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第20話 ボーダーライン

 高層ビルのガラス窓が冬の日差しを跳ね返し、眩しい光が路面に広がる。


クラクションの音、遠くから聞こえてくる、電車の到着を知らせるアナウンス、賑やかな広告映像の音声——都市の鼓動が絶えず響く中で、私はふと、先ほど感じた微かな温もりを意識した。


それは寒さのせいではない。


それは、伍代先輩が私を守ってくれたことへの安心感であり、そしてほんの少しだけ、特別な感情かもしれない。


でも、それを言葉にするのは、まだ早い気がした。


「それで、今日はどこに行きたい?なんかリクエストある?」


人混みを抜け、開けた通りへと出た頃、伍代先輩が軽い調子で尋ねてきた。


「え?」


「せっかくのデートなんだから、雅ちゃんの行きたいところに連れて行ってあげるよ」


デート。


その単語が耳に届いた瞬間、胸の奥がドキリと弾んだ。


——初めてのデート。


何を話せばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなくくて、思わず手のひらがじんわりと汗ばんでいく。


「あ……えっと、特に決めてなかったんですけど……」


「そっか。でもせっかくだし、どこでもいいから好きなとこに行こうよ!」


「……はい、そうですね」


ぎこちなく頷きながら、どこか落ち着かない気持ちになる。

伍代先輩と並んで歩いているだけなのに、胸の奥がざわざわして鼓動が早まる。

寒いはずなのに、首元が熱く感じるのはどうしてだろう。


「遠慮しなくていいからね?雅ちゃんが行きたいとこがあれば、どこへでも着いて行くからさ」


伍代先輩の低く穏やかな声が、私の耳元をくすぐる。


そんなふうに優しく聞かれると、余計に迷ってしまう。


「え、と」


考えすぎて、言葉が詰まる。


「じゃあ、今思いついたとこでいいよ」


伍代先輩が、くすっと笑いながら言う。


「本……本屋に行きたいです」


自分でも驚くほど弱々しい声だった。


言い直そうとしたものの、伍代先輩が「いいね、本屋にしよう」とすぐに受け入れてくれたせいで、かえって顔が熱くなってしまう。


——そんな私の反応も、伍代先輩にとっては慣れたものなのかもしれない。


彼の噂はよく耳にする。それも、お世辞にも余りいいものではない噂ばかり。


ただ、彼自身たくさんの女の子から人気がある人なので、そういったやっかみからきた噂が、独り歩きしているのかもしれない。


現に、彼は私に対しては凄く紳士的で、約束をちゃんと守ってくれる人だからだ。


駅前の大きな書店に向かう。

ショーウィンドウに並ぶ本の表紙が、光を反射してきらめいていた。

店内に足を踏み入れると、ふわりと紙の香りが鼻をくすぐる。


「と、ところで買う本って……?」


伍代先輩がどこか困惑した表情で聞いてきた。


「ん?参考書ですけど……?」


「あっ!さ、参考書か!参考書ね、はは……」


聞き返す私に、どこか安堵する先輩。


どうしたのだろう?そう思っていた私の視界に映りこんだものがあった。


「これ……!」


ようやく見つけた一。

長い間探していた本を手に取り浮かれていると。


「見つかってよかったね」


と、伍代先輩が穏やかな声で微笑んだ。


「……はい」


私は小さく頷いた。

その先輩の笑顔を直視できなくて、私は本を抱えるようにして視線を逸らした。


会計を済ませ、店を出た瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきた。


「そういえば、小腹空いてない?ここ、有名なクレープ屋だよ」


伍代先輩が指差した先には、小さなクレープの屋台。


「食べてく?」


「……はい」


メニューを見ながら迷っていると、伍代先輩は「俺はチョコバナナにするけど、雅ちゃんは?」と、あっさり決めてしまう。


「……ストロベリーホイップにします」


並んでクレープを受け取り、寒空の下を歩く。


出来立てのクレープはほんのり温かく、甘酸っぱい苺とホイップの優しい甘さが、口いっぱいに広がる。


「ん……」


ふと横を見ると、伍代先輩の頬にちょこん、とホイップクリームがついていた。


「……あの、ついてます」


「ん? どこ?」


「ここ……」


バッグからハンカチを取り出し、そっと彼の頬に触れる。


「お、おお……っ」


伍代先輩が驚いたように目を見開く。


その反応が妙に恥ずかしくて、私の顔も一層熱くなる。


「……普通に拭いた方がよかったでしょうか……?」


「いや、大丈夫。ありがとう」


さらりとそう言う伍代先輩の笑顔。


その余裕のある態度に、少し戸惑った。


クレープを食べ終えた頃、ふと視線を上げると、目の前にゲームセンターが見えた。温かい空気が漂い、中から楽しそうな音が響いてくる。

