そう書かれた説明資料を読みながら、僕──蘭学事啓こと相沢啓は今、映画の制作発表記者会見の楽屋で待機していた。
豪華な照明が柔らかく壁を照らし、大理石のカウンターにはミネラルウォーターやフルーツの盛り合わせが並べられ、壁には映画のポスターが美しく飾られていた。
ソファは黒いレザーで統一され、深く座ると身体が吸い込まれそうな感覚に陥る。空調の微かな音が静寂を保ち、そこかしこに飾られた花々の香りがほのかに漂っている。
一般人の僕でも、思わず自分が業界人にでもなった気分にさせる豪華な部屋づくり。
でも、何かがおかしい。
具体的に言うと、両隣にいる人物たちがだ。
「はい先生、あ~ん」
右隣にいた神楽がそう言うと、反対側にいた真凛が口をとがらせ、「あ、ずるい!今度は私の番でしょ!」と抗議する。
「順番なんて最初から決めてませ~ん」と開き直る神楽。
……いや、違うでしょ。
ここは僕に用意されたはずの楽屋なのに、なぜか記者会見用に華やかなドレスを身にまとった真凛と神楽が、お弁当を持ち込んで乱入していた。そして今、僕に「あ~ん」を強要している真っ最中だ。
「あの、二人とも……これは一体何なのかな?」
恥ずかしくて耐えきれなくなった僕が思わず尋ねると、二人はキョトンとした顔をした。
相変わらず彼女たちは絵に描いたような美少女で、まるで高級ブランドのショーから抜け出してきたかのような華やかさがある。
真凛のドレスはシンプルながらも品があり、彼女の透き通るような白い肌を際立たせていた。
一方の神楽は、大胆なスリットが入ったデザインを難なく着こなし、わずかに流れる香水の匂いまで計算されているようだった。
そんな二人に挟まれる形になった僕は、ふと自分が場違いな存在なのではないかという感覚に襲われる。
芸能界の光の下に立つ彼女たちと、冴えない僕──このコントラストに胸がざわついた。
すると真凛が微笑みながら言った。
「ん?何って、幼馴染なら当たり前のことですよ、啓先生?」
「そうだよ先生、こんなの今時常識じゃん、はい、あ~ん」
僕は目を見開いた。
「え? ち、違うよね? それ、僕の知ってる幼馴染と絶対違うような気がするけど!?」
慌てる僕をよそに、二人は何のことか分からない振りをして、なおもおかずを僕の口元へ運ぼうとしてくる。
二人が言う幼馴染とは、前回僕の家に来た時のことを指している。
『私たちが……先生の幼馴染になっちゃダメですか?』
あの時真凛たちが言った言葉、つまり、僕の書いた小説『二人と一人』の中に登場する幼馴染たちのようになりたいということなのだろう。
でも、おかしい。
僕が書いた幼馴染たちは、こんな「あ~ん」なんて恥ずかしいことをするシーンはなかったはず……。
ひょっとして、映画の脚本にはあったりするのだろうか?
「それより、今日のドレス、どうですか先生?」
不意に真凛が、まるでお姫様が舞踏会でくるりと回るようにドレスの裾をふわりと広げた。その動きに合わせて、柔らかな布地がふわっと揺れ、繊細なレースが光を反射してきらめく。
「ふふっ、どうですか?」
真凛はまるで子供が褒められたくて仕方ないかのように、上目遣いで僕を見つめる。
その表情は普段の清楚なイメージとは少し違い、どこか甘えたような雰囲気を醸し出していた。
「に、似合ってる……と思う、あ、いや、思います」
そう言葉を紡ぐと、真凛はぱぁっと顔を輝かせて、嬉しそうに頬を染めた。
「えへへ、よかった」と小さくつぶやく彼女の声が妙に可愛らしく、僕は思わず視線を逸らしてしまう。
戸惑う僕。
すると神楽がニヤリと笑い、僕の顎をすっと指で持ち上げ、僕の顔を半ば強引に振り向かせた。
「先生、私のはどう? ちょっと大胆すぎたかなぁ?」
挑発的な視線を向けながら、胸元の開いたドレスのラインを指でなぞる神楽。
わざとらしく体を寄せてくるその仕草に、僕は完全に翻弄されてしまう。
「ねぇ、先生ってば?」
神楽が唇をゆるく噛みながら、ふわりと甘い香りを漂わせた瞬間、僕は一気に動揺した。
「っ!? ちょ、待っ……!」
「ふふ、先生、顔赤いよ? かわいい~」
耳元でささやかれるその声に、僕は限界を感じた。
「ずるい!先生、私のこともちゃんと見てください!」
真凛は唇を尖らせながら、僕の背中にぴたりと密着してくる。
わざとらしく甘えた声で耳元に囁かれ、ぞくりと背筋が震える。
「ああ、あの、ふ、二人ともっ!」
──コンコン。
控室の扉をノックする音が、静まり返った部屋に響いた。
瞬間、三人は息をのんだように動きを止めた。
僕はハッとし、慌てて手元のウサギの仮面を取り、急いで装着する。
ちなみにこの兎の仮面は、万が一を考えて持参してきたものだ。
案の定、緋崎さんが用意してくれていたマスクは、どこぞのアメコミヒーローのナイスガイな男の仮面だったため、即破棄させてもらった。
よし……。
額に滲んだ汗が、マスクの内側でじんわりと広がる。。
「先生、それ似合いすぎて可愛いんだけど」
神楽がクスクスと笑い、真凛も「まるでマスコットみたいです」と可愛らしく微笑んだ。
こんな緊迫した状況でも、彼女たちは余裕の表情だ。
