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第31話 屋上大決戦

 昼休み――冬の冷たい風が校舎の窓を叩く。

ガラス越しに差し込む陽光が教室の机の上に長い影を落としていた。


外では掛け声や笑い声が響いているが、この場所だけは別世界のように静かだった。昼食を広げる生徒たちの話し声も、どこか遠くに感じる。


僕はそっと息を吐いた。少し前まで普通に過ごしていたはずの昼休みが、今では何か不安を感じさせる時間になってしまっている。


昨日に続き早朝の騒動を何とか乗り越えた僕は、西校舎にある屋上へと続く扉の前に一人立っていた。


午前の授業が終わり、少し気を抜いていたその瞬間、ポケットの中の携帯が震えた。


小さく息を吐きながら取り出し、画面に映るメッセージを確認する。


――西校舎の屋上に来てね、貴方の大切な幼馴染より。


送り主は神楽。


嬉しい反面、彼女らしい軽妙な文章と、まるでからかうような響きを含んだ文面を見た瞬間、僕の脳裏には赤い警報灯が点灯した。


「……嫌な予感しかしない」


独り言のように呟きながら、スマホを閉じる。胸の奥がざわつく。何かが起こる、そんな直感が背筋を冷たく撫でた。


そもそも、西校舎は改装予定で立ち入りが禁止されているはずだった。


誰もがその場所を避けているのに、神楽が屋上に行ける理由とは――いや、考えるまでもない。彼女のことだから、何かしらの手を使って鍵を入手したのだろう。


でもまあ僕自身、彼女たちに聴きたい事があったから丁度良かったかもしれない。

例えば、転校の件とか転校の件とか転校の件……主にこの一つについてゆっくり議論する余地がある。


僕は小さく息を吐き、覚悟を決めてドアノブにそっと手を掛けた。その金属の冷たさが、さらに胸の中の不安を煽る。


――その瞬間。


「啓!」


背後から聞き慣れた声が響いた。


振り向くと、階段の下から僕を見上げる葵の姿があった。


彼女の表情は普段の軽やかなものではなく、真剣そのもの。わずかに眉をひそめ、強い意志を宿した瞳で僕を見つめていた。


「葵……?」


僕が戸惑いながら名前を呼ぶと、葵はまっすぐにこちらへと足を踏み出した。


その足音が階段に響くたび、妙な緊張感が肌を刺した。


「大事な話があるんだけど、ちょっといい?」


「な、なんで葵がここに?」


思わず聞き返すと、葵はわずかに視線をそらしながら、少しばつの悪そうな顔をした。


「あんたに話があったのよ。だから申し訳ないけど、あんたのことつけさせてもらった……。それより、あんたこそこんなところで何やってんの?」


僕はどもりながら言葉を探すが、うまく答えが出てこない。


「え? あ、いや、その……なんていうか……」


適当な言い訳も思いつかずにいると、葵が小さくため息をついた。


「はぁ……まあいいわ。あんたに聞きたいことがあるんだけど……」


「聞きたいこと?」


葵は少しだけ躊躇するように言葉を選びながら、意を決したように口を開いた。


「……もしかして、あんた……あんたが蘭学事啓なの?」


「えっ?」


一瞬、思考が停止した。


そんな僕を見つめながら、葵は続ける。


「私、昨日のニュースで映画の記者会見の中継を見たの。でも今朝のオンラインニュースじゃ、あれは誤解だって報じられてた……。周りは納得してたみたいだけど、私と雅は正直疑ってる。特に私はね」


鋭い視線が突き刺さる。僕は無意識に喉を鳴らした。


「……どうしてそう思ったの?」


すると、葵の表情が微かに揺れた。そして、震える声で言った。


「あのウサギのお面……まだ持ってたんだね……啓……」


その瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。


「えっ……?」


突然の涙に僕は動揺し、慌てて何か言おうとするが、言葉が出てこない。


「なんで……」


葵の肩が震えている。涙をこらえようとしているのか、それとも言葉を飲み込もうとしているのか、その小さな肩がわずかに上下しているのがわかった。


僕は息を呑んだ。こんなにも近くにいるのに、どうすればいいのかわからない。慰めの言葉をかけるべきなのか、それとも黙って見守るべきなのか。


胸の奥がざわつく。かつての幼馴染としての距離感が、今では遠くもあり、近すぎるほどにも思えた。僕が何か言おうと口を開きかけた、その瞬間――。


――ガチャッ!


