焼肉店の扉を押し開け外に出ると、焼けた肉の香りが混じる暖気が背後に流れ込んできた。それと同時に夜の冷気が鋭く肌を刺す。吐いた息が白く染まり、しみるような寒さに、思わず体を縮こまらせた。
夜の街は冷え込み、風が吹き抜けるたびに歩道の端の落ち葉が舞い上がった。
ビルの窓に映るネオンの光がぼんやりと広がり、車のテールランプが赤くにじむ。
信号が変わり、立ち止まっていた人の流れが動き出す。道路を渡る人々はコートの襟を立て、足早に通り過ぎていった。
「ふぅ、食べすぎたな」
響姉が満足げに息を吐き、軽く背伸びをする。
僕も満腹感を覚えながら小さく頷く。お腹いっぱいになったせいか、気持ちまで落ち着いていた。
ふと、響姉が夜空を見上げ口を開いた。
「すっかり暗くなったな。昼ごはんのつもりが、気づけば晩ごはんになってしまった」
僕はため息をついて姉をちらりと見た。
響姉が視線をついと、横に逸らす。
昼に食事に行くはずだったのに、響姉は「ちょっとだけ休む」と言って僕のベッドに潜り込み、そのまま熟睡。
何度声をかけても起きず、結局夕方になってようやく目を覚ました。
「それは響姉が、僕のベッドを占領して熟睡してたからでしょ」
僕は諦めて放っておいたが、目覚める気配は一切なかった。
「ふむ、それなら啓も一緒に寝ていたじゃないか」
当然のように言う響姉に、僕は眉を寄せる。
「僕はずっと起きてたよ。響姉が寝てる間に無理やり抱きついてきて、動けなくなってただけだからね」
何度か抜け出そうとしたが、響姉は寝ぼけたまま腕を絡めてくる。まるで猫が飼い主にしがみつくようで、振りほどくのは不可能だった。
「なるほど」
響姉はなぜか満足そうに頷き、金色の髪を軽くかき上げた。そして、どこか誇らしげに微笑む。
「つまり、私と啓は夢の中でも相思相愛ということだな」
「……いや、どうしてそうなるの?」
夜の静けさが、二人の間に微妙な間を作る。
響姉の発想は、やはり僕には理解不能だった。
「だって、私が寝ている間も、啓はずっとそばにいたのだろう? それはつまり……」
「もういいから、帰ろう」
僕はポケットに手を突き込み、小さくため息を吐きながら歩き出した
響姉は微笑みながら後ろをついてくる。寒さが身に染み、僕は思わず肩をすくめた。
ふと、前を歩くジャケットを着た二人の男が視界に入った。やたらと酒の匂いを漂わせ、何やら話し込みながら歩いている。
「昼間のあの女、なかなか良い女だったよな」
「マジでそれな。伍代の野郎に頼まれてなかったら本気でナンパしてたのによ」
伍代──?
その名前を聞いた瞬間、僕は思わず足を止めた。
「確か……雅、だったか?」
「ああ、そんな名前だったな」
雅!?
僕は思わず息を呑んだ。
「とりあえず、もうすぐ約束の時間だ。今頃公園にいるだろうな」
「ああ、キスが合図だったっけ?」
言いながら男が鼻で笑う。
「ああ。伍代が雅って女にキスしたらそれが合図なんだとよ。笑えるよな」
僕は息を飲んだ。
「もしキスできなかったらどうするんだ?」
男たちは揃って、くっくっと笑い出した。
「はは、まあどっちでもいいんじゃね? とりあえず、俺たちは偶然あいつらと再会して、因縁付けるだけの簡単なお仕事だからよ」
「しかもやらせな、しっかし伍代もめんどくせえこと考えるな。いつもみたいに奴が口説けば女なんてほいほい着いてくるだろ」
「それが、今回の女はガードが堅いんだとよ」
「あ~、確かにあの女、真面目そうな感じだったからな」
「それにしても、伍代に自作自演で守られて胸キュンしてお持ち帰りされちゃう雅ちゃん、哀れ過ぎて可哀そう~」
男の下卑た笑い声が響く。
「全然可哀そうに思ってねえだろ、まあ真面目な女ほどそういうシチュに弱いんじゃね?」
男たちはバカバカしいと言わんばかりに笑い合っていた。
でも、僕にとっては余りに笑えない話だ。
「それにしても、伍代もめんどくせえこと考えるな。いつもみたいに奴が口説けば女なんてほいほい着いてくるだろ」
「それが、今回の女はガードが堅いんだとよ」
「あ~、確かにあの女、真面目そうな感じだったからな」
どうしよう、このままじゃ……!
