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第30話 起死回生の一手

 冬の朝、灰色の雲が空を覆い、冷気が鋭く頬を撫で、まるで無数の針が突き刺さるような感覚が広がる。

街路樹は葉を落とし、風に煽られるように裸の枝を揺らしていた。

吐く息は白く、制服のポケットに突っ込んだ手がじんじんと冷えていく。


僕は重たい足取りで学校へ向かっていた。昨日の大失態を引きずったまま、まるで処刑場へ向かう死刑囚の気分だった。

原因は昨日の記者会見での大失敗。記者からの質疑応答の際、自分が通っている学校名をばらしてしまうという、前代未聞の失態をやらかしてしまったのである。


記者会見場での失敗の後、緋崎さんは「この場はこっちで何とかするから任せておいて」と言ってくれていたけど、正直、自分で言っておいてなんだが、もうすでに詰んでいるとしか思えない。


昨夜は布団の中で何度も悶々と考え続け、浅い眠りを繰り返した。

夜が明け登校する今も気持ちは重く、まるで処刑場に向かう死刑囚の様な気分だ。

寒空の下、吐く息が白く消えていくのをただぼんやりと見つめながら、頭の中には同じ思考が堂々巡りをしていた。


「なんであんなことを言ってしまったんだろう……」


その後悔の念を振り払おうとしても、次々と新たな不安が押し寄せてくる。

学校に着いたら、どんな目で見られるのか。

すでに僕の正体は昨日のうちにバレてしまっているんじゃないか?


そんな嫌な想像ばかりが頭をよぎる中、気づけば学校の門が目の前にあった。

重い足取りで校門をくぐると、聞こえてくる生徒たちのざわめきがやけに大きく感じた。


すると、周りの登校中の生徒たちの会話が耳に入ってきた。


「昨日の映画の記者会見見たか?」

「ああ、あれ? 兎仮面のやつ? あれウケるよな~」


そんな会話と共に、生徒たちが腹を抱えて爆笑している。

声が聞こえるたびに、僕の心臓が縮み上がる。


……終わった。


もうダメだ。

僕の平穏な学生生活は今日で終わりだ。

登校する生徒たちの視線が痛い。いや、もはや視線という名のビンタだ。


「いや、あのお面の動き、ツボるんだけど!」

「スロー再生すると、破壊力倍増!」


笑いをこらえる気すらない生徒たちの幻聴が聞こえてくる。


僕の尊厳はもはや崖っぷちで震えている。

まるで校内の珍獣と化した気分だ。


頼むから、動昨日のシーンを動画投稿するのだけは辞めて欲しい


いや、待て。もしかしたら、みんなそこまで気にしてないかもしれない。

あれは一瞬の失態だったし、むしろ僕はマイナーな作家だ。そんなに注目されるはずが──


「いや、あの『あっ!?』って所の変な動き!スロー再生して三回見た!」


……思いっきり注目されてるじゃないか。


そんなことを考えていると、今度は別の生徒たちの会話が耳に入ってくる。


「最初に聞いたとき『うちの学校にいるんだ~』って驚いたけど、あれって違うらしいね」


「え? そうなの?」


「知らないの? あれはパニックになってた作者の人が、うっかり映画の舞台が天野宮高等学校だってバラしちゃっただけらしいよ」


「あ、そうなんだ! なんだ、驚いて損しちゃった。でも待って、じゃあロケうちの学校でやるってこと?何それ、激熱じゃん!」


「ね~、やってほしいよね~。そしたら幸田昴にも会えるかも!」


女子生徒たちは楽しげに話しているが、僕はただの置いてけぼり状態だ。


舞台? ロケ? いったい何の話をしているんだ?


思考が追いつかず混乱していると、突然ポケットの中で携帯が震えた。画面を見ると、発信者は担当の緋崎さんだった。


「おはようございます」と挨拶すると、緋崎さんはすぐに返した。


「おはよう、はじめ先生。昨日は……まあ、寝られなかったわよね?」


「察しの通りです……」


僕のかすれた声に、電話越しでも緋崎さんは苦笑しているのが伝わる。


「まあね。けど、安心して。昨日のトラブルなら、なんとかなるわよ」


「ほ、本当ですか!?」


思わず声が裏返る。こんなに希望を感じたのは久しぶりだ。


「ええ。でも……まあ、ちょっと面白いことになってるけど」


「え、面白いことって……?」


言い淀む緋崎さん。なんだろう、この嫌な予感は。


「昨日の発言だけど、映画の舞台が天野宮高等学校だって話になってるわ。正式発表前にバレるのはまずいから、先生には途中退席してもらった、ってことで処理したの」


……あの女子生徒たちの話は、このことだったのか。


「元々ロケ地の候補には入ってたし、前から打診はしてたのよ。だから何とか誤魔化せたわ」


緋崎さんはため息混じりに続けた。


「記者たちも納得してくれたけど、むしろ“テンパった原作者がうっかりバラす”っていうのが面白いって話題になってるわね。映画制作側としては痛手だけど、先生の身を守るためってことで全面バックアップしてくれたの。今頃、報道各社でも誤解が解けるように調整してるから、しばらくは大丈夫よ」


それを聞いて、僕は心の底から安堵した。

胃の奥につかえていた鉛の塊が、ようやく少しだけ軽くなった気がする。


「本当に……本当にありがとうございます!」


思わず深々と頭を下げたくなるほど感謝の気持ちが溢れる。

こんな失態をやらかした僕をフォローしてくれるなんて、緋崎さんには足を向けて眠れない。


だが、その感謝の余韻も束の間、電話越しの緋崎さんの声が、ふっと沈んだ。


「ただ、一つだけ問題があってね……」


空気が一気に凍りついた。


「も、問題って……?」


ゴクリと喉を鳴らしながら尋ねる。


突然、背後にある校門の方から歓声があがった。


「香坂真凛だ!」「篠宮神楽もいるぞ!」


生徒たちの叫び声が校門前で渦を巻くように広がっていく。僕は反射的に視線を向けた。


そこには、見慣れたはずなのに、まるで別世界の住人が降り立ったかのような光景が広がっていた。穏やかな笑みを浮かべ、柔らかい雰囲気を纏う香坂真凛。その隣で、いたずらっぽい笑みを浮かべ、どこか挑発的な視線を向ける篠宮神楽。


なんで二人がここに……?


僕は携帯を耳に押し付けたまま、呆然と立ち尽くした。


「問題って、これですか……?」


心底疲れた声で緋崎さんに問いかける。すると、電話越しに彼女はさらに深刻な声で返した。


「いいえ、更に深刻よ。その二人、何で学校に来たと思う?」


「……聞きたいような、聞きたくないような……」


恐る恐る問い返すと、緋崎さんがゆっくりと息をついて告げた。


「はぁ……実は、天野宮高等学校に、転入届の書類を提出しに、そっちに行ってるみたいなのよ」


「……は?」


思考が追いつかない。いや、追いつきたくもない。


「ちょっと待ってください、何ですかそれ。転入届? 一時的なロケじゃなくて?」


「そうね、がっつり生徒になるつもりみたいよ」


「いやいやいや、待ってください。そんな大事なこと、僕に事前連絡なしですか?」


「私もさっき知ったのよ。驚いたのはこっちだわ」


その瞬間、僕の手から携帯が滑り落ちた。コツン、と地面にぶつかった音が、妙に現実感を帯びて聞こえる。


――これはもう、冗談じゃ済まされない事態かもしれない。

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