朝の光が静かに部屋を照らし始める。
壁にかけられた時計の針が進むにつれ、柔らかな陽射しがゆっくりと床を滑り、家具の影を少しずつ淡くしていく。
外は冬の澄んだ空気に包まれ、窓越しに広がるのは凍てついた青空。吐く息が白くなりそうな冷たさがあるはずなのに、室内は暖房のぬくもりが心地よく、静かな朝の温もりに包まれていた。
けれど、その暖かさも僕の心を軽くはしてくれなかった。
ベッドの中で毛布を頭まで引っ張り、身を縮こませる。
まるでこのまま冬眠してしまいたいかのように、じっと動かずにいた。
頭の中に浮かぶのは、昨日のこと。
──喫茶店で真凛と神楽と一緒にいたら、突然脈絡もなく、雅と葵が現れた。
そこから妙な空気になったのは言うまでもない。
雅と葵は、僕にやたらとくっついていた真凛と神楽を警戒、彼女たちは彼女たちで負けじと主張を始めた。
おかげで、僕の目の前では二組が睨み合い、言葉の応酬が繰り広げられることに。
あの空気、居心地が悪かったなんてレベルじゃない。
途中で無理やり話を切り上げて、どうにかその場を収めたものの……正直、気まずさしか残らなかった。
「……はぁ」
朝から気が重い。
このままずっとベッドの中で過ごしたい。何も考えず、何も気にせず、ただ静かに一日をやり過ごせたらどれほど楽だろう。
──と、そのとき。
「おーい、啓! いるかー? 開けるぞー!」
二階の僕の部屋の扉の向こうから、聞き慣れた豪快な声が響いた。
僕の心臓が跳ねる。
「……
普段は大学生で今は一人暮らしをしているはずの姉が、なぜか朝から実家に戻ってきている。
……何か嫌な予感がする。
「おい、起きてるか?起きてるよな?よし!なら入るぞ!」
「え、ちょ──」
ガチャッ!!
止める間もなく、勢いよく扉が開いた。
そして──。
「弟ぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「うわっ!?」
――ドンッ!!
視界いっぱいに映ったのは、長い金色の髪と、勢いよく揺れる響姉の大きな胸。
そのまま僕はベッドに沈み、上には響姉がのしかかる。
柔らかい。
だけど……重い!!
「久しぶりだなぁ! 会いたかったぞっ!!」
間近で見る響姉の顔は、まるでモデルか女優のように整っていた。
すっと通った鼻筋、しなやかなカーブを描く唇、意志の強そうな瞳。
どこを取っても隙がない。自分の姉ながら綺麗な人だと感心してしまう。
などと思った次の瞬間――耳元で響く姉の元気な声と、押しつけられる感触に思考が吹き飛びそうになった。
「ぐ、ぐえぇっ……!? 響姉ちょっと、息が──!!」
「んもう~、相変わらずひ弱だなぁ! もっと弟を補充させろ!」
「補充って何だよ!?ていうか、重い!どいて!!」
「だめだ!久々に弟成分を摂取してるんだから、このままぎゅうってさせろ!」
そう言って、響姉はさらに強く僕を抱きしめてきた。
僕の背中に回された腕の力は容赦がなく、がっちりと固定される。
逃げようとしてもびくともしない。
しかも、近すぎる。
髪からほんのり甘いシャンプーの香りがするし、
頬が柔らかい肌に触れているし、何より──胸が。
「……苦しい。苦しいってば!!」
「えー?甘えてるんじゃないのか?」
「違う!本当にで息が──!!」
僕の顔は、完全に響姉の胸に埋まって窒息寸前。
「なんだ啓?そんなに甘えたいのかぁ? 仕方ないなぁ~」
「あ、甘えたいとかじゃっ!! 本気で――!!」
バタバタともがいているのに、響姉は相変わらず楽しそうに笑っている。
「あ、朝から何しに来たの!?」
必死にもがき、何とか顔を少しだけ上げ問いかけると、響姉は僕の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべた。
「決まってるだろ?啓が賞を取ったお祝いだ。」
響姉は満面の笑みを浮かべながら、僕の背中を軽く叩いた。
「賞を取ったの、一昨日の話だよ?それにお父さんたちが――」
「それがどうした!お前の快挙を直接私が祝ってやれるのは今日なんだから、問題ないだろ?」
そう言って、響姉はウインクしてみせる。
「何が食べたい? 焼肉か? 寿司か? スイーツでもいいぞ。お前が好きなものなら何でもご馳走してやる。それとも……大好きなお姉ちゃんと一日中イチャラブコースにするか?」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「お姉ちゃんと二人でデートして、手を繋いで街を歩くとか?映画館で肩寄せ合って観賞するとか?夜景の綺麗なレストランでディナーを楽しんだ後ホテルに――」
