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第16話 少女たちの覚悟

 東京の夜景を一望できるタワーマンション。その最上階にあるモダンなバスルームには、暖かい蒸気が立ち込めていた。


ガラス張りのシャワールームに、天井から降り注ぐ温かな水が広がる。指で濡れた髪をかき上げながら、私はそっと首を傾げた。


シャワーの流れが、白い肌を伝い、背中から腰へと流れていく。

滴る雫が鎖骨をなぞり、胸元を濡らしていく。


目を閉じた。


──今日、彼に会った。


相沢啓。


思い返すと、自然と微笑んでしまう。


戸惑ったような視線、頬を染めて焦る仕草、語尾が震える声。


あんなに簡単に動揺するなんて、思ってもみなかった。


「……ふふっ」


シャワーを止め、静かに息を吐く。


ガラスの扉を開けると、冷たい空気が肌に触れ、思わず肩をすくめた。壁にかかっていたふわふわのバスタオルを取り、濡れた髪を包むように押さえる。指で軽く水分を拭き取ってから、バスルームを出た。


廊下を歩きながら、指で滴る水を払う。リビングの窓の向こうには、冬の東京の夜景が広がっていた。


ビルの灯りが宝石みたいに瞬き、川沿いの街路樹がライトに照らされ、風に揺れている。


私はバスタオルを肩にかけたまま、窓際まで歩いていった。


──雅と葵。


今日、初めて出会ったはじめ先生の幼馴染たち。

彼女らが先生を見つめる目は、まるで裏切り者を見るようだった。


「なんで、あんな目で……」


はじめ先生はただ控えめで、目立つことを嫌う男の子だった。


でも、それだけじゃない。


あれだけの賞を取った人だ。本当は誰よりも努力して、苦労を重ねてきたはず。

私もプロとして必死にやってきたからこそ分かる。

才能だけじゃ乗り越えられない事を。


だからこそ、彼はもっと称賛されるべきだ。

それなのに、彼の過去を知る幼馴染たちの態度は──なんだか、腹立たしかった。

もっと、はじめ先生の本当の姿を知るべきなのに。


そっと唇を噛む。


そのとき。


スマホが震えた。


テーブルの上で光る画面には、「香坂真凛」の名前。


私と同じ事務所に所属する女優であり、唯一心の許せる友人。


少し意外に思いながらも、通話ボタンを押す。


「もしもし?」


『……神楽?』


控えめで、どこか不安げな声。


「どうしたの?」


『なんか、いろいろ考えてたら寝れなくなっちゃって』


……ふふっ。やっぱり、真凛も私と同じことを考えていたんだ。


『神楽は?』


「私も、今日のこと考えてた」


『そっか……』


少しの沈黙。


『ねえ……神楽、先生のこと、どう思う?』


指先でタオルの端をくるくると巻きながら、私は口を開く。


「どうって?」


『なんか今日、すごく先生に興味を持ってる感じがして』


「……まあね」


『もしかして、好きになった?』


その言葉に、動きを止める。


「……さあ、どうかな」


『なにそれ……ハッキリしないなぁ』


「自分でも、よくわかんないの」


『……そっか』


真凛の声が、少しだけ寂しげに聞こえた。


『……じゃあさ、なんで先生のこと、気に入ったの?』


夜景を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。


「……私ね、ちょっと前まで、歌手をやめようか迷ってたの」


『え……?』


「私がアイドルバンドやってたのは知ってるでしょ? でも、メンバーの不祥事とかいろいろあって解散して……社長にソロを勧められて歌い続けてたけど、もうその頃には、歌う意味がわからなくなってたの」


『……』


「そんなとき、社長が“映画化するかもしれない小説があるって言うから、試しに読んでみたの……衝撃だった」


自然と口元が綻ぶ。


「すごく感動して、信じられないくらい創作意欲が湧いたの。この物語に合う歌詞は?音は?って次々とインスピレーションが湧いて、また歌いたいって思えた。それで、その小説を書いた人に会いたくなった」


『……!』


「それが、はじめ先生だったんだ」


真凛は、しばらく何も言わなかった。


そして、次に聞こえたのは、少し震えた声。


『……神楽』


「なに?」


『……それ、私も同じ』


「え……?」


『私もね、俳優をやめようか迷ってたの』


 瞳が揺れる。


『この業界って思ってたより厳しくて、辛くて……もう疲れちゃってた。でも、社長に“試しに読んでみろ”って言われて』


「……」


『読んだ瞬間、決めた。この作品が映画化されたら、絶対に主演をやるって。それで、もう一度続けようって思ったの』


「真凛……」


『だから今日、その小説を書いた先生に出会えて、想像してたのとは違ったけど……すごく、優しくて素敵な人だなって思った』


私は、窓の外を見上げる。


「私たち、同じだったんだね。ふふ、社長に感謝しなきゃ」


『うん……』


二人とも、しばらく無言だった。


でも、同じ想いを抱えていたことが、ただ嬉しかった。


『……でも』


真凛が静かに言う。


『私は神楽みたいに積極的にはなれないから』


「わかってる。でも、真凛は真凛なりに想えばいいんじゃない?」


『……うん』


電話の向こうで、彼女の声が少しだけ柔らかくなった。


『夜遅くにごめんね、付き合ってくれてありがとう神楽』


「ううん、気にしないで」


『おやすみ……』


「おやすみ、真凛」


スマホの通話が切れ、部屋には静寂が戻った。


手のひらでスマホを軽く転がしながら、ぼんやりと窓の外を眺める。


高層マンションの窓から見下ろす街は、まるで無数の星が地上に降り注いだみたいに輝いていた。

車のヘッドライトが流れるように動き、遠くのビル群がネオンの光で彩られている。


「……ふふっ」


思わず、小さく笑ってしまう。

本当に、これからどうなるんだろう。


はじめ先生との出会い、幼馴染たちとの衝突、そして真凛との想いの共有。

今日一日で、まるでジェットコースターみたいにいろんなことが起こった。


でも、不思議と嫌な気分じゃない。

むしろ、心の奥がくすぐったくて、少しだけ暖かい。


肩にかけていたタオルを外し、ゆっくりと髪を拭いた。

しっとりとした毛先が、さらさらと指の間を滑り落ちていく。


……先生のことを考えると、どうしても頬が緩んでしまう。


ふと、窓に映る自分の姿を見つめる。


本当に、この気持ちは何なんだろう?


真凛に「好きになったの?」って聞かれたとき、はっきり答えられなかった。

だけど、確実に彼に惹かれている自分がいる。


恋? それとも、ただの尊敬からの好意?


まだわからない。


でも──


「……もう少し、知りたいな」


彼のことを、もっと知りたい。

もっと、彼の表情を見たい。

もっと、彼の近くにいたい。


それが、今のあたしの本音だった。


小さく息を吐いて、ソファに身を沈める。

温かいルームウェアを着る前に、もう少しだけ、この静かな夜の空気を感じていたかった。


東京の夜景を眺めながら、静かに目を細める。


──また会えるかな。


そう思うだけで、胸が少しだけ高鳴った。


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