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第18話 嵐を呼ぶ響子

 朝の光が静かに部屋を照らし始める。


壁にかけられた時計の針が進むにつれ、柔らかな陽射しがゆっくりと床を滑り、家具の影を少しずつ淡くしていく。


外は冬の澄んだ空気に包まれ、窓越しに広がるのは凍てついた青空。吐く息が白くなりそうな冷たさがあるはずなのに、室内は暖房のぬくもりが心地よく、静かな朝の温もりに包まれていた。


けれど、その暖かさも僕の心を軽くはしてくれなかった。


ベッドの中で毛布を頭まで引っ張り、身を縮こませる。

まるでこのまま冬眠してしまいたいかのように、じっと動かずにいた。


頭の中に浮かぶのは、昨日のこと。


──喫茶店で真凛と神楽と一緒にいたら、突然脈絡もなく、雅と葵が現れた。


そこから妙な空気になったのは言うまでもない。


雅と葵は、僕にやたらとくっついていた真凛と神楽を警戒、彼女たちは彼女たちで負けじと主張を始めた。


おかげで、僕の目の前では二組が睨み合い、言葉の応酬が繰り広げられることに。


あの空気、居心地が悪かったなんてレベルじゃない。


途中で無理やり話を切り上げて、どうにかその場を収めたものの……正直、気まずさしか残らなかった。


「……はぁ」


朝から気が重い。


このままずっとベッドの中で過ごしたい。何も考えず、何も気にせず、ただ静かに一日をやり過ごせたらどれほど楽だろう。


──と、そのとき。


「おーい、啓! いるかー? 開けるぞー!」


二階の僕の部屋の扉の向こうから、聞き慣れた豪快な声が響いた。


僕の心臓が跳ねる。


「……響姉きょうねえ?」


相沢あいざわ 響子きょうこ

普段は大学生で今は一人暮らしをしているはずの姉が、なぜか朝から実家に戻ってきている。


……何か嫌な予感がする。


「おい、起きてるか?起きてるよな?よし!なら入るぞ!」


「え、ちょ──」


ガチャッ!!


止める間もなく、勢いよく扉が開いた。


そして──。


「弟ぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


「うわっ!?」


――ドンッ!!


視界いっぱいに映ったのは、長い金色の髪と、勢いよく揺れる響姉の大きな胸。

そのまま僕はベッドに沈み、上には響姉がのしかかる。


柔らかい。


だけど……重い!!


「久しぶりだなぁ! 会いたかったぞっ!!」


間近で見る響姉の顔は、まるでモデルか女優のように整っていた。

すっと通った鼻筋、しなやかなカーブを描く唇、意志の強そうな瞳。

どこを取っても隙がない。自分の姉ながら綺麗な人だと感心してしまう。


などと思った次の瞬間――耳元で響く姉の元気な声と、押しつけられる感触に思考が吹き飛びそうになった。


「ぐ、ぐえぇっ……!? 響姉ちょっと、息が──!!」


「んもう~、相変わらずひ弱だなぁ! もっと弟を補充させろ!」


「補充って何だよ!?ていうか、重い!どいて!!」


「だめだ!久々に弟成分を摂取してるんだから、このままぎゅうってさせろ!」


そう言って、響姉はさらに強く僕を抱きしめてきた。


僕の背中に回された腕の力は容赦がなく、がっちりと固定される。

逃げようとしてもびくともしない。

しかも、近すぎる。


髪からほんのり甘いシャンプーの香りがするし、

頬が柔らかい肌に触れているし、何より──胸が。


「……苦しい。苦しいってば!!」


「えー?甘えてるんじゃないのか?」


「違う!本当にで息が──!!」


僕の顔は、完全に響姉の胸に埋まって窒息寸前。


「なんだ啓?そんなに甘えたいのかぁ? 仕方ないなぁ~」


「あ、甘えたいとかじゃっ!! 本気で――!!」


バタバタともがいているのに、響姉は相変わらず楽しそうに笑っている。


「あ、朝から何しに来たの!?」


必死にもがき、何とか顔を少しだけ上げ問いかけると、響姉は僕の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべた。


「決まってるだろ?啓が賞を取ったお祝いだ。」


響姉は満面の笑みを浮かべながら、僕の背中を軽く叩いた。


「賞を取ったの、一昨日の話だよ?それにお父さんたちが――」


「それがどうした!お前の快挙を直接私が祝ってやれるのは今日なんだから、問題ないだろ?」


そう言って、響姉はウインクしてみせる。


「何が食べたい? 焼肉か? 寿司か? スイーツでもいいぞ。お前が好きなものなら何でもご馳走してやる。それとも……大好きなお姉ちゃんと一日中イチャラブコースにするか?」