響姉は冗談めかした軽い口調で言っている……けれど、目が本気だ。
「わぁぁっ!朝っぱらから何言ってんの……!?」
「ふふ、何をそんなに慌ててる?お前がその気なら、お姉ちゃんはいつでも付き合ってやるぞ?」
さらりと言って、響姉は軽く髪をかき上げる。
「ほら、お前、小さい頃はお姉ちゃんにベッタリだったろう?あの頃みたいに、今日は思い切り甘えてみるのもいいんじゃないか?」
ねだるような響姉の瞳、むしろ甘えて欲しいと言わんばかりの顔だ。
「そ、それは子供の頃の話でしょ、いい歳した高校生が女の人に甘えるなんて……!」
「なるほど、お前は私を、女として見てくれているわけか」
響姉は少し目を細め、挑発するような笑みを浮かべた。
「そ、そういうことじゃなくて……!」
「なら決まりだな。今日は久しぶりに姉弟水入らずで過ごすか」
「……いや、決まってないし!?」
あまりの押しの強さに思わずたじろぐ。
「ふっ、まぁ選択肢の一つとして提案しただけだ。何を選ぶかはお前の自由だが、何を選んでも私はセットだからそのつもりでな」
「えぇ……」
心底困った僕の様子を見て、響姉は満足そうに笑う。
「で、結局何にする? お前の好きなもの、なんでも言ってみろ」
「……じゃあ、昼は響姉にご馳走してもらおうかな」
「よし、それで決まりだな」
響姉が満足そうに頷いたその瞬間──。
「よぉーし、祝いの記念に、もう一回ハグしとくか!」
「え、ちょっ──」
――ドンッ!!
またもや響姉が僕に勢いよく抱きついてきた。
しかも今度はさらに力強く。
「ぐえぇっ!? ちょっ……!」
「いやぁ~、弟よ、本当にすごいなぁ~! よしよし、めいっぱい褒めてやる!」
僕の体をがっちりホールドしながら、頭をぐりぐり撫でてくる。
「ちょっ! 首が……苦しいってば!」
「んー? やけに体が強張ってるな、さては照れてるのか?」
「そ、そんなわけないだろ!単にく、首が絞まってるだけだから!!」
さらに抱きしめる力が強くなり、僕の顔は完全に響姉の胸に埋まる。
「うっ!?」
……柔らかい。
けど、それ以上に息が……できない。
「ん?そんなにお姉ちゃんの胸が気に入ったのか?」
「ちが……マジで……ヤバい……!」
もがく僕を見て、響姉はようやく事態に気付いたらしい。
「……おっと、すまん。つい力が入りすぎたな」
ようやく解放され、僕は大きく息を吸い込んだ。
押さえつけられていた体がようやく自由になり、ゆっくりと肩を落とす。
何度目だこれ……。
「はぁはぁ……か、勘弁してってば」
そう言うと、響姉は少しだけ苦笑いした。
「悪い悪い。久しぶりだから、ついな」
「ついで済む話じゃないよ……」
僕はぐったりと肩を落としながら、響姉を見上げる。
「もう、響姉はいつも強引過ぎるよ」
「ふふ、まぁまぁ、こうしてお姉ちゃんの愛を受け取れたんだから、よしとしろ」
「いやいや、受け取り方の問題じゃなくて……」
「ほら、ちゃんと息できてるだろ?」
「今はね」
響姉は笑いながら、僕の頭をポンと軽く叩く。
「とにかく、今日はめいっぱい祝ってやるから、覚悟しておけよ」
僕は、まだ息が整わないまま、
「……わかったよ」
と、やれやれと頷いた。
昨日の喫茶店の一件で気分が沈んでいたけれど、こうして響姉が全力で祝ってくれるのは、やっぱり悪い気はしない。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
この嵐のような来訪は別としてだが……。
「昼まで少し時間があるし、それまでゆっくり休め」
「……うん、ありがとう、響姉」
僕が素直にそう言うと、姉は満足そうに頷いた。
「よし、それじゃあお前の部屋でくつろがせてもらうか!」
「え?」
驚く間もなく、響姉は当然のように僕のベッドにどっかりと腰を下ろした。
「啓の匂いもするし、やっぱ実家のベッドは落ち着くな~」
「いや、ちょっと!僕のベッドなんだけど!?ていうか匂いって何!?」
「弟のベッドはお姉ちゃんのベッドでもある。異論は認めない」
ドヤ顔でそう言いながら、響姉は腕を組んでふんぞり返る。
──本当に、昔から変わらない。
姉のペースに振り回されるのは毎度のことだけれど、こうして騒がしくも温かい時間があるのは、やっぱり悪くない。
僕は小さく肩をすくめて、そっと笑みをこぼした。