店内から楽しそうな音が聞こえてきて、賑やかな雰囲気が広がっている。


 「せっかくだし、ちょっと寄ってみない?」


 「えっと……私あまり得意ではないですけど……少しだけなら……」


 「じゃあ、一緒にやってみようか?楽しいよ!」


伍代先輩とゲームをするのは初めてで、ぎこちないながらも期待と緊張が入り混じる。


どう反応すればいいのか……一緒に過ごす時間が新鮮で、どこか心が弾む気がしながらも、少し戸惑いが残る。


ゲームセンターに足を踏み入れ、賑やかな雰囲気の中でクレーンゲームの前に立ち、慎重にボタンを押す。

だが、アームは思うように動かず、何度も空を掴んでしまう。何度か挑戦するうちに、ようやく小さなぬいぐるみを掴んだ。ホッと息を吐くと、伍代先輩が微笑みながらこちらを見ている。


「やるじゃん!」


その言葉に、私は少し照れくさくなりながらも、小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


そう言いながら、自然と口元が綻んだ。


クレーンゲームを終えると、しばらく館内を歩いた。ネオンの光が揺れ、あちこちからゲームの電子音が響く。

私はいくつかのゲーム機を眺めながら、何をするでもなく時間を過ごした。伍代先輩は隣で楽しそうに景品を見ている。


「そろそろ行こうか」


伍代先輩の言葉に頷きながらゲームセンターを後にすると、外はすっかり暗くなり、映画館の明かりが温かく輝いていた。


「最後に映画でも観ようか?歩き回ったし、ちょっと休憩がてら」


「はい……」


映画館に入ると、甘いポップコーンの香りが漂い、暖かい空気に包まれた。

柔らかいシートに身を沈めると、ふっと肩の力が抜ける。

スクリーンが明るく輝き、静かに物語が始まる。


微笑ましいやり取りに思わず笑みがこぼれ、切ない場面では胸が締め付けられた。


登場人物たちの感情が鮮明に伝わり、まるで自分がその世界に入り込んだかのように心が揺さぶられる。


そして——クライマックス。


主人公たちがようやく結ばれるシーン。


胸がじんわりと温かくなり、言葉にできない感情が込み上げる。

胸が熱くなると同時に、不思議な感覚が広がる。


私は、こんなふうにまた、人を好きになる事が出来るのだろうか……。


その瞬間、隣にいる伍代先輩の動きを感じた。

右手に暖かい人肌の感触、そっと、先輩に手を握られた。

指先が強く絡まる感覚に、胸がざわつく。


驚いて横を見ると、伍代先輩はスクリーンを見つめたまま、穏やかな表情を浮かべていた。

その横顔に、胸の奥がそわそわする。


エンドロールが流れ始めると、ふと隣の伍代先輩に意識が向いた。

彼は静かにスクリーンを見つめている。


映画の余韻に浸りながら、二人で静かに劇場を後にした。


映画館を出ると、夜の街は静かで、遠くのネオンが瞬いていた。

繋いでいた手の温もりが、ひどく際立って感じられる。

冷たい空気が肌をかすめ、現実に引き戻されるような気がした。


「映画館の中、暖房効きすぎてちょっと暑かったね。良かったらちょっと公園でも寄ってく?」


私は戸惑いながらも、手を繋いだまま無言で頷いた。


夜の静けさに包まれた公園。

街の喧騒けんそうから離れ、ひんやりとした空気が肌をかすめる。


ベンチに並んで二人腰掛けると、ふとした沈黙が訪れた。


静寂の中、繋いだ手の温もりだけが、やけに意識される。


「ねえ、雅ちゃん……」


不意に名前を呼ばれた。


伍代先輩がそっと私の手を引く。

その指先はいつもより熱を帯びているように感じられる。

ゆっくりと、躊躇ためらうことなく距離を詰めてくる。

その動きは自然で、けれどどこか手慣れているようにも思えた。


そしてその瞳に、まるでこちらの反応を楽しむかのような、余裕と誘いが混じっているようにも見える。


——この距離のままでいたら、どうなってしまうのだろう。


胸が締めつけられるような感覚が広がり、指先がかすかに震える。


こんな風に近くで誰かを意識したことなんて、今までなかった。


胸の奥がじんわりと熱くなり、息が詰まる。

視線を逸らそうとしても、伍代先輩の目が私を捉えて離さない。

鼓動が早まり、どうすればいいのか分からなくなる。


このまま身を委ねるべきなのか、それとも拒むべきなのか——答えが見つからないまま、時間だけが静かに流れていく。


心臓の音が、耳にまで響くほど大きくなっていた。


私の手を握る先輩の力が、先ほどより強くなる。

そして次の瞬間、掴まれた手と一緒に、私の体は更に強く、引き寄せられた。


瞬間、頭の中をスローモーションのように過ったのは、幼い頃、私をお嫁さんにしてくれると約束してくれた、誰よりも大好きだった、啓の優しい笑顔だった。

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