しいお相手を二人も見つけたから、そっちは勝手にやってろってこと? ずいぶん偉くなったのね、啓!」


雅の声は怒りで震えていた。すると、それまで黙っていた真凛が雅に向かって一歩踏み出し、強い視線をぶつける。


「何で……何ではじめ先――啓君にそんな酷い事言えるんですか?」


雅は真凛を睨み返し、勢いよく口を開いた。


「何あなた?女優か何か知らないけど、この人がどんな人か知らないでそうやってくっついてるわけ?だったら教えてあげる!啓は約束も守れない口先だけの人なの!私や葵をずっと裏切ってきたんだから!」


そこまで言い切った雅は肩で息をし、荒い呼吸を整えるように拳を握る。


負けじと真凛も言い返した。


「啓君はそんな事しません!絶対にしません!とても優しくて思いやりのある人だから、だから私も神楽も、啓君と一緒に居るの、ただそれだけです!あなたこそ何も分かってないだけです!啓君はちゃんと――」


真凛の言葉が熱を帯びていくのを感じ、僕は静かに片手をあげて制した。彼女の顔を見つめながら、穏やかに言葉を紡ぐ。


「ありがとう……真凛……」


僕に名前を呼ばれた真凛は、一瞬驚いたように目を見開いた。それから、頬がじわじわと赤く染まり、視線を落とす。


それを見ていた雅は、更に顔に悔しさをにじませる。


そして、唖然と立ち尽くしていた伍代の手を強く握り締める。


「行きましょう伍代先輩!」


雅は僕の横を通り過ぎようとしながら、強い口調で言い放った。


伍代は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに口元を緩め、まるで面白がるかのように「……あ、ああ」と頷いた。その軽い態度が余計に苛立たしく映る。


雅の足音が僕の横を通り過ぎる。そんな瞬間、無意識に僕の手が握りしめられる。


指先を蝕む震えがぴたりと止まった。ハッとして俯いていた顔を上げると、胸の奥から絞り出すように言葉が漏れた。


「……幸せにね、雅。そして——さようなら」


自分でも驚くほど静かな声だった。


それなのに、妙に遠くまで響いていく気がした。


雅の足が止まる。まるで時間が凍りついたように、彼女はその場で振り返った。


「えっ……?」


夕陽に照らされたその表情は、驚きと戸惑いに揺れていた。


唇がわずかに震え、何かを言いたげに口を開きかけるが、言葉にはならない。


胸がチクリと痛んだが、以前ほどじゃない。それに、もう迷わない。


そっと僕の手を引く、小さな手の感触。


真凛だった。


彼女のぬくもりが、凍り付きそうになった心の、唯一の救いとなった。


雅はその場に立ち尽くし、呆然と僕を見つめている。


夕陽が彼女の顔を照らし、その瞳の奥には戸惑いと迷いが揺れていた。


伍代が横で小さく笑いながら「行こうぜ」と促すが、雅はすぐには動けなかった。


僕は静かに目を閉じ、長く息を吐いた。


「……行こう、真凛」


そう呟くと、僕はゆっくりと歩き出した。


冬の風が頬を撫で、影が長く伸びていく中、僕たちは前へ進んでいった。

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