「……は?」


一瞬、頭が真っ白になった。


「お姉ちゃんと二人でデートして、手を繋いで街を歩くとか?映画館で肩寄せ合って観賞するとか?夜景の綺麗なレストランでディナーを楽しんだ後ホテルに――」


響姉は冗談めかした軽い口調で言っている……けれど、目が本気だ。


「わぁぁっ!朝っぱらから何言ってんの……!?」


「ふふ、何をそんなに慌ててる?お前がその気なら、お姉ちゃんはいつでも付き合ってやるぞ?」


さらりと言って、響姉は軽く髪をかき上げる。


「ほら、お前、小さい頃はお姉ちゃんにベッタリだったろう?あの頃みたいに、今日は思い切り甘えてみるのもいいんじゃないか?」


ねだるような響姉の瞳、むしろ甘えて欲しいと言わんばかりの顔だ。


「そ、それは子供の頃の話でしょ、いい歳した高校生が女の人に甘えるなんて……!」


「なるほど、お前は私を、女として見てくれているわけか」


響姉は少し目を細め、挑発するような笑みを浮かべた。


「そ、そういうことじゃなくて……!」


「なら決まりだな。今日は久しぶりに姉弟水入らずで過ごすか」


「……いや、決まってないし!?」


あまりの押しの強さに思わずたじろぐ。


「ふっ、まぁ選択肢の一つとして提案しただけだ。何を選ぶかはお前の自由だが、何を選んでも私はセットだからそのつもりでな」


「えぇ……」


心底困った僕の様子を見て、響姉は満足そうに笑う。


「で、結局何にする? お前の好きなもの、なんでも言ってみろ」


「……じゃあ、昼は響姉にご馳走してもらおうかな」


「よし、それで決まりだな」


響姉が満足そうに頷いたその瞬間──。


「よぉーし、祝いの記念に、もう一回ハグしとくか!」


「え、ちょっ──」


――ドンッ!!


またもや響姉が僕に勢いよく抱きついてきた。


しかも今度はさらに力強く。


「ぐえぇっ!? ちょっ……!」


「いやぁ~、弟よ、本当にすごいなぁ~! よしよし、めいっぱい褒めてやる!」


僕の体をがっちりホールドしながら、頭をぐりぐり撫でてくる。


「ちょっ! 首が……苦しいってば!」


「んー? やけに体が強張ってるな、さては照れてるのか?」


「そ、そんなわけないだろ!単にく、首が絞まってるだけだから!!」


さらに抱きしめる力が強くなり、僕の顔は完全に響姉の胸に埋まる。


「うっ!?」


……柔らかい。


けど、それ以上に息が……できない。


「ん?そんなにお姉ちゃんの胸が気に入ったのか?」


「ちが……マジで……ヤバい……!」


もがく僕を見て、響姉はようやく事態に気付いたらしい。


「……おっと、すまん。つい力が入りすぎたな」


ようやく解放され、僕は大きく息を吸い込んだ。


押さえつけられていた体がようやく自由になり、ゆっくりと肩を落とす。


何度目だこれ……。


「はぁはぁ……か、勘弁してってば」


そう言うと、響姉は少しだけ苦笑いした。


「悪い悪い。久しぶりだから、ついな」


「ついで済む話じゃないよ……」


 僕はぐったりと肩を落としながら、響姉を見上げる。


「もう、響姉はいつも強引過ぎるよ」


「ふふ、まぁまぁ、こうしてお姉ちゃんの愛を受け取れたんだから、よしとしろ」


「いやいや、受け取り方の問題じゃなくて……」


「ほら、ちゃんと息できてるだろ?」


「今はね」


響姉は笑いながら、僕の頭をポンと軽く叩く。


「とにかく、今日はめいっぱい祝ってやるから、覚悟しておけよ」


僕は、まだ息が整わないまま、


「……わかったよ」


と、やれやれと頷いた。


昨日の喫茶店の一件で気分が沈んでいたけれど、こうして響姉が全力で祝ってくれるのは、やっぱり悪い気はしない。


そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


この嵐のような来訪は別としてだが……。


「昼まで少し時間があるし、それまでゆっくり休め」


「……うん、ありがとう、響姉」


 僕が素直にそう言うと、姉は満足そうに頷いた。


「よし、それじゃあお前の部屋でくつろがせてもらうか!」


「え?」


 驚く間もなく、響姉は当然のように僕のベッドにどっかりと腰を下ろした。


「啓の匂いもするし、やっぱ実家のベッドは落ち着くな~」


「いや、ちょっと!僕のベッドなんだけど!?ていうか匂いって何!?」


「弟のベッドはお姉ちゃんのベッドでもある。異論は認めない」


ドヤ顔でそう言いながら、響姉は腕を組んでふんぞり返る。


──本当に、昔から変わらない。


姉のペースに振り回されるのは毎度のことだけれど、こうして騒がしくも温かい時間があるのは、やっぱり悪くない。


僕は小さく肩をすくめて、そっと笑みをこぼした。

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