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第22話 重なる面影、虚実の代償

 冬の冷たい夜風が都会の街を吹き抜ける。

鋭く肺の奥まで突き刺さるような冷気が喉を締めつけ、足元のアスファルトから立ち上る夜の湿った空気が、静かに呼吸を押し戻してくる。

高層ビルの明かりが遠くに煌めき、ネオンが乱反射する川面がきらきらと輝いていた。


だが、僕たちが向かう先は、その喧騒から遠ざかるように広がる、静寂に包まれた公園の奥深くにある暗がりだった。


街の雑踏が徐々に遠のき、代わりに木々のざわめきと、足元で枯れ葉を踏みしめる音だけが響く。


響姉と僕は、捕らえた男を前にして黙々と歩いていた


男は怯えた目をして、チラチラと僕たちの様子を伺っている。響姉の圧が効いているのか、それともあっさり捕まったことに動揺しているのか、とにかく大人しく案内役を果たしていた。


 「……それで、啓」


響姉がふと、静寂を破るように口を開いた。


 「雅とは、今どういう関係なんだ?私の記憶違いでなければ、お前らはただの幼馴染のはずだろ?なのにやけに雅の心配をしているし、あんなに取り乱した啓を見るのも……」


突然の問いかけに、僕は息を呑んだ。暗がりの中、響姉の横顔がぼんやりと月明かりに照らされる。


彼女の表情は読み取れなかったが、その声には確かな不安と疑念が含まれていた。


 「どういう関係って……別に普通の幼馴染みだよ」


 「本当か?」


響姉は疑わしそうに僕の顔を覗き込んできた。


僕は目を逸らし、前を歩く男の背中を睨むように見る。


 「……ちょっと前に、告白したんだ」


その言葉を口にした途端、響姉の歩みがぴたりと止まった。


僕も足を止め、ゆっくりと姉の方を向く。


 「告白……?」


響姉の瞳が大きく見開かれる。


 「でも、振られたよ」


僕は乾いた笑いを浮かべた。


 「なんで?」


 「努力もしない、結果も出さない、約束も守らない。口だけの男だってさ」


自分で言っておいて思わず情けなる言葉だ。

大好きだった女の子に、こんな風に思われていたという事実が、僕の心に重くのしかかる。


 「……ふざけてるのか?」


その瞬間、呟くように言った響姉の顔が、みるみる怒りに染まっていく。

響姉は拳を握りしめ、眉間に皺を寄せている。


 「啓は誰よりも努力して、プロの小説家になって、波木賞まで取ったんだぞ?それがどれだけ大変なことなのか、雅は知らないの……?」


僕は何も言わず、ただ静かに頷いた。


誤解を解こうと思ったことはある。

本当はちゃんと書いてたんだよ、賞だって君のために取ったんだと、声を大にして言いたかった。


だけど……できなかった。


信じてもらえなかった事が、何よりもあんな風に思われていたことが、とにかく悔しくて、悲しくかった。


何年も何年も孤独の中で書き続けたあの日の僕。それを知っているのは僕だけだ。だからこそ余計に辛くなる。


 「それだけじゃない。雅は伍代先輩……いや、伍代って奴に告白されて、僕よりも好きだって言ったんだ……」


響姉の顔が完全に凍りつく。


 「……ありえない」


「本当だよ、面と向かってハッキリ言われたから……」


吐き捨てるように言った響姉の目には、もはや憤怒を通り越し、呆れているかのようにも見える。


ちょうどその時、前を歩く男が足を止め、こちらに振り返りながら小声で言った。


 「こ……ここが目的の公園だ」


響姉は深く息を吸い込み、僕をじっと見た。


 「啓、雅には何も言うな。啓がプロになったことも、波木賞を取ったことも、約束を守る準備は整ってたってことも。何も言わくていい」


 「え?……どうして?」


「そんなの、最初から啓のことを信じていれば、こんな事にならなかったからだ。自分で気づかせないと駄目だ。でなきゃ、また同じことの繰り返しになる。自分で確かめようともせず啓の事を勝手に貶めたんだ、その責任は、自分自身で償うべきだと私は思う」