僕は喉の奥で小さくため息をつきながら、慎重に扉へと歩み寄る。
指先がノブに触れた瞬間、心臓がひときわ大きく跳ねた。
「はい」
できるだけ平静を装いながら扉を開けると、目の前には高身長の金髪の男性が立っていた。
「おや、本当に顔を隠してらっしゃるんですね。初めまして先生。こちらにいらっしゃると聞いて挨拶に来ました」
男は端正な顔立ちに爽やかな笑顔を浮かべながら、スムーズに言葉を投げかけた。その立ち居振る舞いは堂々としており、芸能界に長く身を置く者特有の自信が感じられる。
「あなたは?」
僕が問いかけると、彼は軽く笑い、手慣れた仕草で自己紹介を始めた。
「申し遅れました。僕は今回、主人公の大人役を演じる事になった
幸田 昴。
その名前を聞いた途端、僕の中に小さな違和感が芽生えた。芸能界に疎い僕は、幸田昴という名前を深く知らない。だが、背後にいる真凛と神楽の反応が、何かおかしかった。
一瞬で表情が変わり、視線をそらしながら僕の影に隠れるように身を寄せる二人。
その肩はわずかにこわばり、神楽は珍しく無言のまま唇を噛んでいた。
真凛もいつもの優雅な微笑を消し、気まずそうに下を向いている。
彼女たちの反応の理由はわからないが、この男には何かある──それだけは確信できた。
「おや? 真凛ちゃんと神楽ちゃん、こんなところにいたんだね」
幸田さんはにこやかに話しかけたが、その瞳の奥にはどこか乾いた冷たさが漂っていた。
表情こそ柔らかいものの、どこか感情の読めない無機質な雰囲気があり、じわりとした違和感が背筋を這い上がるようだった。
「二人とも、なんだか僕のこと避けてない? 何か気になることがあるなら、今度ゆっくり話せたらいいね。そうすれば色々誤解も解けそうだし」
余裕の笑みを浮かべる彼。しかし、それを受けた真凛と神楽の肩はわずかに震えていた。
僕は心の奥で警戒心を募らせながら、仮面越しに冷静を装うよう努める。
「良ければ握手してもらえますか?」
そう言って差し出された手。
「も、もちろん……」
ぎこちなく手を伸ばすと、いきなり予想以上に強い力で握りしめられた。
「痛っ……!」
思わず顔をしかめる。
「おっとすみません、大先生と握手なんて滅多にない機会だったんで、つい力が……」
わざとらしい口調で言う幸田さん。
その時、廊下の奥からスタッフの声が響いた。
「すみません、時間です!入場の準備をお願いします!」
「では、また会場で」
そう言って、幸田さんは軽く手を振り、背を向けて去っていった。
僕は彼の背中を見送りながら、握られた右手をそっと開いた。じんわりとした鈍い痛みが残っていて、指先まで違和感が走る。
なんて馬鹿力だ。
無意識に手をさすりながら、痛みを紛らわせようとする僕を、真凛と神楽が心配そうに見つめていた。
真凛がそっと僕の袖を引き、神楽も少し眉をひそめながら僕の手を覗き込む。
「先生、大丈夫ですか?」
真凛が小さな声で問いかける。その瞳には明らかな不安が滲んでいた。
神楽も、普段の余裕のある態度とは打って変わり、唇をかみしめながら僕の手元を見つめている。
「大丈夫。ちょっと驚いただけだから」
僕は努めて落ち着いた声で答え、二人を安心させるように微笑んだ。
けれど、二人はまだ納得していないようだった。そんな彼女たちを見て、ふと思い出すことがあった。
「ねえ、二人とも……幸田さんって、もしかして苦手?」
その言葉に、真凛と神楽は目を見合わせ、少し言い淀んだ。そして、どちらともなく小さく頷く。
「……実は、事務所を通じて、何度も圧力をかけられてるんです、あの人の所属する事務所、っけこう大手だから」
「私たちと食事の場を設けるようにって、強引に。今のとこ社長が理由つけて断ってくれてるけど……」
二人の言葉に、僕は眉をひそめた。
真凛と神楽の事務所は新興芸能事務所、明らかに分が悪い。
彼女たちの立場が圧倒的に弱いことは明白だった。
「そんなことが……」
何か言葉を返そうとしたが、どう言っていいのかわからなかった。
でも、こんなにも悩んでいたことに気づかなかった自分が情けない。
二人とも仕事では堂々としていて、僕よりずっとしっかりしているように見えていたのに、こんな風に苦しんでいたなんて。
僕は少しでも元気づけられたらと、ふたりの顔を見つめながら、できる限り穏やかな声で言った。
「……二人とも、大変だったね。でも、僕は君たちのこと、すごいと思うよ。どんな状況でも努力し続けてるし、こんな状況でも前を向こうとしてる。だから……思い悩まないで。何かあったら、僕も力になるから」
僕の言葉に、真凛は少し驚いたように瞬きをし、神楽は口元を噛みしめる。
「先生……」
真凛がそっとつぶやき、神楽も小さく笑った。
「先生って、いつもそうだよね。そういうとこ、大好き」
彼女たちの表情が、少しだけ和らいだ気がした。
これでほんの少しでも気持ちが軽くなればいい。そう願いながら、僕は小さく頷いた。
「先生、そろそろ時間だよ」
神楽が僕の袖を引く。気づけば、会場へ向かう時間が迫っていた。
「……わかった。ありがとう」
僕は気を引き締め、深く息を吸い込む。そして、三人で会場へと向かった。