頭が真っ白になる。何をしたらいい?どうしたら止められる?
焦りで思考が追いつかない。
僕が混乱し身動きできないでいると、響姉が隣で小さく呟いていた。
「雅?どこかで聞いたことがある名前だな?そういえば……小さい頃啓の周りをうろちょしていた泥棒猫の一人に、そんな名前が……」
「ど、泥棒猫ってなんだよ」
僕が思わずツッコむと、響姉は得意げに笑った。
「ふふふ。これまで啓に近づいてきた女共の名前は、全てチェックしているからな」
「こわいよ!」
「いやいや大事なことだ。確か……天音雅、立花葵、それから幸田早苗に鈴村小……」
「ちょっと一旦待って、今はそれどころじゃないよ響姉」
僕は響姉の言葉を遮り、小声で囁いた。
「さっきの男たちの話、聞いてたでしょ?もしあれが僕たちの知ってる雅だったら助けなきゃ」
響姉はふぅと息をついた。
僕は焦りに駆られながら響姉の顔を覗き込む。
だけど、響姉はどこか面倒くさそうな顔をしていた。
「……本当に行くのか?」
ぼそりと呟きどこか納得がいかない様子。
どうやら僕の姉は、先ほど言っていた泥棒猫とやらを助けるというのが癪に障るようだ。
もう一度懇願するように見つめると、響姉は口を開きかけ、すぐに閉じた。
代わりに、舌打ち混じりの小さな息を漏らす。
「ったく、しょうがないな」
そう言いながら、響姉は前方を歩く男たちをじろりと見て、足早に近づきはじめた。
「ねえ、ちょっと」
響姉が声をかけた。
男たちは一瞬振り返るが、僕らの姿を見て警戒したのか、そのまま無視して先へ進もうとする。
「待ってください!お願いします!」
僕は咄嗟に駆け寄り、必死に声を張り上げた。
「雅って子は僕の知り合いなんです!」
男の一人が、驚きに目を見開いた。
「……あの女の知り合いだと?」
もう一人の男も顔色を変えた。
「おい、それヤバくないか?」
二人は焦りを滲ませ、互いに顔を見合わせる。
だが、戸惑いの色が一瞬過ぎると、ダウンジャケットの男の表情が険しくなり、突然僕の肩を荒々しく突き飛ばしてきた。
「うわっ……!」
体勢を崩し、硬いアスファルトに背中から叩きつけられる。
全身に衝撃が走り、視界が揺らぐ。
「……っ!」
が、そのとき、響姉がわずかに目を細めた。
「よくも……啓を……っ!」
響姉の声が夜の静寂に溶けるように響く。彼女の目には冷静な怒りが宿り、男を鋭く見据えていた。風に揺れる金色の髪が、かすかに月光を反射する。
実は響姉は幼い頃、近所のいじめっ子から僕を守るために空手を習い始め、今では黒帯を持つほどの実力者だったりする。
その長年の鍛錬は、戦いの中で余計な動きを排除し、最小の動作で最大の威力を生み出す。
つまり何が言いたいのかというと……怒らせるとかなりやばいのだ……。
響姉は一歩踏み込み、無駄のない動きで鋭く回し蹴りを放った。
「ぐゎっ……!?」
鈍い衝撃音が響き、男の体がぐらつきながら後方へと倒れ込んだ。
背中を強く打ちつけた男は、苦悶の表情を浮かべ、痙攣しながら呻いた。
「な、なんだこいつ……!」
残ったデニムジャケットの男が後ずさる。
響姉はゆっくりと振り向き、冷酷なまでに鋭い瞳を男に向けた。
「次はお前か?」
響姉が一歩前へ進むだけで、男は怯えたように肩を震わせた。
「まま、待ってくれ! 俺たちはただ頼まれただけで……!」
響姉はさらにもう一人の男に向かって踏み出した。
その目つきは鋭く、確かな威圧感が漂う。
男は恐怖で体を強張らせたが、すぐに必死に言葉を絞り出す。
「お、落ち着けって!」
しかし、その言葉もむなしく、響姉は容赦なく再び襲い掛かろうとした、その瞬間——。
「響姉、やめて!」
何とか起き上がった僕は、必死に彼女の腕を掴んだ。
「……もう十分だよ。うちの姉は空手の有段者なんです……これ以上やり合いたくないなら、雅の居場所を教えてください!」
僕の必死な訴えに、男は完全に戦意を喪失し、崩れ落ちるように頷いた。
「わ、、わかった、案内する。公園だ……今、伍代といるはず……!」
男は震えながら答えた。