時刻は夜九時。私はリビングのソファーに座り、水玉模様のパジャマ姿でクッションを抱えたままスマホを片手に雅と通話していた。
テレビでは父がニュースを観ているが、私は今、もっと衝撃的な話を聞いてしまい、思わず声を上げてしまった。
「ええっ!伍代先輩とそんなことがあったの!?」
私の大きな声に、ソファーの向こうでテレビを観ていた父が「うるさいぞ葵」と軽く注意してきたが、そんなの気にしている場合じゃない。
私はスマホの向こうの雅に食い気味に問いかける。
「ちょっと待って、それ本当?昨日のデートで伍代先輩にキスされそうになって、そこに突然啓が現れて止めたって……?」
『……うん、啓が私を止めようとして、伍代先輩に騙されてるって……それに、啓のお姉さんの響子さんも一緒だったの』
雅の声はどこか不安げで、動揺が伝わってくる。それもそうだろう。
まさかそんな劇的な展開が実際に起こるなんて、私だって想像もしていなかった。
「それで、雅は大丈夫だったの? 伍代先輩、何か言ってた?」
『……それが、何も言わずに行っちゃった。私、まだ何が本当なのか分からなくて……』
雅が小さくため息をつく。
私は心配になりながらも、ふと今日の昼間のことを思い出した。
「ねえ雅、ちょっと話しておかなきゃいけない事があるんだけど……昼間、私、伍代先輩と鷹松先輩、それに小夏が一緒にいるのを見かけたの」
『え?小夏も?』
「うん。三人で近所のファミレスにいたんだけど、なんか妙だったんだよね。普段なら伍代先輩と鷹松先輩が一緒にいるのは分かるけど、そこに小夏が加わるのって、ちょっと違和感があってさ」
スマホの向こうで雅が息をのむ気配がする。
「しかも、私が近づいた時にね、三人が妙な会話をしてたの。全部は聞き取れなかったけど、『写メがどうのこうの』とか、『雅……逃げられない』みたいなことを言ってたのよ」
『……!』
「それにね、三人の様子もおかしかった。伍代先輩と鷹松先輩がすごく苛立ってて、小夏は……なんていうか、普段の可愛い後輩キャラじゃなくて、冷たい目で二人を見てたのよ」
雅は何も言わない。沈黙の向こうで、彼女がどれほど不安になっているのかが伝わってくる。
「だからさ、全部がハッキリするまでは気をつけた方がいいよ。何かあるかもしれない」
『……うん、ありがとう葵。気をつけるね』
一瞬、少しだけ落ち着いた雰囲気になったが、私はなんとなく言いづらいことを思い出してしまい、もぞもぞとクッションを抱きしめる。
「ところで話は変わるけど……」
『うん?』
「……雅、その……伍代先輩とは……キ、キス……したの?」
私は顔が熱くなるのを感じながらも思わず聞いてしまう。
スマホ越しに雅がすごい勢いで動揺するのが伝わってきた。
『な、なななな、何言ってるのよ! してないってば! 迫られたけど、したいとは思えなかったから、ちゃんと断ったの!』
「そ、そうなんだ……よかった……」
『よかったって何よ!』
「いや、ほら……」
私は笑ってごまかしながらも、やっぱり気になっていたことを聞いてしまう。
「でも、なんで雅は伍代先輩と付き合うことにしたの? 私、正直ちょっとびっくりしたんだけど」
雅は少し戸惑いながら、ふう、と息を吐いた。その沈黙の間に、彼女が何かを決意したような気配が伝わってくる。
しばらくして、彼女はようやく話し始めた。
『……伍代先輩ね、私が告白を断った時に言ってたの。自分が今小説を書いていて、それをコンテストに応募するって。それで、もし賞を取れたらもう一度告白する、だから君を物語の主人公として書かせてもらいたいって』
「え、それって……!」
私はハッとして雅の話を遮った。
「それってさ、啓が昔、私たちにした約束と同じじゃない?」
雅は驚いたように息を呑む。そして小さく呟いた。
『そう……。でも、まさかこんな偶然があるなんて思わなかったの。私の夢を叶えてくれるって言ってくれた人が、啓以外にもいたなんて……』
「でも、その伍代先輩が……」
『……うん』
その瞬間、雅の声が少し沈んだ。
『まだ確かめたわけじゃないけど、もし伍代先輩が私を騙していたのなら……ちゃんと自分自身にもけじめをつけるつもり』