突然、背後の扉が勢いよく開かれた。


「やっと来たわね、はじめ!」


その声とともに、場の空気がふっと軽くなった。


ふてくされた顔で立っていたのは、神楽だった。頬をわずかに膨らませ、腕を組みながらじと目でこちらを見ている。その表情はまるで、拗ねた子どもが「遅いんだから」と言いたげな雰囲気だった。


しかし、目元はどこか楽しげで、唇の端がほんの少しだけ上がっている。


「ほんと、待ちくたびれちゃったんだからね」


その後ろには、同じように頬をぷくっと膨らませた真凛がいた。


まるでシンクロしたかのように、神楽の言葉にこくこくとうなずいている。


「神楽の言う通りですよ」


二人とも怒っているのか、甘えているのか微妙なライン。


一気に場の雰囲気が変わる。

葵の震える肩、僕の戸惑い、そこに割り込んでくる二人の無邪気な存在感――まるで嵐の後のひとときの晴れ間のように、それぞれの感情が交錯していくのを肌で感じた。


「な、なに?」


二人が屋上から現れたのを見て、驚きと戸惑いが入り混じった表情のまま、葵は二人を交互に見つめた。


僕は何か言おうとしたが、言葉を選んでいる間に神楽が僕の横を通り過ぎ、葵の目の前に立った。


「な、なによ?」


葵は少し警戒しながら涙を拭い、神楽を睨み返す。


しかし、神楽は余裕たっぷりの笑みを浮かべたまま、視線を逸らさない。


「ふうん……あら、誰かと思ったら"元"幼馴染じゃない?」


"元"の部分をわざと強調しながら言う神楽。その一言に、葵の顔に驚きが広がる。


「なっ……誰が元よ!」


葵は思わず拳を握りしめたが、一瞬言葉に詰まる。その目には動揺と苛立ちが入り混じっていた。


「元は元でしょ? お払い箱って意味、分かる?」


神楽の挑発的な言葉が、葵の神経を逆なでするように響く。


「……あんたいい加減にしなさいよ、私は幼馴染なの! 啓と話すのがそんなに悪いわけ!?」


葵が怒りに震えながら反論する。しかし、神楽は肩をすくめ、まるで大したことではないと言わんばかりに軽く鼻で笑う。


「へぇ、はじめにあんな態度取ってたくせに、幼馴染面するんだ?」


その一言に、葵の顔がピクリと歪む。


僕は思わず息をのむ。


神楽が言っているのは、あの喫茶店での出来事……雅と葵が突然僕の前に現れたとき、二人の顔には明らかに他にも何か言いたげな表情が浮かんでいた。


幼馴染……。


その言葉に、僕はほんの少しだけ引っかかるものを感じた。


「喫茶店で会ったとき、あなたの態度は幼馴染を再会したものには見えなかったわ。まるで他人か、それとも……裏切り者を見るような目だった」


神楽の言葉に、葵の肩がピクリと揺れる。その目が揺らいだのを、僕は見逃さなかった。


「……だから何? 何も知らないあんたに、何が分かるっていうの?」


葵の声は震えていた。でも、それは怒りというより、必死に自分の気持ちを守ろうとしているように聞こえた。


神楽はそんな葵を見つめ、さらに微笑を深める。


「あら? 少なくともあなたよりは、はじめのことを知ってるし、理解してるわよ?」


その瞬間、葵の表情が一気に険しくなる。


彼女の瞳には、怒りと戸惑い、そしてほんの少しの悲しみが入り混じっていた。


言葉を返せないまま、葵は唇を噛みしめる。


僕はそろそろ止めたほうがいいかと思い、口を開きかけた。その時、僕の背後でずっとおろおろと見守っていた真凛が、そっと僕の腕に自分の腕を絡ませた。


そして、小さく首を横に振る。


「真凛さん?」


僕は戸惑いながら、真凛と神楽たちを交互に見た。


真凛の目は、何かを伝えようとしているかのように揺れていた。「止めないで」と。


その時だった。


「あなた、バスケ部のエースなんでしょ?」


突然、神楽が話題を変えた。


葵は驚いた顔で神楽を睨む。


「だったら何よ?」


すると、神楽はいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。


「放課後、私とバスケで勝負しない?」


「1on1で」


その言葉に、葵の表情が一瞬驚きに変わる。


神楽は話を続ける。


「あなたが勝ったら、何か言うことを一つ聞いてあげる。でも、私が勝ったら……そうね」


神楽は顎に指を添え、わざとらしく考える素振りを見せる。


葵はそんな神楽をじっと睨みつけながら、拳を握りしめていた。


バスケの勝負を持ちかけられた時点で、逃げるつもりなどないのは明らかだった。


しかし、次の瞬間、神楽がふっと僕の方を見た。


そして、いたずらっぽく微笑む。


「私が勝ったら、はじめにお願い事を一つ、聞いてもらおっかな」


その言葉に、僕は思わず咳き込んだ。


「は……はあぁぁっ!?」


僕の情けない声が屋上に響き渡る。葵は思わず神楽を睨みつけ、「何よそれ!」と驚きと怒りの入り混じった声をあげる。


神楽はそんな二人の反応を楽しむように、涼しい顔で微笑んでいた。


このままでは終わらない。


屋上に漂う緊迫感が、じわじわと僕の胸を締めつける。神楽の余裕の笑み、葵の険しい視線、真凛の沈黙。どこかで止めるべきなのか、それとも彼女たちの意思に任せるべきなのか。


答えは出ない。


ただ、放課後のバスケ勝負が何をもたらすのか——それは誰にも分からなかった。


その時、ちょうど学校の昼休みを終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。


静寂が訪れる。


僕は、止められなかったこの流れが、何を引き起こすのかを考えずにはいられなかった。

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