僕は黙り込む。確かに、それも一理あるのかもしれない。


誤解させるようなことをしてしまった僕にも責任があるとはいえ、あそこまで傷つけられ、全てなかった事にできるほど、僕の心は強くはない。


響姉の言葉を胸に刻み、決意を固めた。


そして、公園のベンチへと視線を向けたる。


そこには、伍代と雅がいた。


伍代は雅の肩を抱き、まさに唇を近づけようとしていた。

雅の目は戸惑っているように見えたが、拒む素振りは見えない。


その光景を目の当たりにして、僕の胸に込み上げる感情は言葉にできないものだった。


 「……っ」


思わず足を踏み出す。


「あ、あの、先輩やっぱり私できません……」


「なっ!ここまで来て何言ってんの雅ちゃん」


そう言って伍代が痺れを切らしたかのように雅に迫った。


「雅!」


静かな夜の公園に、僕の声が反響するように響く。


こちらの存在に気づいた雅の瞳が驚きに揺れた。


雅は近づく伍代の顔を、手で押しのけるようにしてかわした。


伍代も何事かと振り返った。そして僕の背後で、気まずそうに立っている男の顔を見て動揺し、顔を引きつらせている。


 「啓!?これは、一体どういうこと?それにその女の人……また知らない女と……!」


 「それはこっちのセリフだよ」


僕は低く呟いた。


 「なんで伍代先輩と付き合ったんだ。なんでキスしようとしてた?」


こんな事聞きたいわけじゃなかった、でもとめどなく溢れる感情が抑えられない。


雅は困惑しながらも、僕を見返した。


 「キ、キスなんてしてないわ!本当はしたくなかったんだから!!た、ただその……怖くて固まっちゃって……パニックになったら何も考えられなくなって……」


言い淀み戸惑う雅。どうやらそれは本心のようだ。


一瞬、今の雅の姿が、困り果てた時の幼い雅の面影と、ダブって見えた。


まあ好きだからとハッキリ口にされなかっただけでも、まだましな返答だったかもしれない。


 「はぁ……雅、伍代は君を騙してたんだよ」


ため息をつき、そう告げる僕の言葉に、雅の顔が見る間に強張っていく。


 「昼間、雅をナンパしたっていう男はこの人?」


僕がそう聞くと同時に、響姉がデニムジャケットを着た男を、前に出るようせっついた。


ふらついた足取りで前に出る男、その顔と伍代の顔を交互に見返す雅。


「な……何?……ど、どういう事」


「伍代の仲間だったんだよ。全部仕組まれた自作自演だったんだ。昼間雅をナンパしたのも、そして本来ならここで雅たちに絡む手はずだったことも、全部この男の人から聞いたよ」


ショックで固まったままの雅の瞳が、震える。


 「……嘘、でしょ……?」


 「嘘じゃない。それとも僕は口だけの男だから信用できない……?」


そう言って僕は自虐的に笑って見せた。


雅は崩れるようにベンチに腰を下ろし、膝に手をついた。


肩が震えている。そんな彼女に、響姉が一歩前に出た。


 「久しぶり、雅ちゃん」


雅は驚いて響姉を見上げた。


 「え……?あ、あなたは?」


 「私は啓の姉、相沢響子だよ、まあ髪も染めてるし前より垢抜けちゃったから分かんなかったか」


 「……!」


 雅の顔が驚きに染まる。しばらくして、それが納得に変わった。


 「雅ちゃん、君はもっと自分の目で物事を確かめるべきだ」


「自分の目……?」


その返事に響姉が黙ったまま頷き、再び口を開く。


「他人任せで自分の見たいものしか見ない……だからそうやって真実を見失うんだよ」


「……真……実」


雅は言葉を失い、静かに俯いた。


響姉は深く息を吐き、雅の肩にそっと手を置いた。その掌から伝わる微かな温もりを感じたのか、震える雅の肩をわずかに揺らす。


 「もういいよ。今日は帰りなさい、家まで送ってくから」


囁くようなその声には、静かな慈しみと、それでも譲れない強い意志が込められていた。


雅はぼんやりと響姉を見上げた。

目の奥にはまだ動揺と戸惑いが滲んでいる。


彼女は何かを言いかけたが、言葉にならないまま唇を噛みしめた。


響姉は雅の手を取り、そっと立たせる。

その瞬間、雅の身体がかすかに揺れ、寒さと衝撃で力が入らないのか、よろめきそうになる。


 「……大丈夫?」


響姉は雅の腕を支え僕に向かってこくりと頷くと、ここへ来る途中にあったタクシー乗り場へと歩いて行った。


 辺りを見回すと、いつの間に逃げたのか、あの男も伍代の姿も見当たらなかった。


公園には、冷たい夜風が木々の間を駆け抜け、葉擦れの音が静かに響いていた。


僕はひとりその場に立ち尽くした。


寒さが身体の奥まで染み込んでいくのを感じながら、胸をしめつけるようなこの感情が何なのか、自分でも整理できずにいた。


ただ、喉の奥に重く鈍い何かが絡まり、息をするたびに苦しくなる。


まるで心の奥底にぽっかりと空いた穴が、冷たい夜の空気を飲み込んでいくようだった。


それでも、何も言葉にできなくて、僕はただ虚しさを噛みしめながら、震える拳を強く握りしめた。

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