雅の言葉は力強かった。私は、ほんの少しだけ、彼女が前よりも強くなったように感じた。
その時だった。
「おい、葵! テレビ見てみろ」
突然、近くでニュースを観ていた父の声が響いた。私は驚いて振り返る。
「え、雅、ごめん、なんかお父さんがニュース見ろって言ってる」
『え、なに? 私もみてみる。ニュースって、どれのこと?あ、これかな……映画の製作発表会?』
私はリビングのテレビに視線を向けた。
画面には兎の仮面を被った華奢な男の子が映し出されていた。彼は映画の記者会見のような場所でマイクの前に立っている。
「何これ……?」
私は思わず呟く。どうやら最近話題になっている小説『二人と一人』が映画化されるようで、その発表会がニュースで取り上げられているようだ。しかし、私の視線は、マイクに立つその少年に釘付けになっていた。
——兎の仮面。
その瞬間、私の脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。
小学三年生の夏休み、花火大会の夜。
浴衣を着た私は、お父さんとお母さんとはぐれ、見知らぬ人々の波の中に取り残されていた。
ぼんやりと揺れる提灯の灯りが、涙に滲んでゆらゆらと揺れる。
目の前の景色がぐにゃりと歪むのは、不安と恐怖のせい。
ざわざわとした人々の話し声が遠くに響き、頭上では大輪の花火が弾ける音が夜空を裂くように響いていた。
けれど、その華やかさも、私にとってはただの騒音だった。
足元の草履が擦れ、痛みがじわじわと広がっていく。
どこに行けばいいのかわからない。
浴衣の袖を何度もぎゅっと握りしめるが、それはただの布で、私を守ってくれるものではなかった。
まるで、自分だけが違う世界にいるような感覚
。目の前を楽しそうに笑う家族連れや、友達同士でふざけ合う人たちが通り過ぎる。それなのに、私はここで一人きり。
どうしよう、どうしよう。どこにも知っている顔がない。
鼓動が速まり、涙が頬を伝う。
視界がぼやけ、息が詰まりそうになる。
喉の奥で小さく嗚咽がこみ上げ、もう声すら出せなかった。
「……大丈夫?」
ふと、声をかけられた。
見上げると、兎の仮面をつけた男の子が、私を見下ろしていた。
私は、泣きじゃくるのをやめられずにいたけれど、彼は優しく手を差し出し、私の手を握ってくれた。
その手は温かくて、震えていた私の指先を包み込んでくれた。
「誰かとはぐれたんだね、一緒に探してあげる」
そう言ってくれた声は、どこか安心感を与えてくれる、不思議な響きを持っていた。
やがて私は両親と再会でき、ほっとした時——彼は仮面を外し、柔らかく微笑んで言った。
「よかった」
暗闇の中で、花火の光に照らされたその顔は、優しくて、どこか儚げだった。
その時の彼の顔を、私は忘れたことがない。
そう……それこそが、私と啓が初めて交わした出会いだった。
「……え?」
私はテレビ画面を食い入るように見つめる。
だって、あの時の兎の仮面と、今テレビに映る仮面の形が、全く同じだったのだから。
『ちょっと葵、どうしたの?』
電話の向こうの雅が私の様子に気づいたようだ。
「……昔、兎の仮面をつけた男の子に助けてもらったことがあるんだ」
私の言葉に、雅が少し驚いたような声を漏らす。しかし、驚きはそれだけじゃなかった。
記者が質問を投げかける。
『蘭学事啓先生は高校生なのですよね?』
すると、仮面の男の子が、はっきりと答えた。
『天野宮高等学校です!』
その瞬間、会場が騒然となり、テレビのアナウンサーが『ええっ!?』と動揺する。
私は目を見開く。息が止まる。心臓が跳ね上がるような感覚。雅の声が遠くに聞こえる。
『今……天野宮高等学校って言ったよね?』
電話越しの雅の声が驚きに震えている。私は無意識のうちに頷いた。
『これって……葵が貸してくれるはずだった、あの二人と一人の映画制作発表だよね? つまり、その原作者が……私たちの学校にいるの!?』
雅の声が頭に響く。でも、私の思考はまとまらない。
だって、蘭学事啓——啓の名前と同じ。そして、兎の仮面。
これは偶然なの……?
見も下で私の名前を呼ぶみや雅の声が聞こえたが、私は返事を返すわけでもなく、ただ押し黙るしかなかった。